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【小説】僕たちのゆくえ19


M3.好きとか愛とか


 美波先生が学校を去ってから暫く経った。
 あの頃、紫音くんと美波先生が付き合っているとか、美波先生のお腹に紫音くんの子供がいるとか、色んな噂が飛び交って。クラスの中でも、ほんの少しだけ距離を置かれているような視線を感じていて。紫音くんの事を想うとどうしようも無い気持ちになった。私ですらこんな嫌な気持ちなのに、当の紫音くんはどんな感情だったんだろう。
 あんな根も葉もない噂立てられるなんて。

 けれどふと思い出す。

 噂が広まり始めたあの日の夜。まだ帰って来ている気配が無い紫音くんが心配で眠れなくて。日付が変わって暫くして起き上がりカーテンを開けた。 角部屋の自分の部屋からは自転車置き場が見えて。たまにだけど、紫音くんが自転車でバイトから帰ってくるのを覗いたりする。

 だから何となく。

 いつもみたいに窓の下を覗いてみると、自転車置き場の近く、チカチカとついたり消えたりを繰り返す街灯の下のベンチに紫音くんが座っているのが見えて。

『しーちゃん……!』
 反射的に部屋を飛び出して、玄関においてあったママのサンダルを履いた。履き慣れないサンダルでコンクリートの階段を降りて、自転車置き場のベンチに近づくと頬を抑えて辛そうな顔をしてる紫音くんが居て。
『しーちゃん?』
 声をかけると、小さく肩を揺らした紫音くんが頬を押えていた手を離した。頼りない街灯の下でも分かる、白い肌の口元が赤くなっていて。近くまで近づいた所で、それが血だと分かった。
『っ、しーちゃん怪我してる!』
 思わず両手で紫音くんの両頬を掴み、点滅する街灯に照らす。血が出ているのは左の口元だけだけど。凄く痛々しくて涙が出そうになる。
『うるさい、部屋に戻れ』
 少し乱暴に手を解かれて、また俯いてしまった紫音くんとは視線が合わなくて。紫音くんが何を考えているのか分からない。


 噂は噂。
 それを鵜呑みにするのも、信じないのも自分次第だ。でもあれは本当に根も葉もない噂だっただろうか。
 時々、私と海月くんを置いてどこかに消えて行っていた紫音くんを思い出す。汗の匂いに混じって、ほんの少し甘い香りを纏っている事もあった。
 それは、紫音くんがいつも付けているムスクの香じゃなくて。誰か違う人のものだと思った。


 でもだから?
 今の痛くて辛そうな紫音くんを助けたいこの気持ちとは関係ないから。
 滲む視界のまま、強引に腕を取った。背が高くて手足が長い紫音くんは、見た目より筋肉がある。太い腕を引っ張って強引に立たせて、冷え切った手のひらを掴んで、コンクリートの階段を上る。素足で履いたサンダルとの間で砂がずれて、痛かった。


 私の家の二つ隣。
 ポストに手を入れると、いつも通り鍵があった。ここに鍵がある時は、紫音くんのお父さんもお母さんも家に居ない時だ。まだこうしてるんだ、なんて思いながら幼い頃から自分で鍵を開けて家に入っていくのを、良く見ていた事を思い出す。
 玄関の扉を開けて、ダイニングテーブルの椅子に紫音くんを座らせる。
 あまり焦点の合ってない瞳を見ると、怪我が酷いのかなと心配になるけど。ひとまず家の救急箱を取りに戻って、紫音くんの怪我の手当をした。
「冷やしたほうがいいのかな?……どうしよう」
 傷を消毒すると、頬が少し腫れているのが分かって。何か冷やす物をと、部屋の中を探し回る。でもちょうどいいタオルが無くて困っていると、静かな空間の中、紫音くんが口を開くのが分かった。
「みのり」
「うん」
「もういい、大丈夫だから」
「でも……」



「……お願いだから」



 最後は懇願するように。
 優しくやんわりと、拒絶された。
 いつだって、冷たい指先で触れてくるのは紫音くんの方なのに。結局最後は、こうやって距離を取られる。



「……分かった。ごめんね、しーちゃん」
 私には謝る事しか出来ない。いつからだろう。名前を呼んでも何をしても、紫音くんは不機嫌になってしまうようになった。

 でも今なら分かる。
 きっと紫音くんは、私の事が嫌いだ。

 幼い頃から、海月くんには甘える様に笑うのに、私にはあまり笑いかけてくれ無かった。
 でもそれは、大きくなるにつれて変わっていって。笑いかけてくれる様になったけど、それはどこか作られた様な、貼り付けたみたいな笑顔で。

