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【小説】僕たちのゆくえ14


m7.変わりゆく日常


 バイトから帰宅すると、母親が夕飯の片付けをしているところだった。
「ただいま」
「おかえりー」
 特にこちらを見ないまま母親が答える。自分もいつもは、母親の声を聞き終わらないうちに自室に入るから、別にお互い様だし何とも無いんだけど。
「……どうしたの?」
 立ち去らない自分に気づいた母親が振り返る。
「……あ、いや」
「ご飯食べる?」
「大丈夫。……いや、あのさ……秋山莉子って覚えてる?」
 あの事故以来、まともに莉子の話をしたことは無くて、少しだけ緊張していると、一瞬考える素振りを見せてから、至極普通の様子で母親が答えた。
「……あぁ、莉子ちゃん!もちろん覚えてるわよ。莉子ちゃんのママと仲良しだったもの。でもねぇ、あんな事故があったから……莉子ちゃんどうしてるかしらね」
「……莉子のおばさんと連絡とかは」
「最初の頃はねぇ、莉子ちゃんが無事だった事とか知らせてくれたんだけど。海月の事もすごく心配してくれてね。莉子のせいでごめんねって」



「……え?」
「莉子ちゃんの不注意とはいえ、大きい怪我をしたのは莉子ちゃんなのに本当に心配してくれて。それに」
 母親がまだ何か話を続けているが、ほとんど頭に入って来なくて。最初の一フレーズだけが頭の中で繰り返される。

 今でも忘れる事は無い。

 自分が突き飛ばしたせいで、熱湯をかぶった莉子の姿を。と同時に、今まで母親にも誰にも咎められなかった事に改めて気づいて。莉子が、自分をかばっていたのだと分かった。
「聞いてるの?海月」
「……え?あ、うん。もういい」
 何か言いたげな母親を無視して自室に入る。スマートフォンをベッドに投げ出して、ついでに自分の身体もそこに沈める。無意識に額に寄せた右手が、ざらざらと心を逆撫でる。



 最後の最後まで莉子に守られていたなんて。
 何て情けないんだろう、そう思う。

 と同時に、目の前に現れた莉子がどんな感情でいるのかが酷く気がかりで。何のしがらみも無い様に笑っていた莉子に対して、もしかしたら覚えていないんじゃないか、なんて。都合のいい事を思ってしまう。
 スマートフォンが震え、メッセージの着信を知らせる。巡らせていた考えを一旦手放して、画面を開くとみのりからのメッセージが這入っていた。
『しーちゃんバイト来てた?』
 途端に、頭の片方に置いていた問題を目にして心がぐっと重くなる。 紫音は部屋に居ないようだった。電話もメールも返信が無いし、どこに居るのか分からない。
 美波楓が妊娠した。その噂は学校中に広まっていて。もしかしたら、その相手が紫音なんじゃないかとクラスメイト達が色めき立っていて。そんな噂今まで聞いたことも無かったのに。今日一日紫音が学校に居なかった事が、その噂に拍車をかけた。



「……何なんだよ……」
 紫音の事。莉子の事。
 他愛も無く過ぎていたはずの日常が、少しずつ崩れていく。ただ穏やかに、流れるように日々を送りたいだけなのに。自分を取り巻く色々がそれをさせてくれない。

 これが生きるという事か。

 何て、大人ぶってみても、その解決の仕方なんて知る由もないから。やっぱり、流れていく日々に身を任せるしかないんだろう。
 紫音へのメッセージ画面を開く。
『明日は学校来いよ』
 そうメッセージを送って、重たい瞼をおろした。



 翌日の朝も、学校に着くと教室内は紫音と楓の話題で溢れていた。校長室に呼ばれたらしい、なんていう話も飛び交っているが、定かじゃない。相変わらず紫音が居ない事で、良くも悪くも普段から目立っている紫音の事をあまり良く思ってない人間が、好き勝手言っているように思えた。
「吉澤、紫音は?」
 園田愛衣にそう聞かれる事が凄く増えた気がするが、そんなの自分だって分からない。幼馴染だからって、隣に住んでいるからって、紫音の全部を知っている訳じゃ無い。それが寂しいと気付いたのはごく最近で。もしかしたら、紫音に距離を取られているんじゃないかと心のどこかで思っている。
「吉澤?聞いてる?」
「聞いてる」
 少しぶっきらぼうに答えると、愛衣は不機嫌そうにしたけど。紫音の事を心配しているのが分かるから。相変わらずなんだかんだと一人で喋っているのを黙って聞いてやっていると、教室の後ろのドアがガラリと開いた。



