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【小説】僕たちのゆくえ13
s7.別れ
ふらふらと団地の前に着いた頃には日付が変わっていた。けれど家に入る気にはなれなくて、団地の自転車置き場の横にあるベンチに腰を下ろした。
チカチカとついたり消えたりを繰り返す街灯の下、殴られた頬を手で覆う、熱を帯びたそこは脈を打つように一定の感覚で痛みを伝えてくる。
「……いってぇ……」
この痛みは自業自得だ。のこのこと楓の部屋に出向いた自分が浅はかだった。思い返せば、楓一人にしては立派すぎるマンションだったし、部屋の至る所に男の存在があった。そんな場所で抱き締められていたら、修羅場にならないはずがない。
けれど、確かめずには居られなかった。本当に楓のおなかの子が自分の子供なのどうか。男はあれが二年前の写真だと言っていたし、楓がもう子供が産めなくなったとも言った。それが本当なら、楓は自分を騙したことになるんだけど。
明らかに支配欲の強そうな男を思い出して、楓の身を案じてしまう。
『君も騙されたのか』
そう、男は言っていた。
言葉から想定できる通り、楓は同じことを繰り返しているのかもしれない。だとしたら別に、楓に情けをかける必要は無いのに。
「しーちゃん?」
暗闇から声がしてハッとする。近付いてくる足元からゆっくり上を見上げると、パジャマ姿のみのりが立っていた。
「っ、しーちゃん怪我してる!」
顔を両手で掴まれ、ずきんと痛みが走る。
迂闊だった。この場所はみのりの部屋から見下ろせるんだった。
「うるさい、部屋に戻れ」
みのりの手を解いて、顔を背ける。
これ以上、心を乱さないで。
すると、突然腕を掴まれて強引にベンチから立ち上がらされた。どこにそんな力があるんだ。そう思うほどに、ぐいぐいと引っ張られて気づけば自室のダイニングテーブルの椅子に座らされていた。
父親は今頃トラックを走らせて仕事中だし、母親も多分飲み屋で男の相手をしてるんだろう。誰も居ない夜の部屋なんていつもの事だ。別に何ともない。
「じっとしててね」
「いっ、……」
いつの間に持ってきたのか、木製の救急箱から消毒液を出し、血を優しくて拭っていく。ガーゼやテープ、一通り揃えられた救急箱は、勿論自分の家に有るわけなくて。みのりがわざわざ家から持ってきたのだと分かる。丁寧できちんとしてる、そんなみのりの家庭が垣間見えて。温かそうなソレに、劣等感を感じる。
「冷やしたほうがいいのかな?‥‥‥どうしよう」
消毒を終えて、あたふたとするみのりの様を見やる。ペラペラの半袖のパジャマから覗く手足。足元はもちろん素足で。何も考えずに飛び出て来たんだろうなと思ったし、心配してくれているのが目に見えて分かるけど。
薄手のパジャマの奥に隠れる膨らみが視界にチラつく。相手はみのり、海月の想い人。そう、呪文の様に繰り返すのに身体がそれを受け入れてくれない。何度も牽制しているのに気づかないみのりに苛立ちを感じる。こんな時にそんな格好で優しくしないで欲しい。
「みのり」
「うん」
「もういい、大丈夫だから」
「でも……」
「……お願いだから」
これ以上惨めになりたくない。この手が、みのりを抱き締めてしまう前に、どうか離れて欲しい。「……分かった。ごめんね、しーちゃん」
名残惜しそうに、みのりが部屋を出て行く。
「何であやまるんだよ……」
いつも勝手を言ってるのは自分。
頬に、うなじに。そっと触れて、怖がらせているのも自分なのに。
部屋に残る柑橘系の香りが苦しい。
心と身体が、バラバラになる。
自分が好きなのは海月なのに。
何でこんなに、欲しいんだろう。
手を伸ばしたって、すり抜けていくのに。
翌朝。
目が覚めると、ダイニングテーブルに突っ伏したままな事に気付いた。固まってしまった身体を伸ばしたところで、テーブルの上のメモに気づく。
『いたくなったらでんわしなさい』
日本語が苦手な母親が唯一かけるひらがなの手紙だ。ふいに、口元の皮膚が突っ張っている感じがして触ると、昨日は無かったはずのテープが貼ってある。
「いて……」
粘着力の強いそれをはがすと、どこから引っ張り出して来たのか、ピンクの酷くカラフルな絆創膏であるのが分かって。自分の好きな色のそれに、少しだけ、ほんの少しだけだけど。珍しく心配してくれる母親の気持ちに、心がくすぐったくなった。
