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【小説】僕たちのゆくえ18
M2.当たり前の優しさ
白いコンクリートの壁にもたれて、隣の玄関扉が開くのを待つ。 いつだったかバスで痴漢にあってから、海月くんが必ず一緒に登校してくれるようになった。
心配性で優しいところは、幼い頃から変らない。クラスの男の子にからかわれて泣いていた時も、いつかみたいに重たい荷物を持って困っていた時も。どこからともなく現れて、いつも助けてくれた。
でもその優しさは、自分だけにじゃない。ぶっきらぼうに見えて、困ってる人がほっとけない人だから。助けようとしてしまうし、それによって人に好かれてしまう事が多い。
だから、どんなに海月くんが優しくても。
それはただの優しさだって、分かっている。
――ガチャ
「おはよう海月くん」
「……おはよ」
いつもにも増して眠たそうな顔で現れた海月くんは、顔を見るなり思い出した様にバツの悪そうな顔をした。
「あーあのさ……昨日の朝の事なんだけど」
「……昨日?あ……」
昨日、前日に焼いたパンをお裾分けしようと玄関で靴を履いていると、海月くんの家の前で話し声がした。ちょうど良かった。海月くんだ。そう思って何の躊躇いも無く玄関を開けて隣を覗いて、ギュッと胸が締まる気持ちがした。
上半身裸の海月くんが、女の子を抱き締めるみたいにしていて。私の声で振り返った女の子が私を見たのだ。
いつも向けられるから分かる。敵意の込められた鋭い目。私の事が嫌いな人がする目だった。
ただ、それから逃げたくて。話を聞いてくれようとする海月くんを避ける様にして自分の家に入ってしまった。
変に思われただろうな。
そう思ったけど。逃げずにはいられなかった。
一瞬しか見なかったけど、茶色い艷やかなロングヘアはゆるく巻いてあって、口元を彩った赤いリップも、キラキラ光るアクセサリーも。自分とは違って、凄く大人の女の人だった。
扉を背に佇み、ふと自分の服装を見る。中学の時から着ている良く分からないロゴの入ったTシャツワンピース。髪の毛だって梳かしただけで、もしかしたらどこかハネているかもしれない。
いつもと変わりのない自分だけど、何となくもやもやとした気分になってしまった。ただ、それだけだったんだけど。
バツの悪そうな顔でこちらを窺う海月くんに、大丈夫と返事を返した。
緩い坂道を上ったところに私達の高校はある。
三人揃って同じ高校に受かった時は本当に嬉しかった。私にとっては、海月くんも紫音くんも大事な存在で。もしまた高校で友達が出来なくたって、二人がいれば大丈夫、そう思っていたから。
でも思う。
いつまで、二人の側に居ていいのかなって。
バスを降りて坂道を上る時が、一番心の置き場の無い時間だ。今日は海月くんと二人だけど、紫音くんと三人の時は、それが倍増する。
海月くんは子供の頃から穏やかで優しかった。切れ長の目に薄い唇は、少し無表情に見えるらしいけど。良く見れば分かる。ただ、穏やかで優しい人だ。
中学に入って身長が伸びた海月くんは、女の子からモテる様になった。海月くんに手紙を渡して欲しいとか、海月くんと付き合ってるのかとか。何度聞かれたか分からない。それは高校に入っても変わらなくて。一緒に登校している私に向けられる目は、敵意もあるし好奇もある。
だから夏休み前に一年生の女の子に言われた時も、ああまたかと思った。
私の方が海月くんの事大好きなのに。
海月くんの事好きでもないくせに。
何で側に居るんだ。
何もしてないくせに。
何で守られてるんだ。
敵意剥き出しの言葉は、いつも感じる視線に込められてる物と同じだと思った。みんな言わないだけで、心の中で思ってるんだろうなって。
ただ同じ団地で育って、同じ時間を生きてきた幼馴染で。好きとか、そういう感情は分からない。
ただ大事な存在で、側に居たいと思う。
それだけなのに、いけない事なんだろうか。
でも、海月くんが私をかばって怪我をした時に初めて思った。
頭から血を流しながら、それをした相手にまで気遣う海月くん。私の全身をくまなく確かめて、酷く安堵していた海月くん。その後意識を失って倒れた姿を見て、私なんかが側にいてはいけないんじゃないかって。
誰かを気にしすぎて、心配しすぎる海月くんだから。私が側にいると海月くんが辛いんじゃないかと。
「……り、みのり?」
「……え?」
「大丈夫か?顔色悪いけど」
気づけば、苦手な坂道は上りきっていて。白い校舎の前で、海月くんが顔を覗き込んでいた。下まぶたを下げられて、更に顔を近づけられる。
「貧血?……じゃなさそうか」
何の躊躇いも無く触る海月くんに、私も違和感は無い。自分の事を心配してくれているだけだと手に取るように分かるからだ。
「……はよ」
少し掠れたような声に振り返ると、紫音くんが立っていた。まだ眠たそうで、どこか不安そうな顔だ。
「おはよ」
海月くんは変らない様子で返事をする。
「……おはよう、しーちゃん」
「……ん」
いつからだったか、私が"しーちゃん"と呼ぶと不機嫌な顔をするようになった。それが何故なのか分からない。子供の頃からの呼び方だから、恥ずかしいのかなと思うけど。私には"紫音くん"と呼ぶ方が恥ずかしいから。なかなか呼び方を変えられないでいる。
「海月、大丈夫?」
「……ん、大丈夫だよ」
