見出し画像

【小説】もう一度、愛を4


プリムローズ 4.そばにある香り





 葵先輩が好きだった。
 
 そう、あの頃の想いや記憶を思い出してから、それは止まってはくれなかった。ことあるごとに、自分の心の中に侵食してくるあの頃の記憶は、優しく甘いものばかりじゃない。

 葵先輩が好きで、好きで。
 苦しくて、辛かった。

 その苦しさから逃げてしまったのは自分自身。だから、全ては自分のせいなのに。




 あの海の日から数日経った。
 毎日の様に私の家に入り浸っていた圭太は、夏休みの終わり頃からバイトを変えたからと言って、あまり会えなくなった。
 でも私にとってそれは都合が良かった。
 どうしても昔のことを思い出してしまう日は、圭太に会うのが辛かったから、今から行くというメールに断りの返事をする事も多くなった。だから、向こうから会えないと言われた方が楽だったのだ。
 
 いつまでもこのままじゃいけない。
 そんな事分かってる。
 
 けれど、どうしたらいいのか分からなかった。
 あれから葵先輩には相変わらず会えないし、何かを始めることも終わることも出来ないで、ぐずぐずと昔の記憶に浸るしか出来なかった。
 それが可愛い恋人を傷つけている事だって分かっているのに。それを手放すことも出来ない私は、なんてズルい女なんだろう。




 仕事の帰り道。
 ふらりと立ち寄ったのは駅から少し離れたところにあるカフェだ。アンティークな店内は落ち着いた雰囲気で居心地が良い。何より、カウンターの奥に立ってコーヒーを淹れている彼女目当てで、と言ったほうが一番いいんだけど。
「いらっしゃい」
「うん。おすすめのコーヒーください」
 カウンターに座りメニューも開かずにそう告げると、彼女三崎杏子みさききょうこは微笑んでからテキパキと仕事をし始めた。
 杏子は大学で知り合った友人だ。普通に当たり障りのない会社に就職した自分とは違って、杏子は就職はせずに叔父さんのこのカフェを手伝っている。
 自由で芯の強い杏子が、羨ましくもあり眩しい。でもその自由で強い杏子だから、つい甘えてしまうことが多くて。大学時代から、何か悩み事があると杏子に聞いてもらうことが多かった。

「お待たせしましたー」
「ありがとう……あれ、コーヒー頼んだよね?」
 目の前に差し出されたのは、空のカップソーサーとポットで。丸いガラスの中でお花が揺れていて、ゆらゆら揺れるそれを見ていると心が落ち着いていく気がした。
「何か疲れてそうだったからカモミールティーにした」
「へぇ……飲んだこと無いかも」
「飲んでみて」
「……うん、甘くて爽やか」
「でしょ?今日よく眠れるよ。……で?どうした?そんなにクマ作って」
 カウンターの中で杏子が自分の下まぶたに人指を当てる。つられて自分の下まぶたに手を当ててみたけど、今朝メイクをした時どうだったか思い出せない。それくらい、頭の中で葵先輩の事が渦巻いている。
「……実はね、高校の時の先輩に会ったの……偶然、たまたまね、本当に偶然……」
「…………」
「古賀先輩って言って……」
「あぁ!いつも奈々が言ってた先輩?忘れられないって大学の時よく言ってたよね」
「…………うん」
 なかなか次の恋に踏み切れない自分を杏子は心配してくれていて。杏子にはあの頃の事を全てを話していた。
 何も気持ちを伝えることも出来ないまま葵先輩が卒業して、何となく過ぎてしまった高校生活は恋なんて出来なかった。
 それでも、大学に入って新しい環境と人間関係の中に身を置けば、葵先輩の事も忘れられるし、次の恋だって出来る。そう思っていたのに。
「大学の時結構サークルの子とかに告白されてたのに奈々全然見向きもしなかったもんね」
「……そんな事は無いけど……」
「それで、お酒飲むといつも言ってたよね。……忘れられない人が居るって」
「……そうだっけ……?」
「お酒飲んでる?最近」
「……仕事の飲み会くらい」
「そっか。……圭太くんの前では飲まないほうがいいかもね」
 圭太と付き合い始めたのは、彼がまだ十九歳の時だったから、必然と一緒にお酒を飲むなんて事は無くて。その流れからか、二十歳を過ぎた今もデートや家でお酒を飲んだりする事もあまり無い。
 だから圭太の友達に会ったあの日、居酒屋で楽しそうに盛り上がっている圭太を見て、自分の知らない間に彼らとお酒の飲み方を覚えていたんだなと思って。
 また一つ疎外感を感じたのも事実で。
「……葵先輩に会って、昔の事とか色々思い出しちゃって……だから、何か圭太に会うのが後ろめたいと言うか……なんか……」
 一つ一つ言葉にすると、罪悪感が増していく気がして語尾が段々と弱くなっていく。
「……先輩の事、まだ好きなの?」
「…………っ……」
 俯いた上から直球の言葉を投げかけられて、カップを持ったまま思わずフリーズしてしまった。
 