 ざわついていた室内が一瞬で静かになって。それを一瞥した紫音が、黙って自分の席に歩いて行く。自分の事に目もくれず、目の前を通り過ぎる紫音の顔を見上げると、左の口元が赤くなっているのが見えて。 
「紫音!」
 反射的に立ち上がり、名前を呼ぶ。近づいて顔を見ると、いつもより白く見える肌に赤黒い傷が浮かんでいて。心なしか腫れ上がった顔が酷く痛々しかった。
「痛そう……大丈夫?」 
 愛衣がそう言いながら、傷の辺りに触れている。
「痛いってば」
「酔っ払いに殴られたって本当?」
「え?」
「先生達が話してるの聞いたの」
「……ああ、うん」
「そんなところで遊んでるからだよ」
 愛衣が一方的に紫音に話しかけるのを黙って側で見ているが、紫音と視線が合うことは無い。気まずそうな、複雑そうな顔で、何となく愛衣と会話を交わしてる。
 酔っ払いに殴られたなんてきっと嘘だ。そんな不毛な喧嘩、紫音はしない。考えられるのは楓と何かあった事くらいで。
「そうそう、聞いて!美波先生デキ婚だってー。相手、大手のサラリーマンらしくてー」
 いつもより無邪気を装った感じの愛衣が切り出す。美波というワードにクラス中が反応して、静かに聞き耳を立てている気がする。
「え、美波って古川とじゃないの?」
 教室のどこかで小さく囁く声が聞こえるが、愛衣がペラペラと話す相手の情報に、クラス中の興味が次第に移っていくのが手に取るように分かって。
「何だ古川じゃないんだ」
「つまんねぇな」
 あからさまに紫音に悪意を持ってる様な言葉も聞こえたけれど。
「学校辞めて専業主婦だってー。働かなくていいなんて羨ましー」
「まじかよ楓ちゃん、辞めるの?」
 そこそこ人気のあった美波楓の結婚退職を残念がる方へ話はシフトしていって。いつの間にか愛衣が別のグループに混ざって会話を始めたところで、教室の中がいつもみたいに賑やかな喧騒に包まれていく。



「紫音」
「…………」
「紫音」
「……ん」
 やっと紫音が顔を上げて、こちらを見る。
「痛む?」
 赤黒く主張する傷の付近に思わず手を伸ばす。
「……っ」

 一瞬、ほんの数ミリだけ。

 紫音が顔を背けた気がして。持ち上げた手のひらを握り締め、ゆっくりと降ろす。
「……ごめん海月」
「いや……悪い」
 何となく居心地が悪くなって、そう告げて席に戻った。



 放課後。
 紫音と特別会話をすることもなく一日が終わってしまった。美波楓の事があるから機嫌でも悪いんだろうか、そう思うけれど。それとは違う違和感も拭えなくて。何となく話しかけられずにいると、帰り支度を終えた紫音が近づいて来た。
「今日バイト休むから伝えといて」
「……ん。あのさ……あ、おい」
 自分の用件だけ言うと紫音はすぐさま教室を出てしまって。その紫音の態度に違和感を覚えていると、いつの間にか側に、愛衣が立っていることに気づく。
「紫音と喧嘩でもした?」
「……いや、別に」
 紫音があんな風に自分を避けるなんて珍しくて。虚無感に似た感覚がじわりと広がる。
「……大丈夫?」
 心配そうに覗き見る愛衣を横目に教室を出た。






「紫音くんまだ体調悪いんだね」
 マスターに紫音が休みたい旨を伝えると、そう心配の言葉をかけられて。
「あ、はい……」
 何だかバツが悪くて曖昧な言葉を返してしまった。
「まぁ今日は莉子ちゃんも来るから」 
「……はい」
 莉子という名前を聞いて、また一つ心が重くなる。
『付き合って』
 なんて、きっと何かの冗談に違いない。それに、あれからどうしていたのか、怪我の具合はどうなのか。聞きたい事も言わなきゃいけない事も沢山ありすぎて。突然過ぎて、頭が回らない。
 それに心のどこかで、あの事故の事を聞くのは怖いと思っているのも事実。



