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【小説】僕たちのゆくえ16
s8.変わらないでいて
顔の腫れと傷が治るのに数日かかった。
流石にあの顔でバイトに出るのは気が引けるから風邪をこじらせたことにした。
相変わらず海月とはろくに話していない。
あんなに海月に触れられる事が嬉しかったのに、ほんの一ミリ。海月の指を避けてしまった。聞いてほしい事はたくさんあるのに。なかなか踏み出せないでいた。そんな、ある日。
「……え?莉子ちゃん?」
久々にバイト先に顔を出すと、思わぬ人と再会した。
「しーちゃん久しぶり!いい男になったね」
少しつり目の大きな瞳。昔から茶色っぽかった髪は艶かなロングヘアーになっていて。
久しぶりの再会なのに、ハキハキと物怖じしなさそうな立ち振舞いは昔と変らない気がする。
「えー何どうしたの?こっち戻ってきたの?」
「まぁね。それより本当、あんなに可愛かったのにこんなに成長するんだね」
少し背伸びをして、自分の身長と比べる仕草をする莉子を見ながらふと我に返る。
海月の方に視線を送ると、微妙な面持ちで自分達のやり取りを見ていて。何を考えているんだろうかと、不安になる。
あの事故の後、自分だけに教えてくれた。莉子を突き飛ばしたのは自分だと。
熱い、と泣き叫んだ莉子が忘れられない。助けてと、自分を見つめていた莉子が脳裏から離れない。
そう、泣きながら話していた。
まだ赤く主張する右手で目を擦ろうとする海月を制して、幼いながらに小さな身体を抱き締めてあげて。
『だいじょうぶだよ』
そう、背中をポンポンと撫でたのを覚えている。
その事故以来、海月は自分を責めながら生きている様に見える。
自分が怪我をさせてしまった。
女の子なのに。
守らなきゃいけなかったのに。
……と。
だからだろうか、身近にいるみのりにやたら構うようになって。みのりがクラスの男子にからかわれて泣いている時も、折り紙で指の先を少しだけ切った時も。血相を変えて、みのりを守っていた気がする。まるで莉子に出来なかったであろう事をするかの様に。
その日の帰り道。
久しぶりに海月と二人きりの時間が訪れた。ここ数日自分の事で頭がいっぱいで、海月がこんな事態になってるなんて気づかなかった事が悔やまれてしまって。
「……海月」
「ん?」
「ごめん」
「……何が?」
団地の手前、幼い頃からよく遊んだ公園に入ってブランコに腰掛けた。
すっかり日が落ちた公園は、小さな街灯が頼りなく照らすだけで。キィキィと音を立てるブランコが耳障りで。自分から切り出したものの、何となく言葉が紡げなくて。
「……最近色々あって、頭の中ぐちゃぐちゃで……」
「……大丈夫か?」
何から話せばいいのか分からなくて言い淀むと、海月が心配そうな声でこちらを窺うのが分かった。
いつもそうだ。
自分の事より周りの人の事を優先する。
莉子の事、母親の事。海月にだって思い悩む事は沢山あるのに、いつも自分の事は放っておいて周りを助けようとする。
もっと我儘に、自己中心的に生きればいいのに。そう思う。でもそれが出来ないのが海月らしさだとも分かるけど。いつだって泣きそうな顔で笑うのは、海月の方だから。
それから。
楓との事を話すと、海月はそっかと一言だけ呟いた。あまりに淡白な返事に思えるけど、それは自業自得で。だらしない自分が引き起こした事の結末なんだからそれ以上いう言葉なんて無いだろうなと自嘲する。
でも思う。
根掘り葉掘り聞かないのは海月の優しさだし、自分が思いの外ダメージを受けている事に気づいているだろうから、海月は言葉少なに受け入れてくれるのだと。
「暫く遊ぶのはやめとこうかな」
思ったより台詞っぽい浮ついた笑いが出てしまって。本当に自分という人間は軽くて浅はかなんだなと自覚してしまう。
どんなに身体を重ねたって、身体が経験を重ねるだけで大人になんてなれなかった。むしろ、自分がまだ十七歳の子供なんだと目の前に突きつけられるだけで。
「……俺に出来る事、ある?」
思わず俯いてしまっていた自分に、海月の言葉は凄く苦しくて。言ってはいけない感情が湧き出てしまいそうになる。
好きなんだ。
ただ、海月の事が。
頼りない街灯の下、砂の地面を見つめながら心で唱える。何度も心の中で思うけど、言葉にかたどってはいけない気持ちを。
――ガシャン