 まだ、好きなのだろうか。

 自分の心には圭太が居る。それは紛れもない事実だ。なのにこんなにも気持ちが揺らぐのは、葵先輩の事を今でもまだ好きだからなのだろうか。
「……好き……だった。それは本当」
「今は?」
「今は…………」




 ――カランカラン

 ドアベルがなって反射的に入り口のほうに視線を送ると、そこにはアンティークな店内には不釣り合いな金髪の一真くんが立っていた。
「……え、一真くん?」
「外から奈々さんの事が見えたから」
「…………」
 入り口で佇む一真くんは、前に見た時頼も少し怖い印象で。元々キツめの目が更に強く怒りを帯びている様に思えた。
「……奈々、あっちのソファ席いいよ」
 そんな様子を察したのか、カウンターの中の杏子が店の奥のソファ席を片付けてくれて。一真くんと対面する形でソファ席に座ると、店内に流れていたはずのJAZZが耳に入ってこなくなった。
「いらっしゃいませ」
「アイスコーヒーで」
「かしこまりました」
 注文を受けた杏子がカウンターに入っていって作業始める。その姿を見届けてから、カモミールティーのカップを両手で包んでみたけど。冷えた指先は温まってくれなかった。
「…………」
「…………」
 元々、一真くんは口数が少ない方だと思う。初めて会った居酒屋も、この間の海も。自分から話し出すというよりかは、聞き役といった印象だったからだ。
「えっと……」
 だからと言って。今、目の前にいる少し怒ったような一真くんにかける言葉なんて見つからなくて。一真くんが不機嫌そうにしている、理由は何となく察することもできるから。何を話せば言いのか思考を巡らせていると、ちょうどいいタイミングでアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「アイスコーヒーです」
「……ども」
 シロップもミルクも無視して、ブラックのアイスコーヒーを飲み込む。それにつられて、冷めてしまったカモミールティーを飲み込んだけど、さっきまで感じていた甘い爽やかな味も香りも感じられなかった。
「……何のつもり」
「……え?」
「圭太と別れるならさっさと別れてやれよ」
「……どういう事……?」
「会う回数もメールも減らして曖昧な態度とってんのは奈々さんだろ?圭太がどんな気持ちでいると思ってんだよ」
「……でもバイト変えたから会えないって圭太が……」
「そんなん気ぃ使ってるに決まってんじゃん。年下の男捕まえて?ちょっと昔の男に会ったくらいでそいつに靡くとかマジ最悪だわ」
「……そんなんじゃ……」
 会えない。
 そう言われて、都合が良いと思っていた。自分の気持ちを整理するためにも、圭太に会う時間を減らしたかった。それにそんな自分を知られたくなかった。
 年下の彼氏が出来て浮かれて、でも昔好きだった人に出会って心が揺れたのも、事実で。一真くんに言われた事に何一つ言い返せない自分か居た。
「……あいつは馬鹿で明るいのだけが取り柄なんだよ。あいつ最近ちゃんと奈々さんの前で笑ってる?」
「…………」
 脳裏に浮かぶ圭太の笑顔。
 いつも明るくて嘘偽りない笑顔で。平凡な表現かもしれないけど、太陽みたいに豪快に、身体全身で笑って包んでくれる。圭太はそんな人だ。
 
