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小説 月影
Matii
二十星霜あまり前、余の身も心も病にとり憑かれたるやうのことありけり。おりしも子、産まれ出でんとする年にありて、え忘れられじ。
思へばあの忌まわしき梅雨どき、風邪に罹りて咳の止まらざるより悲劇のはじまり、やがて声失ひ嗄れ声以てやうやう暮らしたるに声のひとつとして出でぬ。いよいよ苛立ち募りぬべし。
十日、二十日と巷の医院に通院せども失声、なほ治らず。
喉頭癌に罹りたればならん、心に唐突なる不安の湧き起こりぬるこそ恐ろしけれ。
町医者曰く、さして案ずるもなかりきと。
されど、余のあまりに狼狽ししさまを思ひ案じ耳鼻咽喉科を紹介せむと、医師の筆もて案内状を書かれけるも、封印せらるる書類の中身、不安の現実にやならざらんと余の心に新たなる不安ぞ抱かせしむる。
*
まわりて大きめなる病院へ赴きたり。
医師曰く、失声の由、声帯のポリープにあり、良性なりと診断されき。
されどそは悪性へと変じたらざらむや、不安なる心、雪だるまの如く膨らみ来たり。
折から突如、口中内上顎にあめ玉ほどなる隆起するものを感じ覚へき。
いよいよ恐れの単なる思ひ込みにあらざりて悪性へ変じたりしやと思ひ悩みぬ。
子を宿せる妻ありて、なお歩みままならぬ娘子、五歳なる長子もあり。
余の命存へざらましかば、こなるか弱き妻子らが将来、いかでか暮せられましを。
嗚呼、余が亡きあと細腕なる妻、乳飮み子らの寝食はいかにや。
病の不安は云わずもがな、一寸先なる未来将来といへども暗黒、とれやとやと見つめけれども何ひとつとして見えざるなり。
妻子を案ずる心ぞふさぎける。
火だるまが火だるまを誘ひ呼ぶが如き悲惨なる、凄惨なる、怯えたる気、忽ち余の心をおおひつくしたり。
*
幾院の診察を仰ぎみるに及びて、とうとうJ大医院に診察を請へり。
されど応えのみな同じなり。
異変なし、隆起急なるものでなし、案ずるにあたらず。
束の間、安堵の訪れこそ心安しけれ。
されど湯島高台より神田川、お茶の水まで歩みすすみたる僅かなる間におもいわづらひの出でぬべし。
生まれこのかた三十星霜あまり、口中の意識なきこと果たしてあらんや、日々舌が這い回るにつけ、口中違和に気づかぬことあるまじ。
医師の見落としならんかと考えしうち、不安のふたたびぬくりと頭をもたげ来、恐ろし。
*
家へ戻りてもなお、いかんともしがたき恐怖にさひなまれぬ。
重々しき腹の抱へたる妻、且つ疎ましげなる子らの泣き声などありけり。
「医者はなんでもないと…もう心配しないでいい。」などと、つくり嗤ひうかべたる余が落胆ぶり、身が表さぬ訳なし。
そを察したる妻、腹の辛きを隠しつつも余が手を握り、励ましを与たへけり。「大丈夫よ、きっと大丈夫。」
母胎の子の具合は如何にや、余は肥へたる腹に顔近づけるまま、ほとほとと涙をこぼれ落としたり。
かくして妻の膝にて辛さ、苦しさ、悲しさに打ちひしがれる心を得るは、たしか盛夏夕暮れのこと。
*
日過ぎて初秋、疑心暗鬼なる恐怖は癒えぬのみならず増すばかりなり。
医師、皆是信ずる能はざりて、沈痛なる想ひ、いよいよ極まるべし。
妻の懸念を忍びおもひて口に出ださざるも、苦しさに囚はるる余の心、死を想ふことなむありぬべし。
*
どん底なる気に陥りし深更、黄泉の国とは如何なる処かやなどと夢みごごちなる心持ちもて、いずれともなく誘はるるが如く、とぼとぼ満月に照らし出だされたる放水路の岸を徘徊しつ。
いっそこのまま流るる河に身を投げたれば、如何に心の楽にあらまし。
いざ何処がよからむと、下駄を揃へる処探し見まわす。
あたかも魂の抜かれたる者の如し。
