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【小説】僕たちのゆくえ 10
s5.ぬくもり
夏休みに入り、海月は朝からバイトをするようになった。確か昨年も夏休みの間だけ朝からのシフトだったなと思い返す。自分は朝が弱いから、今まで通り昼から夜のシフトのままで。海月と一緒に居る時間は少なくなっていて。心のどこかで、ホッとしている自分が居た。
――カランカラン
日曜日の夕方。ティータイムも終わり閑散とした時間に古いドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
音の方に視線を送り出迎えると、もう会うことも無いと思っていた顔が気まずそうに立っていた。
「ユカ」
ユカこと篠井優花は、昨年出会った二十五歳の会社員だ。このカフェで優花の方から声をかけられて、意気投合してその日のうちに身体を重ねた。
けれどついこの前、優花とはもう会わない約束をした。どちらがフリーじゃなくなったらこの関係はやめる約束だったからだ。でも自分も優花も誰でもいいわけじゃ無くて、身体の相性も性格も優花は飛び抜けて良かったから、少し名残惜しかったのも事実で。
「ごめん、来ちゃった」
いつものタイトなスカートにシャツといった姿とは違い、ラフなワンピースにデニムを合わせた優花は、いつも見ていた姿より少し幼く思えた。
ふと最後の日を思い出す。優花もきっと連絡先を消したから、こうして直接来たんだろう。そして、そうしなければならないほど、何かあったのだと思う。
「何かあった?」
カウンターの隅に案内して氷の入ったグラスを出すと、それを一口飲んでから優花が口を開いた。
「彼氏ね、出来たの」
「うん」
「……既婚者だった」
「……まじか」
「知らなくってさ、修羅場って。あはは」
情けない。なんて言いながら笑う優花だけど、元気がないのは一目瞭然だ。服装の雰囲気も手伝って、優花がとても可愛らしく見える。
「しおんくーん」
奥のテーブル席から自分を呼ぶ声が聞こえる。反射的に振り返るといつも来ている大学生のグループだ。
「ご指名だよ」
「長くなるんだよねあの子達」
「私はいいから」
「じゃバイト終わるの待ってて」
「ん」
バイトが終わって裏口から出ると、細い道路の先に優花が待っていた。いつもなら有無を言わさずホテルに直行だけど。今日は優花も自分もそういう気持ちじゃないのがお互いに分かる。
「どうしよっか?」
その目的が無く会うのなんて初めてで、どことなく身の置き場がない。それでも夏の夜の蒸し暑さが身体を火照らせるから。
「……行く?何もしないよ」
「説得力無いなぁ……」
ふふふ、と優花が笑う。いつもの優花とは違う少し弱々しい笑顔に、心のどこかが擽られる。友情でも愛情でもない。ただ身体を重ねるだけの関係なのに。ただ何となく、側にいて触れていたい。そんな感覚になって。細い指先をそっとすくって、ネオンの方へ並んで歩いた。
いつものホテルのいつもの部屋。
狭いソファに並んで座るとノースリブの細い肩がシャツの腕に触れて、じんわりと伝わる熱が身体を高ぶらせる。どこに触れてどこにキスを落とせば優花が声をあげるのか、手に取るようにもう分かるから。薄暗い中に浮かぶうなじに唇をはわせたくなる。本当に、説得力の欠片もないけど。
「……紫音くんキスして」
「…………」
暫く何となくテレビを眺めていると、小さく呟くように優花が言った。
今までこんな風に甘えられる事は無かったから、少し驚いて優花の表情をうかがう。前を向いたままの優花のうなじが、耳たぶと同じ様に赤くなっているように見える。
「ひいてる?」
「まさか。ひくわけないじゃん。こっち向いて」
「……」
「優花」
「……こんな事、言えなかった……。大人じゃないと駄目だった……」
どこかもどかしそうに優花が言う。既婚者だった相手の事を思い出しているんだろうな、そう思う。
「年上だったの。優しくて、いつも私の事気にかけてくれる人で……大好きだったのに」
長いまつげが揺れて俯く。
「……見る目が無かったんだね、本当どうしようもないよね私……」
ただ好きなだけだったのに、男の都合で傷つけられただけなのに。こんなに可愛い優花を傷つけるなんて許せない。
「優花、こっち向いて」
「…………」