『いつまでも甘えてんな、嫌だって自分で言えるようになれ』

 いつか言われた言葉は、思い返せば幾度となく言ってくれた言葉だ。
 優しく守ってくれる海月くんとは対象的に、紫音くんはちゃんと私を叱ってくれる。どんなに厳しい言葉でも、いつだって間違ってなかった。
 私が嫌いな私を、紫音くんは良く知ってる。それは多分、紫音くん自身が自分の事が嫌いだから。自分と同じ気持ちを感じているから、気づいてくれるんじゃないかなと思う。
 例え紫音くんが私の事を嫌いでも、繊細で真面目に私の事を見てくれる紫音くんの事が、大事だ。この気持ちが恋だとか愛かと言われると、自分には良く判らない。紫音くんを見る度に跳ねる胸も。触れられると赤くなる肌も。何と呼んでいいのか分からない。
 紫音くんも、海月くんと同様に、大事な幼馴染。 きっと、ただそれだけだから。



 それから。
 放課後、カフェでのバイトがなければ海月くんが迎えに来てくれる。それを当たり前みたいに待つ自分は、海月くんの側から離れる気なんて無い、そう思う。
 暫く席で待ってみるけど、いつもの時間になっても海月くんは来なくて。一人で帰ろう、そう思って立ち上がり振り返ると、教室の後ろのドアの所に紫音くんが立っているのが見えた。
「……しーちゃんどうしたの?」
「海月が今日は一緒に帰れないからごめんって」
「そっか……」
「うん」
 紫音くんと二人になると、何となく会話が続かなくなった。元々自分はあまり話し上手じゃないから、三人で居る時も二人の話を聞いているだけの事が多いんだけど。
 それとは違って、紫音くんもどこか話しづらそうにしているのが分かるから、ただでさえ少ない言葉は喉に引っかかって出てきてくれない。
「……一緒に帰る?……なんちゃっ……」
「うん」
「……へ?」
「……帰るんでしょ?」
 一緒に帰るだなんて。今更言葉にするのも恥ずかしかった。何よりどれだけ思い返したって、紫音くんと二人きりで帰った事なんて記憶にないかもしれない。
「ほら、行くよ」
「う、うん……」
 紫音くんに促されて二人で教室を出る。
 緩い坂道を下る手前、いつも紫音くんと一緒にいる女の子がいて。
「あ、紫音!遊びに行こー……って、あれ?珍しいね」
 私が隣りにいるのを認識するなり、きょとんと不思議そうな顔をする彼女に、紫音くんは微妙な表情をする。
 紫音くんと一緒に帰った記憶があまり無いのは、いつも紫音くんが女の子と一緒にいるからだ。髪を撫でて、腕を組んで。そうして帰っていく後ろ姿を幾度となく見たことがある。
 紫音くんが女の子に触るのは、日常茶飯事の光景で。女の子達もそれが嬉しそうで。

 だから時々。

 私の髪を掬ったあとに、バツの悪そうな顔をする紫音くんを見ると胸がチクリとする。

 ああ、"間違えたんだ"
 そう、分からされるから。

「……しーちゃん、私そういえば図書委員の仕事あったんだった……だから、大丈夫」

 鼻の奥がツンとする。
 まだ駄目。
 笑わなきゃ。

「じゃあね」
 紫音くんの隣に立つ女の子に軽く頭を下げてから、踵を返す。
「みのり!」
 紫音くんの声が背後で聞こえたけど。
 今振り返ったらバレてしまう。

 何で涙が出るかなんて分からない。
 紫音くんに嘘をついたから?
 あの子達と、私が違うから?

 いつもそう。
 紫音くんの事を考えると、胸がチクチクして頭の中もぐちゃぐちゃになる。それが何なのかは、まだ分からない。

 好きとか愛とか、まだ分からない。



 滲んだ視界のまま、古びた旧校舎のいつもの場所に座る。委員の仕事があると言った手前、暫く時間を潰さないとバス停で紫音くんに会ってしまう。私じゃない誰かを、慈しむように触れる紫音くんに。 
「またお前か」
「……え?」
 振り返ると、いつもの様に電子タバコを手に持った黒沢先生が見下ろしていて。拭い忘れた目元を急いで拭った。
「ごめんなさい……」
「別にいいけど」
「…………」
「来月になったら色づき始める」
「……?」
 いつもの様に顎をしゃくって促す先生につられ、目の前のイチョウの木を見上げる。まだ葉っぱは緑だ。
「早く見たいです……キラキラ光って綺麗だったから」
 去年見た黄色のイチョウの木はとても綺麗だった。