茫洋と歩めば歩むほどに、移りゆく河面に映りたる対岸の灯影、逆しまなる蜃気楼の如し。されど河面に反映せる月影ばかりは、且つ消え且つ現れ、歩みに疎ましげにまとわりつきたり。
見るともなく上を仰ぎみゆれば、紺青の夜空に兎を腹に抱へたるが如き満月の気怠げに丸み帯び、赤黄色に怪しげなり。
余は歩を休め、しばし滔々と流るる黑々としたる河ぞ眺むる。
しやせまし、せずやあらまし、おほやうはせぬがよきなり
などと古への歌など思ひおこしたるも、いざ、ここへ入水せんと心を決ししおり、
「駄目よ。」と、耳に幻が如き声の聞ゆるに、はたと我れに立ち返りぬ。
辺りを見巡らせど人影なし。あな、これ河面に反映せる朧気なる月影の発しける声にやなからん、まさか、こなることあらざるべし。
心を引き締め、ふたたび処求めつつ歩み出だせば、まとわりつきたる月影、いまだえ消へず。
枯れたる如き葦原の岸辺ありて、さてここにてと、心を決めんとする正にその時、今度ばかりは、
「死んでは駄目。」と、明らかなる声の耳に届きける摩訶不思議。吹く風に揺れたる河面に形なさぬ月影の反映の、「生まれる子の名前はどうするの、顔を見てからでも遅くないのでは。」と励ましす声にかわりたり。
ぐぐと後ろ髪を曵かるる心持ちしし余、やむなく入水を踏みとどまれるに至れり。
*
後ろへも下がれず前にも進めぬ、さりとて今ここに居ることさへ能はぬ心の極苦、何処よりか来たらむ。何故にやこれまで虐め痛めんや。
膝をつき草むらにうつ伏したるまま、涕落つること百余行、摧蔵悲哀。
月影皎々とせる秋の夜、折もしも蟋蟀の啼く声のしきりなりけり。
*
精神科なるところはいかにや、さにあらずなどと思ひ迷ひたるも数日の後、TMクリニックなる処へ重き足を引きつ。
幾度も医院の扉に手を触れんとすれども、押し入ること能はず。
かくなる科の語が余をして抵抗せさせしがためなり。
勇を奮ひて白き格子戸をおし開けば、ちりりん、ちりりん、鈴の音の聞こへたるこそ侘びしけれ。
されど老医師TMの余を抱きしめんばかりに優しく迎へ給ひぬ。
小半時の診療のうち、涙ぞある、安堵ぞある、さながら神に出で会ひ給ふが如し、心の洗はれむ気を得ぬべし、いみじ。
*
乱に曰く、余が病の由悟りしも、治療に要せし時、さらにふた年あまり経たり。鑞を嚼むが如き日々、刻々とうち過ぎつ。
人事と云ひ、事象と云ひ、ひとつとして余が心の不安を長ずる媒とならざるものなし。
されど傷口のうす皮の、一枚一枚剥がされらんが如き、かの不安、かの苦、かの憂ひ、日一日と忘却へ至りぬべし。
屈原『天問』に斯くの如くあり。
曰遂古之初 誰傳道之
上下未形 何由考之
冥昭瞢闇 誰能極是
馮翼惟像 何以識之
(中略)
夜光何徳 死則又育
蕨利維何 而顧菟在腹
いわくすいこのはじめ たれかこれをつたへいへる
しょうかいまだかたちあらずと なによってこれをかんがへし
よるもひるもぼうあんなりしと たれかこれをきわみし
ひょうよくとしてただかげのみなりしと なにをもってこれをしりたる (中略)
やこうはなんのとくありて ししてまたいくるや
そのりこれなんぞや ことはらにあるは
古詩を読みてのちに思ひけるに、夜光に徳ありと覚ゆるべし。
つたなき余が命を見棄てざりしがためなり。 (了)
作後贅言
あれから半世紀が経て、
日々暮らすうちにからだの病ではないと悟りました。
だがときどき沈む状態、これは体質なのかと。
健康薬品とおもって眠剤の服用を続けてます。
さらに10年ほどに発することを理解、
ふさぎの虫と名付けました。
自身のリズムとか習性などかかわるようです……。
本を読み、写し、そして拙い文を書きつつ紛らわせます。
最近はふさぎの虫がつれてくる感覚を奪うようにしています。