シャワーを浴びて鏡の前に立つと、明るい下で見る自分の顔は見るに耐えないものだった。いっそのこと学校は休んだ方が無難かもしれないけど。昨日あの後、楓は大丈夫だったんだろうか、なんて思ってしまって。本当の事を楓に直接聞きたい、そんな気持ちも手伝って。手早く身支度をして、海月達より少し早めに家を出た。
自転車置場から三階の最奥の教室を見上げるが、黒いカーテンはなびいて居ない。まだ来ていないのだろうか?そう思いスマートフォンを制服のポケットから取り出し画面を操作し始めた所で、肩にポンと手を乗せられる。
「古川」
名前を呼ばれて振り返ると、生活指導の津田が立っていた。
「……本当に怪我してるのか」
「え?」
「校長室に来なさい」
「……は?」
津田に言われるがまま、後を付いて歩く。自分を見てひそひそと話す生徒達。嫌な予感がして、胸がざわつく。
――ガチャ
校長室に入ると、重厚なテーブルの向こうに校長先生が座っていて。その手前に黒いカーディガンにタイトなスカート、いつものヒールを履いた楓の背中があった。
嫌な汗が流れて、動悸が早まっていく。楓の隣に並ぶように言われ、立ち尽くす。
「君たちが恋愛関係にあるんじゃないかと、報告があった。古川くんのその傷といい、事実ですか?」
校長が至極真面目な顔で、自分と楓を交互に見やる。まさか楓がバラしたのか、そう考えを巡らせていると、少し身じろぎをして楓が口を開いた。
「私達にそういった事実はございません。ただ、昨晩深夜徘徊をしていた古川くんに注意を行っていた所、酔っぱらいの男性に絡まれ古川くんが殴られました」
いつもの口調とは違い、丁寧にそして少し早口に言い終わるのを聞いて、思わず楓の顔を覗き見る。
「…………」
すると、口元のあたりに赤い傷があるのが見えて。
「先生、その傷……」
思わず口を付いて出た自分の言葉に一瞬だけ楓が顔をしかめるが、真っ直ぐ校長の方を向いたまままた口を開いた。
「古川くんを帰した後に殴られました。幸い、近くを通った方に助けて頂いたので大事には至っていません」
「でもねぇ美波先生、あなた妊娠してるっていう報告を受けてるんだけど」
「それは事実です。婚約者がいますから、彼との子供です」
真っ直ぐなんの躊躇いも無くそう言い放つ楓に、校長も津田も返す言葉が出ない様で。
「古川くん」
「……はい」
「美波先生の言ってる事は全て事実ですか?」
そう問いかけられ、思わず唾を飲み込んだ。凛として前を向いたままの楓。その全てが嘘なのは自分が良くわかっている。
「事実です……」
それから。
深夜徘徊に関して厳重注意をされた後、楓と二人校長室を出された。
パタン、と閉まる音を背に二人共黙り込む。
「楓、その傷……」
「ちょっと場所変えましょう」
楓の後を少し離れて歩き、保健室に辿り着くと楓がポケットから鍵を取り出した。
「松田先生今日出張だから内緒で借りた」
レースのカーテンが引かれた保健室は、朝の光だけで充分に明るい。念の為に不在の札を掛けたところで、楓が切り出した。
「あの後、殴られちゃった。……いつものことなんだけどね」
化粧で誤魔化されているが、よく見ると目元のあたりも少し赤くなっている様に見える。
「いつも殴られるの?」
「悪いのは私だから仕方ないの」
「……子供は?」
「大丈夫、出来てない。……もう、私は出来ないから」
「‥‥え」
「そうなの」
頼りなく笑う楓に、胸がギュッとする。それから楓はポツポツと話し始めた。
ずっと別れられない彼氏がいる事、彼との間にできた子を流産して、子供が出来ない身体になった事。それ以来彼氏に暴力を振るわれるようになった事。そんな現実から逃げ出したくて、セフレとの情事に嵌っていった事。
そしてそんな時に、自分と知り合った事。
「だからね、優しくして欲しかっただけなの。嘘でもいいから、愛してるって、そう感じるくらいに抱かれたかっただけ」
楓の言葉に、何も言えなかった。
自分もそうだ。
自分の事が嫌いで、外側だけの空っぽな自分を満たしたくて。愛されたくて、抱きしめられたくて。叶えられないソレを、楓や優花で満たそうとした。でも分かる本当は、これっぽっちも満たされていないって。
「でもね、紫音との事も妊娠の事も噂を流したのは私」
「……何で?」
そんな噂を流してしまえば、自滅するのは楓の方だ。例え仮に、そこに少しの恋愛感情が入っていたって、高校教師と生徒の情事なんて、世間では許されない。
「全部終わっていいと思ったの。いっその事捕まりでもしたら……そうしたら彼とも別れられるかもって。紫音を巻き込もうと思った」
「……でも、しなかった」
