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【小説】僕たちのゆくえ 2
m2.傷あと
「おはよう、海月くん」
重たい団地の玄関ドアを開けると、コンクリートの壁にもたれて、佐倉みのりが微笑んでいた。
「はよ……」
目覚めの悪い夢を見たせいでまだ眠い頭では、二文字くらいが精一杯。それでも、反応のあった事に満足そうなみのりは、じわりと汗の滲んだ額をぬぐってからまた微笑む。
「部屋で待ってろよ暑いんだから」
「待つなとはもう言わないんだね」
少し長めの前髪の奥から、いたずらっぽく笑う。その唇には、透明のリップが引かれているように見える。
産まれた頃から同じ団地の隣の部屋に住むみのりとは、字のごとく幼馴染。いつも一緒の風景で暮らして、一緒の風景を歩いてきた。
にこにこ。
みのりに合うのはそんな言葉だ。物心ついた時から、みのりはいつも笑っていた。穏やかに、時には眉を下げて困ったように。
まるで、泣きそうな子供みたい。そう思っていた、細く棒きれみたいだった身体も少しづつ肉づいて。腕まくりした白い長袖のシャツから伸びる華奢な腕はまだ頼りないけれど。自分と同じように、みのりも大人へと近づいているんだなと、時に思う。
揃って同じ高校に上がったばかりの頃は、朝の支度の時間の違いとか、自分がゆっくり寝たいとか言い訳をつけて、別々に登校したりもしたけど。朝のバスで痴漢にあったと聞いてからは、渋々こうして一緒に登校するようになった。
それにしても、久々にあの夢を見たな。一人がけの席に座ったみのりの横に立ち、窓の外を見ながら朝方の夢を反芻する。最後に見たリコの目が忘れられない。すがるような、睨むような強い目だった。あの時はまだ小学校の低学年だったけど。些細な日常の一部に紛れて、色も匂いも。全て鮮明に覚えている。
「……」
少し息が詰まるような感覚がして、不意に手すりを掴んでいる右手が疼いた。そこを見やると、ざらついた傷痕が主張するように残っている。
リコを突き飛ばしたあの時。衝撃で落ちたやかんの熱湯は、自分の皮膚にも赤い痕を残した。本当はすぐに治療すれば痕なんて残らなかったらしいが。「僕は大丈夫か?」そう聞かれた時、咄嗟に傷を隠したのだ。
リコはもっと痛いから。
僕はこのままで大丈夫だから。幼心にそう思ってしばらく黙っていたら、傷が残ってしまった。けれど残ったソレを後悔してるわけじゃない。むしろこうして、自分を戒めるための証みたいで。
「海月くん、着いたよ?」
不意に下から声をかけられ我に返ると、みのりがこちらを、見上げて首を傾げている。満員だったバスは、ほとんどが高校の生徒達で、ぞろぞろと揃って降りていく。思いのほか強く握りしめていた手すりを離して、自分もまたそれに続いた。
少し坂になった緩やかな桜並木の先にあるのが、通って二年目になる高校だ。
「あ、海月先輩だ」
「あいさつする?どうする?」
青々と茂る桜並木の下、校舎へと歩いていく生徒たちの中。下級生であろう女子生徒の声が聞こえてくる。眠たくてぼんやりしていた頭はすでにスッキリしていたけれど。そんな声を聞こえないふりをして歩いた。
「海月くん、いいの?」
バカみたいに純粋なみのりは、そんな彼女たちの声に耳を傾けがちで。自分と彼女たちの方を交互に見ながら、困ったみたいに眉を下げている。
「……行くぞ」
みのりの頭をぐるりと片手で回転させて、前を向かせて少し足早に歩く。みのりはそんな自分に合わせるように小走りでかけてくる。
それが、いつもの日常。
「おっはよー海月」
坂を登りきって門に差し掛かったところで、大きく長い腕が首に巻き付いてくる。朝とはいえもう七月。巻き付いた腕の白い長袖のシャツが暑苦しいけれど。
「……あつい」
軽く何度かシャツの腕をタップすると、柔らかい髪が頬をかすめて、甘い匂いが追いかけてきた。
「……」
無言のまま腕をほどいて白いシャツの主を見る。洗いたての無造作な髪からは女物の匂いがするし、昨日彼は隣に帰ってきた気配がない。