 あの海の日。
 抱き締められた身体の拘束が解かれて、見上げた先の顔は笑顔だった。眉を下げて、泣きそうな顔で圭太は笑っていた。
『……大好きだよ、奈々ちゃん』
 そう、口角を上げて笑った。
 その悲しそうな笑顔が、頭を侵食していく。
 あれから圭太はちゃんと笑ってた?
 自分の事ばかりで、ちゃんと見ていなかったかもしれない。

「……このままでいるつもりなら、別れてやってください。……見てらんねぇから」
 一真くん達と居る時の圭太はどんななんだろう。ふと、居酒屋での事とかこの前の海での事を思い出す。自分と居る時より少し口が悪くて、はしゃぐ圭太は初めて見る姿だった。
 私の方が大人で年上だから、いつも甘えていた圭太。でも、少しおっちょこちょいな雪音ちゃんを隼くんとフォローしていたり、酔っ払った綾華ちゃんを介抱してあげてる姿は、私には見せない顔だ。

 私の知らない圭太。
 私には見せない知らない圭太。

 私なんかと一緒にいるより、彼らと一緒にいる圭太の方が本当の圭太なんじゃないか。
 訳の分からない疎外感がまた襲ってきて。心の中に負の感情を満たしていく。




「……ちょっと待った」
 カウンターの中から杏子の声がして、俯いていた顔が反射的に持ち上がる。ふと店内を見回すと、いつの間にか店の中は私達三人だけになっていて、負に満たされそうだった感情が一時停止する。
「男と女の問題に首突っ込むなんて過保護すぎじゃない?何も知らないあなたにそんな事言われる筋合い無いと思うんだけど」
「……そういうあんたも関係なくない?」
「別れるか別れないかなんて本人が決めることでしょ?なんのマウント取ってるか知らないけど、あなたのしてることは圭太くんの為になってるの?」
「…………」
「……杏子、ごめん大丈夫だから……」
「言われっぱなしは気分悪い。何をどこまで聞いてるか知らないけど、奈々の気持ち知りもしないであなたに何が言えるの?あなたには無いの?忘れられない気持ちとか後悔とか」
「…………」
「…………」
 杏子の言葉に、一真くんが息を飲み込むのが分かった。その表情は、さっきみたいに怒りには満ちていなくて。何かを思い描いている見える。
「……だからだろ……俺みたいに後悔してほしくないから、ちゃんと向き合えって言ってんだよ」
「……一真くん……?」
「あいつとちゃんと向き合ってやって」
 切れ長の目が、強い意志を持って私を見る。
 きっと圭太の事を本気で心配しているから、辛辣な言葉が出るし、私を責めるんだろう。それに責められても仕方のない事をしているのは私だ。
「……ごめんね一真くん……ありがとう……杏子もありがとう」
「…………」
「…………」
 私の言葉に、二人が黙り込む。
 向き合う事を避けていた自分に気付かされた。それはきっと一真くんのお陰だ。こんな私を守ろうとしてくれる杏子にも、感謝しなければいけない。

 ――ガタン

 一真くんが立ち上がって、アイアンのソファの足が音を立てる。ポケットから長財布を出して千円札をテーブルに置くと、一真くんはそのまま店を出て行ってしまった。
「……なにあれ」
 どこか不満そうな杏子が扉を見つめたまま呟く。
「……圭太の事が心配なんだね……」
「あんな事言われて悔しくないの?」
「……でも全く外れてるわけじゃないから……」
「……そうだけど……」
「……だよねやっぱり」
 恋人が年下だと言うと、どこで捕まえたの、なんて言われる事が多かった。自分もどこかで、年下の恋人が居るという事が自慢でもあったし、不安でもあった。
 両極端な感情は、圭太と一緒にいる上で邪魔でもあったし、自分を奮い立たせる力にもなった。
 圭太がいるから、いつも可愛くいなきゃとか。圭太がいるから、私が大人でいなきゃとか。彼のおかげで、色んな自分を知る事が出来た。
 