 キラキラと、太陽に透けて輝く。
 紫音くんの髪の色みたいに。

「泣かずに見ろよ、今度は」
「え……?」
「光って見えるのは自分のせいだろ。自分でフィルター取って本質を見ないと、本物は見えないからな」
「…………」
 紫音くんは、私には眩しすぎる。
 子供の頃は私より小さかったのに、あっという間に私を抜いて大きくなった。歳を重ねるにつれて大人っぽくなった顔も、勉強も運動も何でもない感じで卒なくこなすところも。時々纏う、紫音くんの匂いじゃない香りも。全部、私を置いて大人になってしまった様に思えた。

 だから。

 いつまでも昔と同じで変われないそんな自分を、紫音くんは嫌いになってしまったんじゃないかと思っている。
「知ってるだろ?」
「……何をですか?」
「本当の姿を」
「本当の姿……?」
「……人なんてそう簡単には変らない。勝手にフィルターかけて決めつけてるのは周りだからな。自分を重ねて、見失うな」
 黒沢先生の言葉が、胸に刺さった。
 自分勝手に自分を重ねて、紫音くんに対して劣等感を感じているのは自分自身だ。

 変わりたい、変われない。
 でも、私は私だから関係ない。
 でも、置き去りにされるのは寂しい。

 でも、でも、でも……。

 誰か他の人を触らないで欲しい。
 わがままで身勝手な感情が渦巻いていく。



「……ま、十七歳なんてそんなもんだ」
「……どういう意味ですか?」
「何に悩んでんのか分からなくなる、そんなとこだろ。……悩むのは悪い事じゃないけど、大事なもんだけは見失うなよ」
「大事なもの……」
 私の嫌いな私を分かってくれる。
 それはきっと、紫音くんが自分自身の事を嫌いだから。私を鼓舞してくれている様で、きっと自分も奮い立たせてる。そんな気がする。
 勝手に劣等感を感じているのは私だ。
「先生は……」
「あ?」
「あの、えっと……」
「何だよ」
「……女の人に触りたいですか?」
「ゲホッ……何だよ急に」
 タバコを吐いていた途中でむせ返り、こちらを睨むようにする先生。自分の言った言葉を頭の中で復唱して、我ながら唐突すぎて、耳の裏が熱くなるのが分かった。
「あ、違います!あの変な意味じゃなくて!……触りたいって思う時ってどんな時ですか……?」
「ヤリたい時」
「……や」
 間髪入れずにそう答えられて、思わずポカンと口を開ける。経験なんてなくても、あちこちに情報は溢れているから、先生が言おうとする事は分かったけど。
「いや、嘘うそ。好きな女なら別にいつでも」
「……触って後悔する事ありますか?」
「……あるな」
「どんな時ですか……?」
「……そりゃ、触っちゃいけない時だろ」
「何ですかそれ……良く分かんないです」
 私の髪や肌に触れるくせに、驚いた様にバツの悪い顔をして、遠ざけようとする紫音くん。
 その度に、恥ずかしい気持ちと悲しい気持ちが入り混じって泣きそうになる。
「触っちゃ駄目なモノもあるんだよ。自分なんかが……ってな」
「自分なんか……?」
「男には色々あんだよ。察してやれ」
「……え、ちが、別に私がそうとかじゃないですよ?」
「触る触んないとか初々しいなー。もう俺はそんなの忘れたわ。ほら」
 ふいに、ポンと頭に手を乗せられ撫でられる。嫌悪感も違和感も何も無いそれは、ただの動作にしか感じない。
「何とも無い相手にされても、何とも無いんだよ。そうじゃなければ、それはそういう事だ」
「……はぁ」
 どういう事?そう思いながら、頭から手を離す黒沢先生を黙って見上げる。
「……やべ。セクハラになるかこれ」
「……そうですね」
「マジかよ」
「嘘です、大丈夫です」
 思わず口元が綻んで、ぐるぐる巡っていた感情が少し薄れたのが分かる。
「お前そろそろ帰れよ」
 先生に促されお気に入りの腕時計を見る。そろそろ、紫音くんに会わずに済む時間だ。
「先生ありがとうございました」
「おう。気をつけて帰れよ」
「はい」
 踵を返して背中を向けると、ゆっくり窓が閉まる。愛想が悪そうに見えるし、口も悪いけど。私が悩んでいると、何となく察してこうして元気づけてくれる。
 そう思うと、どんどん心が晴れてきて。
 不思議と、紫音くんに会いたくなってしまった。



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