「……?はは」
「おはよう、しーちゃん」
無言の自分の意図を察した彼は軽く笑う。そんな自分たちのやりとりに気づかないみのりが、右隣からひょこっと顔を出して彼を見る。
「おはよう、みのちゃん」
にっこり。まるで音でもしそうなくらいに破顔した笑顔をみのりに向ける。
そう。彼、古川紫音も同じ団地に住む幼馴染だが、気まぐれな紫音が一緒に登校する事はあまりない。今日みたいに誰かの家から直接来る事もあれば、気まぐれに自転車で来る事もあるし、自分達より遅いバスに乗ってくる事もある。
母親が外国人の紫音は、身長も高く手足も長い。色素の薄いゆるやかなウェーブのかかった髪も白い肌も、母親譲りだと言うが。細そうに見えて逞しい腕を隠した白い長袖のシャツは、胸のボタンを二つほど開けて、彼の色香を倍増させている気がするし、そして彼はその与えられた全てを、自分の意のままに扱って振る舞っているように見える。
そんな紫音に、恥ずかしそうに微笑んで自分の影に隠れるようにするみのり。まるで小動物みたいで、自分には可愛く思えるけれど。紫音はそれを横目で見てから視線を空へと向けた。
白の校舎の三階の最奥。開いた窓から黒いカーテンがなびいている。紫音はそれを見つけると、自分たちの前に立ってから、両手を合わせた。
「ごめん、体調悪いから保健室で寝てくる。先生にいっといて?」
パチン。と、きれいにウインクをする紫音。
「え、大丈夫?」
下がった眉を更に下げて、心配そうに紫音を見るみのり。そんなみのりに一瞬だけ眉をしかめた紫音は、笑顔を作り直してじゃあねと手を振ると、校舎の中へ走っていった。
「しーちゃん大丈夫かな?」
「……大丈夫だよ」
数分後、黒のカーテンが閉まるだろう。
保健室は空のままだ。
これも、いつもの日常。
僕たちはそれほど、
子供じゃない。
紫音が教室に来たのは思いのほか早い時間だった。授業が始まってまだ十数分といったところで、教室の後ろのドアが開いた。
「はよーっす」
まるで悪びれた様子もない紫音に、教壇に立つ教師も別段怒る素振りは見せない。遅刻はするし、見た目は派手だけど、成績も愛想も良いからだ。
「早く座れ」
見逃してやると言わんばかりに顎をしゃくって着席を促すと、紫音は窓際の後ろから二番目の席に腰を落ち着かせた。だるそうに椅子に背中を預け、授業なんて上の空で窓の外を眺める紫音。心なしか苛立っているような横顔を見ると、何かあったのだろうと思う。
紫音の家は左隣にある。同じ団地、同い年。仲良くなるのに理由なんて要らなかった。
父親がトラックの運転手で、母親は飲食店勤務。たまに帰ってくる父親と、少し気性の荒そうな母親。薄っぺらい壁の向こうから怒鳴り合いが聞こえてくることは少なくなかった。そのたびに紫音は自分の部屋に避難してくる。とは言え、薄っぺらい壁の向こう。二人の怒鳴り合いは丸聞こえだったけど。紫音はいつも、へへへ。と笑っていた。眉を下げて泣きそうにしてる姿は、もう一つの壁の向こうに居るみのりにも似ていて。笑わなくていいのに。何度ともなくそう思っていたけど。
小学生の時は同じクラスになることが少なくて気づかなかったが、自分の知り得ないところで紫音はいじめにあっていた様だった。それを知ったのは、同じクラスになった五年生の時。みんなと違う色の髪を囃し立てられて居たのを目の当たりにして、咄嗟に紫音をかばっていた。それから少しずつ身体が成長して、周りの反応に戸惑っていた中学生の時も。紫音は、いつも笑っていた気がする。
無口で無表情な自分とは違って愛想の良い紫音は、成長と共に身の置き場が変わっていった様に見えるけど。自分からしてみれば、本当は何も変わらない様に思える。自信に満ち溢れているようにキラキラと輝いているのに、どこか危うい。笑っているのに、いつも泣いているような。
紫音が美波楓と関係を持つようになったのは、高校に入学してすぐだったと思う。見てればわかる。いつもあの黒いカーテンに引き込まれるように紫音は消えていく。
