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あの雲の下まで その三(全十話)

     三 無銭旅行

四兄は歯を磨きながらラジオのスイッチを入れた。
「8月19日、本日のニュースです、富士銀行雷門支店で不正融資事件が起きました。雷門支店前副長〇〇正男と東京・港区の清涼飲料販売業の男性が共謀し同銀行から19億400万円の不正融資を受けていたことが、今朝警視庁の調べでわかりました……。」音を大きくしろと父は四兄に命じた。

私は夕食のちゃぶ台でもくもくと飯を喰った。ここ数日、哲兄とは口をきかず、旅についてまったくそしらぬふりをした。気にしてはいるがヒッチハイクなど、ごめんだとおもった。

食後になると姉がギターを抱える。哲兄が歌う。これにあわせ、居合わせるた兄弟らが一斉に歌う。
brother'sfore、Kingstontrioなどの曲は、これまで哲兄が教えてきた。

しかし今宵、私はそんな気分ではなかった。
姉兄らもその不機嫌を察していた。 
 畳の上へころがって、ああ、いやだいや、面倒くせえ、と心でつぶやいた。喧嘩のことが気にかかっていた。待ち伏せされているのは家のものの誰もしらない。

夏休みは終わろうとしていた。
私は毎日、日に焼けて黄ばんだ畳のうえであおむけになり、さながら干からびたコガネムシのようにごろごろとするばかりか、身も心もふさいでおり、にっちさっちもいかない。このままではまずいと感じていた。

ヒッチハイクというのをやってみるか、心が動いた。だがカタカナ言葉が気にいらない。これは家出だ、家出をすることにしよう。

ある夜明け、私はもの音をたてぬよう地図帳の数ページを切りとり、毛布をリュックにつめた。だれかにみられると家から出られなくなる、そんな気がした。

八畳一間に四人、まるで魚河岸のマグロのように横たわる兄たちはいびきをかきながらぐっすりと眠っている。

哲兄の腹でも踏んづけてやろうとおもったけれどやめた。それでも腹のむしがおさまらない。手の指を踏んづけてやった。

哲兄はううっ、とかなんとかいって目を覚ましそうになったが寝がえりをうち、また眠った。 ざまあみやがれ。

すり切れた青カヤをくぐり台所へいって顔を洗った。

ついでに母のがま口から三千円ほどをくすねた。後ろめたい気がする。切りとった新聞紙のはしに、金かりた、と書きおきした。家出という言葉が浮かんだけれど、それを消した。そらぞらしい。

行き先はあてずっぽうに西のほうとだけ決めていた。ときはすでに秋ぐち、あちらはまだ寒くならないだろう、理由はそんなものだ。さてそこへ向かうにはいったいどうすればいいだろう。

ともかくまず国鉄だ。東海道線を乗り継ぎ、国道1号に接続するところを目指した。電車に揺られながら地図を眺めると戸塚という文字が大きくみえた。

駅を降りた。ティーシャツ、ジーパンにリュックを背負うという格好で国道を歩きだしはじめた。さてはてこの先どこを目ざすか。

これまで父や母から地方に親戚がいると聞いたことはなかった。みな下町生まれだ、したがってこれを頼るわけにいかない。田舎へ帰る、夏休みという感懐や郷愁のようなものを、私は生まれながらにして抱いたことはなかった。ふとあるとき耳にした原爆のことが頭にうかんだ。広島、長崎、ずいぶん遠い。ため息をついた。ともかく行ける所まで、持ち金が底をつくまで西へいこう。

学校? 授業? このまま帰れなくなるかもしれない。そんなものどうだっていい。行ったさきでしばらく働きながら暮らすという手もあろう。それに歯の欠けた不良らにしばらく追われずにすむ。 

――空は青く、白い雲がながれていた。緑々とした山並みがみえた。農道がみえた。こがね色の田畑が目のまえに広がってきた。

道ばたでひと休みして水筒の水をあおり、そしてまた歩きはじめた。あの山のむこう、遠く空に浮かぶあの雲の下まで歩こう、歩こう。歩け。

どうかして涙がぽろりとこぼれてきた。そうかとおもうと堰(せき)をきったようにそれがあふれ出てくる。情けないヤツだとおのれをなじった。

自分を袖にしたその名をつぶやいてみた。それからバカといってタオルで顔をぬぐった。「ふられの与三郎」と兄たちにひやかされた。「うだつのあがらねぇ野郎」と父にいわれてきたこの夏、それでもなお立ちなおれない私なのだった。

歩きつづけておよそ三時間、頭はもうろうとしてきた。いよいよ自動車にのせてもらうことにしよう。

ふりかえって車道を眺めた。うまれてはじめてのヒッチハイクである。車はほんとうに停まってくれるのだろうか。

つぎからつぎへと車がとおる道ばたで、車列をみつめながらぼうっとつっ立ったままでいた。やはり甘くなかった。

あたりまえだ、手をふれ、そら耳が聞こえてきた。

車列にむかって大きく手をふった。

すると車列のなか、あるドライバーははじめてこちらをみた。目が合う、手をふる、深々と頭を下げる。ドライバーは手をふりかえしてくる。手をふりかえすもののいっこうに車を停める気配はない。速度を落とさずに幾台も通過するのが見えるだけだ。私はがっくりと肩をおとした。

それでもこの動きを繰りかえしていると列のうしろ、一台の青い小型トラックが五十メートルほど先で速度をゆるめた。

私は猛然と走った。

トラックはキィキィ音を立てながら停車した。     (つづく)

 

 

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