 圭太と、向き合わなきゃいけない。
 いつまでも、逃げてちゃいけないんだ。

「杏子、ありがとう。圭太とちゃんと話す」
「うん。……あ、これあの子のお釣り。渡せる?」
「……うん、大丈夫。ありがとうね」





 カフェを出ると雨が降っていた。
『いつでもいいから、会いたい』
 軒先でそう圭太にメールをしてから、まだ弱い雨の中を走り出す。
 
 いつだったか、こんな雨の中を圭太と走った。
 デートの途中で雨に降られて。
『あの建物まで走るよ』
 そう言われて、羽織っていたシャツを被せられて手を繋いで走った。途中ですれ違う人と肩がぶつかって。
『……と、失礼。大丈夫ですか?』
 ぶつかった弾みで離れた圭太の手。それに反して、弾かれた身体を支えてくれたのは、ぶつかってしまった男の人で。
『……あ、はい』
 そう答えたところで、被っていたシャツをより深く被せられて。相手の顔が見えなくなってしまった。
『すいませんでした。ほら、行くよ』
 シャツの向こうで圭太の声が聞こえて、引っ張るように手を握られ、肩に添えられていた男の人の手が離れる。 
 急な雨で誰もが彷徨い迷う中、足元に跳ねる雨水も、濡れて重たくなるシャツも。繋いだ手の温かさがあれば、迷うことなくどこまでも行ける。そう思える。
 
 それほど私は、彼が好きだ。
 そう言えた。
 
 細い路地に入ると、かろうじて雨がしのげて。重たくなったシャツを取ると、圭太がこちらを見下ろしていた。
『……圭太?』
 白いTシャツが肌に張り付いて筋肉質な線が浮かび上がる。雨に濡れた髪は少しウェーブになって、いつもの雰囲気より男っぽく見えた。
 
 赤い唇が開く。
 
 狭い路地で詰められた距離はもう一ミリも無い。
 まるで合わさるべくして重なり合った身体は、しっくりと私の身体に馴染んでいって。重なり合った唇を避けるように、滴る雨が流れていく。

『……奈々』

 離れた唇が、名前をかたどる。
『誰にも触らせないで。俺だけを好きでいて』
『……うん』
『大好きだよ』
『……私も好き』
 
 全身で気持ちを伝えてくれる圭太が好きだ。
 あからさまな嫉妬も、独占欲も全部。
 私の心を気持ちよく満たしてくれた。




 ――ドンッ

 強まる雨の中、すれ違う人と肩がぶつかって。そのまま弾かれたようにコンクリートに膝を付いた。
「……っ、いったぁ……」
 破れたストッキングが血に塗れて雨と一緒に滲んでいく。反射的にぶつかった人を見上げたけど、もうそこには誰もいなくて。すぐ側を走っていく人の雨水が顔に跳ねた。
「……もう……」
 何とか立ち上がって歩き出すけど、ヒリヒリと痛む膝が邪魔して上手く走れなくて。半ば諦めて、雨の中を歩いた。




 いつもなら、圭太が手を引いてくれる。
 年下だからとか、年上だからとか。いつも考えてるくせに、結局は圭太に甘えているのだ。
 血が滲んだ膝も、泥が跳ねた頬も。圭太が居たら優しく拭ってくれるし、むしろ防いでくれるのに。
「……はぁ……」
 いつものコンビニまであと少し。そう思った瞬間に、身体が重くなるのを感じた。雨に打たれた身体は冷え切ってしまって、足元が覚束なくなった。
 コンビニの自動ドアが開いて、人が出てくる。

 もう、だめだ。

 そう口の中で呟くと、辛うじて保っていた意識は遠のいていった。

 ゆらゆらと、身体が揺れる。

 冷えた身体はまだ冷たいけど、触れられた所からじわりと感じる体温が気持ちよかった。
「……ん……」
 衣擦れの音がして、重い手足を持ち上げられる。痛みを帯びている足が染みて、身体がびくりと跳ねた。
「……奈々、大丈夫か?」
 自分を呼ぶ声が聞こえるけど、重い瞼と身体が覚醒する事を阻んで、深い眠りへと導いていく。
「……奈々……」
 前髪を撫でられて、額に熱い感触が落ちる。
 鼻先に微かにシトラスの香りがして。
 