言うことを聞かない優花の頬に手を添えて、ゆっくりこちらを向かせる。視線を泳がせてから瞼を伏せる優花に、心が擽られる。
「かわいい……」
伏せた瞼にキスを落として、ゆるくまとめていた髪を解く。緩やかなウエーブが優花の頬を囲んで、花が咲いた様に見える。いつも大人っぽい優花だけど、優花の全てはきっとそれだけじゃない。
「どうしようもなくなんて無いよ。素直になれない優花も可愛い。それにそもそも優花は悪くない」
「紫音くん……」
「キスしていい?」
「……して」
頬に添えていた手を白いうなじに滑らせて、少しだけ引き寄せる。最初は軽く、柔らかい感触を味わってから下唇を軽く噛んで、息を漏らした赤い舌に自分を添わせた。
「……会社に奥さんが来たの。いきなり入ってきてバチーンって叩かれた」
まだ熱を持て余した身体を二人並べて、趣味の悪い天井を眺める。
「修羅場だね」
「でしょ?会社で結婚指輪してなかったし、同僚だって知らなかったんだから」
「そっか」
確信犯だろうなと思ったけど、優花の様子を見ると本当に好きだったみたいだから。相手の事を悪く言うのも気が引ける。
「好きになんてならなければ良かった……」
天井を見上げながら優花が呟く。不意に海月の顔が浮かんで、その言葉が深く胸に刺さって言葉が出せない。
好きになるのは必然だった。
そう思う。
自分が男を好きになった事実なんてどうでもいい。でも、こんなに苦しいのなら好きになんてならなければ良かったと思う。
「好きになるってなんだろうね」
優花の事は好きだけど、恋愛の好きとは違うと分かる。
愛するって、何なんだろう。
何で、愛してしまうんだろう。
「紫音くんは?」
「……え?」
「好きな人、いるでしょ?」
「…………」
いると言葉にしたら、後に戻れない気がする。心も身体も認めているのに、言葉にすることだけが躊躇われる。
「幸せだね」
「……何?」
「紫音くんに好きになってもらえる人」
「……どうかな」
「だって紫音くんはこんなに優しいじゃない」
天井を見上げていた優花がこちらに向き直る。重たい布団の下で優花の手のひらがそっと心臓の上に触れる。
「いつも心を埋めてくれてありがとう。紫音くんはあったかいね」
ただのセフレ。
傍から見ればそう思われるかもしれない。でも、お互いに足りない何かを埋め合ってる、それの何が悪いんだ。そう思う。ささくれていた心が、じわりと温まったのは事実。自分が、人と身体を重ねることでポッカリと空いた何かを埋めているのは事実だ。
「紫音くんには幸せになってほしい。だから、そんなに辛そうな顔しないで」
胸の上に置かれていた手が首筋を這って、頬に触れた手のひらが少しだけ強引に優花の方に引き寄せられる。
「変わりになんてなれないし、変わりになんてしない。でも少しでも辛いの忘れられるなら、今だけ忘れよう?」
身体ごと向き合う形になって、頬に添えられていた優花の手を引き抱き寄せる。柔らかく温かい膨らみに、身体が熱を取り戻していく。
今、この時だけ。
海月への気持ちが忘れられるなら。
身体を重ねる事にだって意味がある。別に虚しくもないし惨めなんて思わない。何より、真っすぐで健気な優花だから。大事に抱こうと思えるし、きっと満たされるのだろう。
「優花……ありがと、大好きだよ」
それから、週末に優花と会うのが当たり前になった。もちろん付き合っている訳ではなくて、身体を寄せ合って埋まらない何かを埋めあっているだけで。海月とも顔を合わせる時間が少なかったから、どこかホッとしていたし、穏やかな日を送っていたのだけど。
バイトが休みのある日、珍しい相手からの着信でスマートフォンがふるえた。ディスプレイには'美波楓'の文字が浮かぶ。途端に気分が重くなって、ディスプレイの操作を迷っていると意外と短い時間で着信は途切れた。
夏休みに入る前くらいから、楓の呼び出しは少なくなった。最後にシたあの日きりで満足したとは思えないし、音沙汰が無いのが不気味だとも思っていたけど。何もなく終わっていくのなら好都合だとも思ったし、何より楓の事なんて頭の片隅にもなくて海月でいっぱいだったから。
「……どうするかな……」
不意に昔団地の女子大生とトラブルになったのを思い出す。あの頃の自分は子供だったし、ヤれればそれで良かったから。何だかんだと言い合っている女子大生とその彼氏を見て、面倒くさいなとしか思わなかったんだけど。結局彼氏と別れた女子大生に付きまとわれて散々な目にあったから。楓との事もちゃんと終わらせた方がいいのだろうなと思う。