何だかんだと一人で考えていると、二人が知らないやり取りをしていて。思わず海月くんの顔を見やる。何も変らない、穏やかな顔に見えたのに。紫音くんには分かるんだ。そう思うと、ほんの少しの疎外感が生まれて。
「みのり、転ぶなよ」
私の教室の前まで三人で歩いて、扉の前で海月くんに言われる。
「転ばないよ、もうっ」
子供じゃないんだから。そう思いながら踵を返して教室に入ろうとする。
「……きゃ」
扉のレールに躓いてバランスを崩す。扉に手をつこう、そう反応する前に腕を取られてバランスを取り戻した。
見上げると、自分の腕を掴んでくれたのは紫音くんで。思いの外近づいた端正な顔に、耳の後ろが熱くなる。
「ご、ごめん」
「ん」
少しぶっきらぼうに返されて、申し訳ない気もちになる。いつもにこにこしている紫音くんだけど、私にはあまり笑ってくれなくなった気がするからだ。
「みのり気をつけろよ」
「う、うん。ありがとう」
二人と別れて席に着く。ちょうど教室の真ん中辺りの席だ。前も後ろも、左右も。みんなあっちの方向を向いて、それぞれ楽しそうに何かの話をしている。
みんなと同じ教室にいるけど、
一人の気分だ。
高校に入ってからは、無視されたりする事はあまり無い。かと言って仲のいい友達が出来たかというと、それは別の話で。
これくらいの距離感の方が自分には楽になっていた。仲良くなって、良く分からないうちに嫌われるのは怖いから。どこかで、バリケードを張ってる。そう思う。
お昼休み。
お弁当を持って図書館に行くのが二年生になってからのルーティンだ。
校舎の白い建物とは別に、古びた旧舘に図書館はある。もちろん図書館の中で食べる事は出来ないから、建物の裏側にあるベンチでお弁当を開く。目の前にはイチョウの木が三本立っていて、秋になると色づいて綺麗だ。
「今日もぼっち飯か」
ふわりと苦い香りと共に声がして振り返る。
少し高い位置にある窓から電子タバコを出して息を吐いているのは、司書教諭の黒沢先生だ。
「先生、タバコいいんですか?」
「こんな所、誰も見ないだろ」
「……私、見てますけど」
「お前なら大丈夫だろ」
「何ですかそれ……」
シンプルなシルバーフレームの眼鏡に、漆黒の髪。図書館という場所も手伝って、普段はトーンの低いボソボソとした声出話す黒沢先生は、何故か分からないけど生徒に怖がられている。
いつだったか図書館の中で騒いでいた生徒を一喝した姿とか、必要最低限の事しか話さない所が、そういう雰囲気を作っているのかもしれないけど。
一年生の秋頃、紫音くんの事が好きな女の子達にここに呼び出された事がある。五人くらいの、少し派手な女の子達に囲まれて。
紫音くんから離れろ。
お前みたいなのが側に居るな。
俯いていてばっかでムカつく。
言葉通り怖くて俯いていると、色んな言葉を浴びせられた。
『顔上げろよ』
そう、前髪を掴まれたところで視界が滲み始めて。
『そういうのが、ムカつくんだよ』
髪を掴んだ女の子が手を振り上げた瞬間。
――バンッ
耳障りな程の大きな音がして、皆が一斉に私の背後の建物を見る。
『お前ら教師の目の前でいい度胸してるな』
前髪を離されて振り返ると、窓の開いた建物の中から黒沢先生が顔を出していて。
『二年の……佐藤と、矢野と、あと誰だ?見逃してやるから早く行け』
顎をしゃくってそう促すと、私を囲んでいた女の子達が一斉に逃げ出して。思わずそのまま黒沢先生を見上げていると、先生はまた顎をしゃくって。
それにしたがってその方向を見ると、今まで気づかなかった風景が目の前に広がった。
『……きれい……』
俯いていて気づかなかった。
三本のイチョウの木が凄く綺麗に色づいていて。涙で濡れた世界のお陰でキラキラと黄色く光って見えて、心の中が晴れていく。
『……俯いていてばっかじゃ、見えるもんも見えねーからな』
いつもの丁寧な口調とは違う黒沢先生に少し驚いたけれど。その時、一瞬で晴れたこの心は、黒沢先生のお陰で。それ以来、この場所はお気に入りになってしまったのだ。
それから、ニ年生になると同時に図書委員になって。黒沢先生とも普通に話せる様になった。それは多分、最初の出会いが印象的だったのと、黒い髪に切れ長の目が少し海月くんに似ていたから、話しやすかったんだと思う。
「……家族みたいなやつらとはその後どうだ」
「……え?何ですか?それ」
「いや、覚えてないならいい。それよりお前暑くないの?」
「大丈夫です。ちょうど日陰だし」
「ぶっ倒れられても困るからな、これ飲んどけ」
そう言って、窓から一瞬姿を消した黒沢先生は、冷えたペットボトルのスポーツ飲料をくれた。
「え、いいんですか?」
「飲んどけ」
「ありがとうございます」
自分なんかに優しくしてくれる黒沢先生はきっといい人だ。こういう人が少しでも居てくれるから、別にクラス中の誰と仲良くなくたって、平気だ。
「お前あんまりのんびりしてると時間ないぞ」
先生に言われてお気に入りの腕時計を見る。
「あ、本当だありがとうございます」
急いでお弁当箱を片付けて、冷えたペットボトルを握り締める。
「転ぶなよ」
「大丈夫です!」
校舎に向かって早歩きで歩き出すと、背中で静かに窓が閉まる音がした。
先生だって忙しいのに、一人でご飯を食べてる私をよく気遣ってくれる。それは、ここ最近海月くんや紫音くんに疎外感を感じている私にとって、とてもありがたい居場所だった。