「……せんぱ……い……」

 無意識に零れ出た言葉は、
 夢の中へ飲み込まれた。




「……奈々ちゃん」
「…………」
「奈々」
「……ん……っ」
 頭と身体が痛い。
「大丈夫?」
 覚醒していく意識の中重たい瞼を開くと、心配そうな顔をしてこちらを覗き込む圭太が見えた。
「……圭太……?」
「起きれそう?」
「……ん……」
 圭太に促され上半身を起こすと、ズキンと頭が痛んで。反射的にこめかみを抑えると、指先に冷却シートが触れる。
「…………」
 ぼんやりとした頭のままあたりを見回すと、そこは自分の部屋で。身動ぎすると、右膝がズキンと傷んだ。
「いっ……」
「奈々ちゃん?どっか痛い?」
「……足が……」
 圭太が布団を捲くると、パジャマのシャツ一枚に下着姿の自分の身体が露わになる。
「あ、やだ……」
 でもそんなのお構いなしに、血が滲んだガーゼを剥がすと圭太がこちらに振り返った。その表情はどこか複雑で。探るような視線が私を見つめる。
「……ガーゼ変えるね」
「……うん、ありがとう」
「あと、熱測って」
 体温計を渡されて言われるままに熱を測る。

 ――pipipipipipi

 アラームが鳴って取り出すと、三十七度八分と表示されていて。その数字を見て風邪をひいたと自覚すると、ますます身体が重くなった気がした。
「よし、オッケー」
 丁寧にガーゼを貼り替えてくれた圭太が体温計を取り上げる。
「会社、電話しようか?」
「……自分で出来る」
「スマホは?」
「……スマホ……」
 部屋の中を見回すが、バッグが見当たらなくて。
「……ちょっとお手洗い……」
 重たい身体で何とかベッドを這い出て洗面所に行くと、洗濯機の上にシャツとスカート、それに血で汚れたストッキングが置いてあった。
 洗濯機の下には、濡れたバッグが置いてあって。中を確かめるけど、特に濡れてもいなくてスマートフォンも無事だった。
「……あ、桜木です。すみません今日休ませて頂いてもよろしいですか?風邪ひいてしまって……あ、はいすみません……」
 会社への連絡を終えて、洗面所の鏡を見る。




 雨の中、走っていた。
 いつも私を守ってくれる圭太の手は無くて。一人で走った雨の街は、とても無情だった。
 ちゃんと意識があるのは、足を引きずってやっとたどり着いたコンビニの灯りの所までだ。フッと、糸が切れる様に途切れた意識は酷く曖昧で。このシャツを脱いだ覚えも、パジャマを羽織った覚えも無い。
「奈々ちゃん大丈夫?」
 洗面所の扉が開いて鏡に圭太がうつる。
「……うん」
「あーこれ、ストッキングだめになってんじゃん。スカートも濡れたままだし」
「……え」
 圭太が、着せてくれたのだと思った。
「熱あるし仕方ないか。……ほら、ベッド戻るよ。ちゃんと寝なきゃ」
 身体を支えられて気づく。
 いつも圭太に纏っているのは、マリン系の少し甘い香りだ。あの時自分を抱いていたのは……。
 
「何か食べれそう?」
 ベッドに寝かせてもらって布団をかけられる。
「……今はいい」
「じゃあもう少し寝な?俺ちょっと買い物行ってくるから」
「……学校は?」
「今日は休講」
「…………」
「鍵しめとくから、ちゃんと寝てね」
「……うん」
 久し振りに会ったのに、圭太はいつも通りだった。むしろこんなにも甲斐甲斐しく世話をしてくれるなんて思わなかった。
 
 少し、寝よう。
 そう思って寝返りをうった。

 微かにシーツに香る、シトラスの香り。
 爽やかだけど、少し苦い。
 懐かしい香りだ。

「……葵、先輩……?」

 昨日あの時、コンビニから出てきたのは葵先輩だったんだろうか。私を抱き上げた手も、額に触れた熱も。
 まるでワレモノみたいに私を優しく扱う手を、鮮明に思い出す。

「葵先輩……っ……」

 涙が滑り落ちて、シーツに染みを作る。
 痛む頭が、何も考えられなくさせる。

 今は眠ろう。
 目が覚めたときには、ちゃんと向き合うから。

 苦いシトラスの香りに包まれて。
 あの頃の、夢を見ていた。

 






続きはこちらで。


いいなと思ったら応援しよう!