考えを巡らせていると、再びスマートフォンが震えてメッセージが来たことを知らせる。
『紫音会いたい』
用件を見て、また一段回気分が重くなるのが分かる。同じセフレでも優花と楓は全く違う。年上だから後腐れないだろうなんて、浅はかだった。女子大生の件で懲りたはずなのに。
『ごめんバイト忙しい』
自室のベッドの上、そう送ってからスマートフォンを布団の上に投げ捨て目を閉じる。頭の中がもやもやして、それをかき消そうと他へ思いを巡らせる。
白いうなじ、赤く染まった耳たぶ。優しく噛むと反射的に漏れる吐息混じりの声。優花の色んな顔が浮かんでは消えて。じわりと身体が熱くなってくる。
「優花は仕事かぁ……」
まだ平日の昼下がり。会社員の優花はまだ仕事中に違いない。身体の疼きがおさまらなくて。投げ捨てたスマートフォンの画面を開いて連絡先をスクロールする。別に優花に操を立てる必要はない。ただ、一番居心地のいい相手が優花なだけで。
「愛衣はダメだし……」
こういう時社会人じゃなくて、もっと自由がきく暇そうな女の子が居ればいいんだけど。そう思いながら意味もなく画面を眺めていると、玄関の方で声が聞こえた。
「しーちゃん、開けてー」
「みのり……?」
気だるい身体を起こして玄関に向う。鍵は開いているから入って来ればいいのに。そう思いながらしぶしぶ重たい玄関ドアを開けると、大きな鍋を両手にもったみのりが立っていた。
「ごめんねしーちゃん、ママが持っていきなさいって……」
赤いホーローの鍋からスパイシーなカレーの香りがする。両方の手にミトンをつけたまま、みのりがこちらを見上げる。
「……キッチンに置いてもいい?」
「ん」
重い扉を抑えたまま、みのりを中へ促す。鍋から香るカレーの匂いと一緒に、爽やかな柑橘系の香りが鼻孔をくすぐって一瞬静まりかけていた熱が蘇る。
「しーちゃんお昼ごはん食べた?ちょっとあっためたらすぐ食べられるよ」
返事を聞かないまま、キッチンに立ちコンロに火を付ける。ノースリブのゆったりとした薄いブルーのワンピースに、珍しく一つにまとめた黒い髪。そこにのぞく、優花よりも白いうなじ。
「…………」
キッチンのみのりに近づいて背後に立つと、うなじに汗が浮かんでいるのが分かって。
「みのりも食べる?」
「私はさっき食べたから」
「本当だ、汗かいてる」
白いうなじに指を這わせそっと拭うと、みのりが小さく悲鳴をあげた。
「し、しーちゃん……」
反射的にこちらに振り返ったみのりの顔は真っ赤だ。それに反して薄いブルーのワンピースの胸元は、ゆるく肌を露わにしていて。普段制服では気づかなかったけど、思ったより肉付きの良い胸元に思わず視線が釘付けになる。
「ごめんしーちゃん、離れて……」
弱々しい力で胸を押されて、みのりがのけ反る形になる。
「ほら、みのり危ないから」
揺れる黒髪の毛先ごと頭を抑えて、自分の方に引き寄せる。空いている方の手でコンロの火を消すと、必然とみのりを囲うような形になった。みのりの頭が熱くなるのを感じて、頭を支えていた手を離す。
「しーちゃん離れてお願い」
別に抱きしめてる訳じゃ無い。
一ミリも身体は触れていないのに、じわりと温かい感覚と、鼻先を擽る爽やかな柑橘系の香りが胸をざわつかせる。
相手はみのりだ。
幼馴染で、海月の想い人。
「……しーちゃん?」
上目遣いにこちらを見上げる不安そうなみのり。そんな仕草さえも、いつの間にか女になっていたんだなと思う。気づかなかったんじゃない、見ようとしなかった。だってみのりは海月のだから。好きな人の想い人にまで手を出すほど腐ってはない。
「……あとは自分でやる」
みのりの肩をやんわりと押しやってコンロから離す。もう一度火を付けて、ぐつぐつと煮える鍋を見つめていると、少しの間を置いて、分かったと呟いたみのりが部屋を出て行った。
「何やってんだろ……」
火を消して、冷めていくそれを眺める。
触れていた訳じゃ無いのに、身体が高ぶっていたのが分かる。みのりだから。触れてはいけないから。そんな背徳感がそれを高ぶらせるんだろうか。どうしようもない、そう思う。心と身体が別々のところにいるみたいだ。
でも一つだけ。
離れていくぬくもりに、
手を伸ばしそうになった。