――カランカラン
「おはようございまーす」
 昔ながらのドアベルの音と共に、快活な声と共に莉子が入ってきて。姿を見ただけで、胸が少しだけ跳ねた事に気づく。
「あれ?今日もしーちゃん居ないの?」
「……え」
「ああ、昨日話したんだよ紫音くんの事。みんな同じ団地なんだって?」
「あ、はい……」
 そう言えばごくたまに、紫音とみのり、そして莉子の四人で遊んでいた事もあったなと思い出す。
 三つ年上の莉子は自分達にとってお姉さんだった。莉子の家に行っていたのは自分だけだったから、何となく特別な気がして誇らしかったのを覚えている。
「じゃ二人共準備してね」
 マスターに促され、莉子と二人バックルームへ入る。白いシャツに黒いギャルソンタイプのエプロン。それがここのカフェの制服みたいなものだ。莉子はすでにシャツを着て来ているから、ロッカーからエプロンを出して腰に巻いている。
「しーちゃん元気?」
「……あ、うん」
「何?喧嘩でもした?」
「え」
 まるで見透かされた様で思わず言葉に詰まる。
「あの子の取り合いでもしてるとか」
 少しいたずらっぽく莉子が笑って。あの子が誰を指すのか分かるから。別にそんなんじゃないのにと、ふと思い返す。みのりから香ったムスクの香りの事を。
「でもしーちゃんが好きなのって……」
「二人共オーダー取ってー」
 店の方からマスターの声が聞こえて壁掛けの時計を見ると、もうバイトを開始する時間で。二人で顔を見合わせてから、バックルームを出た。
「どっちか買い物お願いできる?」
 マスターからそう言われ、莉子が買い物に出ることになった。けれど三十分過ぎても帰って来なくて、ふとマスターと顔を見合わせる。
「俺ちょっと見てきます」
「うんよろしく」
 黒のギャルソンエプロンを取って店を出る。カフェから歩いてほんの数分の所にある店が定番の場所で。中を覗いてみるものの莉子の姿は無い。
「……居ないな……」
 店を出て信号の向こうの通りが駅前の繁華街だ。信号を渡って店の中や見える範囲で探してみるが莉子がいる気配は無い。
 一度戻るか。そう思い踵を返した瞬間。



「やめて……!」
 細い路地から声が聞こえて立ち止まる。薄暗いそこを目を凝らして見ると、人影が重なっているのが見えた。
「離して!」
 二度目の声で莉子だと気づいて駆け寄ると、莉子が壁に押し付けられて居るのが分かって。
「何してる!……誰か!こっちです!」
 道路の方に向かって声を張りながら、莉子を押さえつけている男を引き剥がす。一発や二発殴られるのを覚悟で男の胸ぐらを掴み上げるが、男は思いの外あっさりと逃げ出してしまった。
「……莉子、だいじょう……」
 振り返り莉子を見やると、シャツの首元が乱れていて。その隙間から見えた肌が思いの外広範囲に痕を残している様に見えて。紡ぎ出した言葉を思わず飲み込む形になってしまった。
「大丈夫、ごめん」
 それに気づいたのかどうか分からないけど。乱れたシャツを握りしめて整えると、莉子はバツが悪そうに笑った。



 カフェまで数分の道のり。あと少しで店に着く、そんなときに莉子が話し始めた。
「……さっきのあいつ同じ大学なんだけど。付きまとわれて迷惑してて。……あー。大学がね、こっちなの。だから実は二年前にこの街に戻って来てて」
「そうだったんだ……。大丈夫なの?」
「ん。どうかな」
「…………」
「聞かないんだね」
「……何?」
「何処にいたのー、とか。あるじゃん色々」
 聞きたい事は勿論沢山ある。けれど、それを切り出して事実を知るのが怖い自分がいるのも事実で。
「……莉子」 
「何」



「……あの時は、ごめん……」



 目を瞑るとフラッシュバックする。
 蒸し暑い部屋の中で聞えるやかんの音。
 白いアイスキャンディーを舐める、赤い舌。
 幼心に、イケナイと思って。
 気づけば莉子を突き飛ばしていた。
 赤い肌を掻き毟るように泣き叫んだ莉子。



『かわいそうに、女の子なのに』



 繰り返す救急隊員の言葉。思い返すたびに、右手の甲が疼く気がしていた。自分のせいで、莉子が怪我をした。その事実がいつまでたっても纏わりついている。それはきっと、莉子に謝る事が出来なかったからで。



「……何の事だっけ」
「……え、いや、あの……俺が悪かったから……」
 平然とそういう莉子に、しどろもどろになってしまって。店が視界に入ってきたのも手伝って、言葉が出てこなくなる。
「じゃあ海月、私の彼氏になってよ」
「……え」
「彼女いる?」
「……居ないけど」
「じゃ決まり」
「いや、ちょっと待って」


――カランカラン

 昔ながらのドアベルを鳴らして莉子が中へ入っていく。
「ごめんなさい、迷っちゃいました」
 買い物袋をマスターに渡しながら、相変わらず快活に莉子が言う。ついさっきまで男に迫られていたなんて思えないくらい至極普通で。そんな莉子から目が離せなかった。



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