子供より大人の方が楽。そう言って、同級生や学校の女子に手を出さないのは、昔団地の大学生とひと揉めあって、学習したかららしいけど。そつなく年上の楓をあしらっているように見えるが、どうしたって相手は大人だし女だから。いつか何かあるんじゃないかと心配で仕方ない。
――キーンコーンカーンコーン
チャイムがなり、気づけば机に突っ伏してしまっている紫音の肩を揺さぶる。
「……紫音、大丈夫か?」
少しだけ顔を寄せて耳元で問うと、身体の隙間から細い指を出して丸いマークを作った。大丈夫、そう言ってる合図。顔を上げない理由を悟って黙って席に戻るが、視線は紫音から外せない。そっとしておくに限るのに、それが分かるのは多分自分くらい。
「ねぇ紫音今日帰り遊びに行こぉ?」
自分とは入れ替わりに、クラスの女子達が紫音を囲む。流石に顔を上げた紫音はもう、いつもの笑顔を浮かべて。
「今日かー。バイトだったかも」
なんて軽くかわしながら、取り囲むクラスメイトの長い髪をすくってみたり、顔を近づけあって楽しそうに話している姿は、スキンシップの多めな紫音にとって当たり前で。自分やクラスメイトにとってもいつもの光景であるけど。
紫音の窓の向こう、少し先の渡り廊下に楓の姿を見つけて、少しだけ背筋が凍る思いがする。真っ直ぐ紫音だけを見つめる目は、がらんどうの様で何も感情が読めない。
「……しお……」
――キーンコーンカーンコーン
声をかけてクラスメイトを散らそうとした瞬間チャイムがなって。紫音を囲んでいたクラスメイト達がそれぞれに席に着いていく。紫音はというと、また同じ格好で机に突っ伏してしまって。紫音の先、窓の向こうの渡り廊下に目を向けると、そこに楓の姿はもう無かった。
何もなきゃいいけど。そう一人頭で呟きながら自分もまた紫音のように机に突っ伏すと、頬に当たった右手に、顔をしかめた。ざらついた手の甲は、今も消えない見るに耐えない痕がある。
眠ったら、また夢を見るだろうか。
「みーくん、リコちゃんのお家遊びに行こうか」
物心ついたときには、そう母親に言われリコの家に連れ出されることが多かった。
母は同級生だった父と大学卒業間近妊娠が発覚して結婚し自分を産んだ。内定も決まっていたのに妊娠なんて。と、母と祖父はそれは揉めたらしいが。そんな祖父を振り切って、就職で地元から離れる事が決まっていた父に着いてこの地に来たらしい。当たり前に身近に頼れる人間もなく。そんな中の子育ては大変だったと、漏らしていたのをいつか耳にした気がする。
紫音とみのりの両親は共働きだったのに対して、隣の棟に住んでいた三つ年上のリコの母親は、夜の飲食店で働いていた。専業主婦だった母が、子育ての相談をしながら昼の持て余す時間帯を過ごすには、リコの母親はちょうど良かったのだと思う。
「みーくん、いらっしゃい!」
インターフォンを押して出て来たリコの母もまた、若くしてリコを産んだと聞いた事がある。茶色い髪はゆるやかなウェーブを作っていて、キャミソールワンピースからのぞく手足はひどく細い。
「早くはいりな」
そう言っていつも頭をがしがしと撫でるリコの母親からは、いつも甘い匂いと苦い匂いがして。それが煙草の匂いだと知るのは暫く後の事だったけど。
服や雑誌が散らかった部屋の中、赤やピンクの物しか無いこの家は、自分の母親にとって居心地が良かったらしい。
「リコちゃんは今日も可愛いねぇお洋服もママとおそろいかな?」
同じようにキャミソールのワンピースを着たリコに母は目を細めて微笑む。
「かわいいでしょ」
満足気に笑って、くるりと回転するリコ。短いキャミソールの裾が広がって、棒きれみたいな足があらわになる。
「あーやっぱり私も女の子が欲しかったなぁ。リコちゃん本当おめめぱっちりで可愛いんだもん」
「何言ってんの。みーくんも可愛いじゃん」
ねー。と、リコの母親がまた自分の頭を撫でる。がしがしと強い力に思わず下を向くと、赤でもピンクでもない、どっちつかずな黄色のTシャツが目に入る。