一つ間違えば、子供が出来てしまったと訴えられてもおかしくなかった。それどころか自分で巻いた種を、楓は自分で摘み取ったのだ。
「……嬉しかったの」
「……え?」
「彼に殴られそうになった時に、子供が居るからって私をかばってくれた事が……」
「それは……」
あの時、咄嗟に身体が動いていた。自分の子供な訳が無い、自分の子供なんて要らない。そう思っているのに、芽生えているかも知れない命に罪はないと、頭のどこかが感じ取ったのだと思う。
「そのお返し」
「…………」
「困らせてごめんね。でも、紫音の事好きだったのは本当よ。外見だけじゃない、本当は子供っぽくて捻くれてる所とか、ね」
少しだけ心外な言葉を言われて思わず眉がぴくりと動く。あくまで、楓や優花と接してるときは紳士なつもりで振る舞っていたのに。そんな自分の心の声が伝わったのか、楓がふふふ、と小さく笑う。
「紫音は自分で思ってるより子供よ?」
「そうかな……」
「だからね。子供は、欲しいものは欲しいって言っていいの。昨日みたいに感情剥き出しにするくらいが、紫音にとっては良いと思う」
人の顔色を窺うのが得意だ。どうしたら、人が喜ぶのか、どうしたら怒るのか、手に取るように分かる。ただ、自分が感情を殺せばいいだけ、それだけの事。そう思っていた。
欲しいなんて、願ってはいけない。
知られてはいけない。
知られてしまえば、
あの空間は無くなってしまうだろうから。
でも……
鼻の奥がツンとする。
本当に、願ってもいいんだろうか。
「十七歳の紫音は今だけだから。しっかり味わって生きなきゃ勿体無いわ」
「……先生っぽいね」
「先生だからね。でも……学校は適当に辞めるわ。一応、おめでたで退職って事で、最後くらい綺麗に終わりたい」
「……ねぇ」
「何?」
「最後にハグしてもいい?」
この感情をどう言葉にしていいのか分からない。ただ、空っぽの自分を満たしたくて身体を重ねただけなんだけど、空いたままの心は埋まることは無かったんだけど。楓との時間に全く意味が無かったかというと、そうじゃない。
感情的に、好きだと伝えてくる楓が。何かを欲しいと強く願い伝える事の出来る楓が、本当は羨ましかった。
ゆっくり近づいて来て小さく手を広げる楓を抱き締めると、すっぽりと収まった身体が自分を抱きしめ返してくる。
「……ごめんね」
「……私も、ごめん」
抱き締めた右手だけ解いて、小さな後頭部を撫でる。艷やかな髪が指の隙間に滑って、手のひらにじわりと温かさを感じる。楓の事をこんな風に抱き締めたのは、初めてかもしれない。そう思っていると、自分の胸に頬を寄せていた楓が肩を揺らしているのが伝わってきて。
「……ありがとう、紫音」
抱き締めていた腕を解いて、自分の胸をやんわりと押す。俯いていた楓が顔を上げて、触れていた温もりが離れ距離ができる。
「自分の事、大事にしてね」
「……楓もね」
「うん……あの人と、ちゃんと向き合ってみる」
「うん」
楓に伝えなければいけない事は沢山あるかもしれない。誰よりも、傷つけてしまったから。
「あのさ……」
「早く教室行きなさい、古川くん」
そう微笑む目の縁は少しだけ赤い。でも小さく震える肩が、楓の強さを物語っていて。
「……ありがとう、美波先生」
そう、言葉を残して保健室を出た。
教室に戻ると、一斉に視線が集まって、手に取るように室内が静かになった。みんな一様に自分の顔の傷を見て、ひそひそと何か話している。
窓際の後ろから二番目の席に腰掛けたところで、愛衣と海月が近づいて来た。
「紫音!」
いつもより大きな声で自分の名前を呼ぶ海月。そう言えば、海月の電話やメールに何も返していない事に気づき、バツが悪くて視線が合わせられない。
「痛そう……大丈夫?」
愛衣がそう言いながら、傷の辺りに触れる。 「痛いってば」
「酔っ払いに殴られたって本当?」
「え?」
「先生達が話してるの聞いたの」
「……ああ、うん」
「そんなところで遊んでるからだよ」
ほんの少し、いつもより無邪気に言う愛衣と、無言でそのやり取りを見ている海月。何もかもお見通しそうな瞳が、やっぱり見られなくて。
「そうそう、聞いて!美波先生デキ婚だってー。相手、大手のサラリーマンらしくてー」
愛衣が何だかんだと話し続けると、聞き耳を立てているであろうクラスメイト達の関心は次第に逸れていっているのを感じて。愛衣が何をどこまで知っているのかは分からないけど。他愛もない話をいつもみたいにしてくれる愛衣の優しさに感謝をした。