字のごとく、女の子が欲しかった母は、青や緑のものはあまり買ってくれなかった。黄色とかオレンジとか、女の子でも男の子でも無いような、そんな色の服が多かった。数年後、妹が産まれるまではなんとも言えないもどかしい時間を過ごしていた。でも当時の自分にはそれが当たり前だったし、女の子は赤色、男の子は青色、とか。そういう区別がされてることを理解したのも少し先のこと。
「みーくんももっと目おっきかったら良かったのに」
口をとがらせでブツブツと呟く母。同じ目をして何言ってるんだ。そう思ったのは、だいぶ歳を重ねてからどけど。何だか居心地の悪いような、胸の中がムズムズとする感覚を抱えていると、決まってリコが自分の手を引いてくれて、隣の部屋に避難させてくれた。
とは言え、薄い襖を挟んだ隣の部屋では母達の会話は嫌でも耳に入ってくるから。
「みーくん、おいで」
繋いだ手はそのままに。リコと押し入れの中に入った。静かに押し入れの襖をしめて、積み重ねられた布団の上に二人で寝転ぶ。押し入れの中には、懐中電灯が置いてあって。リコはいつもそれを灯して、色んな話をしてくれた。友達の話、母親の好きなところ嫌なところ。自分の知らない話を聞いてはわくわくしたし、あぁ、自分もそうだなと共感することもあった。
母にとってリコの母親が特別だったように、自分にとってもリコは特別だったのだと思う。隣同士に並んでいる紫音やみのりと違って。
「みーくん、ちょっと先にリコちゃんのお家行ってて」
ある時、リコが住む階に着いた途端、忘れ物をしたからと母が踵を返した。リコの家の前まで歩いて、インターフォンに手を伸ばすが、あと一歩のところで届かなくて。自分には重たい玄関ドアを両手でゆっくり開ける。
いつもならリコの母親が出迎えてくれるけど、今日は誰も出てこない。ふと視線を下げると、赤やピンクの靴の中に、黒い大きな靴が一足ある。
「リコちゃん……?」
呟いた声は思ったより細い声だった。いつも明るい太陽が差し込む南の窓はカーテンがしめられているようで真っ暗で、どこか怖い感覚がしたから。
「……っ」
苦しそうな声が聞こえる。合わせて、一定のリズムで揺れ擦れる布の音も。
キッチンの先、磨りガラスになったドアが少しだけ開いていて。音を立てないように手を添えて、細い隙間を覗いた。
「あぁっ……」
真っ暗な部屋。カーテンの隙間から漏れた太陽の光で、絡み合った二人が浮かび上がる。黒いキャミソールのワンピースが腰まで下がって、白い背中に、骨ばった腕が這い回っている。
ふたりとも苦しそうなのに笑っていた。リコのママと、リコの隣に住むケンタくんのパパだ。
「…………」
リコにはパパがいない。
ケンタくんには、ママがいる。
人のものは、とっちゃだめじゃないか。
添えられたガラス戸の手に力が入る。でも身動きなんて出来なくて。ようやく緩んだ指先を静かに離し、一歩、また一歩と後ずさりをすると、ふいに手を引かれる。
唇に指を当てて、リコが手を引く。静かに靴を履いて、重たい玄関ドアを開けて。リコと二人、玄関の前に座り込んだ。
「リコちゃん……?」
ひかれた手はそのままに、ぎゅっと自分の手を握ったリコは、廊下の隙間から見える空を見上げている。泣いてるのかな、そう思って様子をうかがっていると、それに気づいたリコがこちらを向いた。
「みーくん、しぃー、ね?ケンタくんには内緒」
「…………」
やっぱりいけない事なんだ。そう思って、口をつぐむ。でもそれよりも。
「ふんふふ〜ん」
手を握ったまま鼻歌を歌うリコを、こわいと思った。だから。
「みーくんの、ちょうだい」
そう言って自分のアイスキャンディーを舐めたリコを。気づいたら力任せに突き飛ばしていた。
人のものはとっちゃだめなんだ。
だからリコが悪いんだ。
僕は、悪くない。
そう言い聞かせた。
けれど結局あの後。救急車で運ばれたリコに、会うことは二度となかった。だから自分は、この右手の傷を忘れてはいけない。
そうおもっている。
気づいたら放課後だった。朝あんな夢を見たせいで、今日は一日中苦い記憶が頭を巡ってしまって。授業なんて上の空だった。
「海月今日僕シフト入ってる?」
クラスメイト達がそれぞれに教室を出ていく中、まだ席に深く腰掛けている自分に声をかけてきたのは紫音だ。
「……ん。入ってる」
「だよね。海月も?」
「ん」
短く返事をして重たい腰を上げる。特に何も入れてないカバンを掴んで、教室を出ようとすると、ちょうど扉のところに下級生であろう女子生徒が固まって立っているのが見えた。
「あ、あの海月先輩!」
呼び止められた手前、一応足を止めて声の主を見やる。自分よりはるかに低い位置にある頭は、こちらを見ないで俯いている。そんな彼女の背中をぐいぐいと押しながら後ろに立つ女子生徒は、ギラギラとした目でこちらを見ている。
「ほら、早く言いなよ」
「え、あ、あの……わ、わたし……」
黒いストレートの髪の隙間、真っ赤になった耳がのぞく。何か言いたそうに少し顔をあげては、口をパクパクとさせて俯く彼女。
場所とかこちらの都合とか。そういうのもあると思うけど。どちらかというと、この場で彼女を泣かせてしまう方がかわいそうな気がして。
「……悪いんだけど……」
「ごめんねーこれから僕たちバイトなんだよね。遅刻しちゃうから、また今度で!ごめんごめん」
にこり。また音を立てるように笑ってから、紫音が二人の頭を順にポンと撫でた。途端に弾かれた様に後ろの女子生徒がきゃぁきゃぁと声を上げる。対象的に手前の彼女は俯いたまま。
「…………」
少し震えたように見える肩に罪悪感が芽生えてしまって。口を開きかけると、紫音が自分の肩に手を回し、ぐいっと教室から押しやる。
「ごめんねー!またねー!」
肩に手を回したまま彼女達に振り返り、最後のフォローも抜かりない。自分はというと、回された紫音の腕のせいで振り返りもできなくて。ただ黙って連れられる様にして歩いた。
校舎を出てゆるい坂道を下る。
「まだ暑いなー」
一歩先を歩く紫音が白いシャツをなびかせて、空を仰ぐ。まだ夕暮れを拒む空は、夏の匂いを残している。日が沈む頃にはバイト先に着かなければいけないが、今日は足が重い。
「いける?今日」
「……え」
「たまにはサボる?一緒に」
前を歩いていた紫音が振り返る。高校に入って何の部活も選ばなかった自分はバイトを始めた。家から割と近くにあるそのカフェは、主にランチタイムに力を入れていて、ディナーメニューは無い。だから少しの接客と閉店後の片付けや翌日の仕込みをして、せいぜい夜の八時には家につく。ほんの数時間のバイトだけど、家に居るよりかは気が紛れるし、何よりオーナーの人柄が心地良いから。
「気分じゃ無い時ってあるじゃん。朝の僕みたいに?」
少しおどけて紫音が笑う。そうだ、紫音も今日の朝どこかおかしかったな。そう思い改めて思い出す。明らか何もせずに済ませたであろう紫音は、不機嫌そうだった。
「まぁ……あるけど」
何があったかとか、深くは聞かない。ただ、いつもと違うからお互いに気づくだけで。
「……いや。二人も休んだらだめだろ」
「そっか!じゃサクッといきましょー」
朝の不機嫌さはもう微塵もない。むしろ自分を気づかって、いつもの紫音の三割増し、といったところだ。
「お前、少し抑えろよ」
「何が?」
「その無駄に出る色気」
「出るもんはしょうが無いよね」
確かに。でも無意識に出るそれが、余計な色々を呼び寄せてしまうのも事実で。
「海月こそ」
「何だよ」
「優しすぎるのは相手を駄目にするよ」
「…………」
俯いてしまった彼女をかわいそうだと思ってしまって、どうにかしてやりたいと思った。でも自分が彼女に答えられないのも事実。せめて俯いたままの顔が、泣いてないように。そう願ってしまって。
「傷つけないなんて無理なんだからね」
「……分かってる」
無意識に右手を擦る。分かってる。でももう自分は誰も傷つけてはいけない。
あの時そう誓ったんだから。
「ならいいけど」
珍しく真面目にそう言った紫音と二人、タイミングよく来たバスに乗り込んだ。