口を開けば、もう紡いでしまうかもしれない、そう思って。わざと音を立ててブランコを降りた。
海月がいない未来なんて想像出来ない。
なら、きっと。
この想いは伝える事は無い。
だからせめて。
「……どんな僕でも、変わらないで居て」
もし、海月が気づいてしまっても。
変わらないで欲しい。
――我儘かもしれないけど。
街灯を背に海月の顔をみやる。
きっと大丈夫。
この頼りない街灯のお陰で、上手く笑えてる様に見えるはずだ。
大丈夫。
「……変わらないよ。昔も今も、これからも」
自分に反して、街灯に照らされた海月の顔はいつも通りだ。飛び抜けて笑顔であるとか、そういう表情はしない。無表情に見えるけど、ただただ穏やかな心地の良い表情だ。
「……ありがと海月」
「ん」
短い返事は、少し照れている証拠で。
自分も少しつられそうになる。
「海月は?莉子ちゃんの事、大丈夫なの?」
自分の話になった途端、海月は顔を曇らせた。少し話しづらそうにしてるけど、きっと思い悩んでるに違いないから。
「あー……一応昔の事、謝ったんだけど」
「うん」
「何ていうか、はぐらかされてるっていうか」
「はぐらかされてる?」
「うん」
何かを話そうとしてるけど、何を話していいのか分からない。そんな感じが手に取るように分かる。
幼い頃、ほんの少しだけど莉子と遊んだ事がある。三つ年上の莉子は、ハキハキとしていて割と強引なタイプだった。つり目の大きな瞳が、有無を言わさない。そんな感じのところもあった。
自分の母親と同じく、酒の席で男の相手をしている母親と二人暮らしの莉子は、酷く痩せていたし、酷く大人びていた。
そんな莉子と海月が仲良くしているのが少し不安だった。海月を取られてしまうんじゃないかと、莉子を嫌いになりそうな事もあったのだ。
でもそうならなかったのは、あの事件があったからで。
莉子を突き飛ばして怪我をさせてしまったと泣いていた海月を見ながら、海月が莉子を拒絶した事に、どこか心の奥底で喜びを覚えてしまって。莉子は自分にも優しかったから、どこかで後ろめたさを感じているのも事実で。
「……ちゃんと話せるといいね」
そんな、当たり障りの無い事しか言えない自分に、海月は小さく頷いていた。
金曜のバイトが終わる時間になると、優花から連絡が来る。ここ最近はそれが決まりだった。
不倫の末の失恋から立ち直れない優花と、何もかもぐちゃぐちゃだった自分が心の隙間を埋めるには、肌を合わせる事しか術が無かったからだ。
けれど楓との出来事があった今、優花とこうして会うのももう終わりにしなければいけない、そう思う。
「お疲れ」
「うん。優花もお疲れさま」 カフェを出て少し先の路地で優花は待っている。店で待てばいいのにと言ったら、ファンの子に目つけられるから。とかいって笑っていた。
「……優花あのさ」
いつもなら迷わずネオンの光の中に溶けて行くけど。いつまでもこの関係を続けるのは優花に対して不誠実だし、優花も自分も前には進めないから。足が進まなくて立ち止まると、優花も自分に合わせて立ち止まった。
「……うん」
街を行き交う人たちは、立ち止まった自分達に迷惑そうな視線を向けてくる。
賑やかな音楽も、車の音も、いつもと変わりない風景だ。いつもこの日常に溶け込んで、ぐるぐると頭の中を支配する気持ちを見ないふりしていた。
それはきっと優花も同じで。そんな何でもない日常に自分との逢瀬を組み込むことで、どうしょうもない感情に鍵をかけていたんだと思う。
「あのね、優花……」
どう言ったら、優花は傷つかないだろう。
なんて。
性懲りも無くわがままな事を考えてしまう。
こんな身勝手な事をしているんだから、傷つけないなんて無理なのに。
すると、そうこうしているうちに、優花が口元をほころばせて笑った。
「紫音くん」
「うん」
「今までありがとう」
「……え」
「顔見れば分かるよ」
優しく微笑んでいる優花に、言葉が詰まる。
「……最初は身体だけだったかもしれない。でも、紫音くんが私を大事にしてくれてたのは分かってるよ。それに、いつまでも紫音くんに甘えてちゃいけないのも分かってる」
「優花……」
「切り出させちゃってごめん。私の方が大人なのに」
「僕だって男なのに……言わせてごめん」
何だか格好悪くて、自然と視線が地面に落ちる。そんな自分に気づいたのか、優花がぎゅっと身体に抱きついてきた。ちょうど俯いていた鼻先に、嗅ぎ慣れた優花のシャンプーの香りが香る。
「優花、ちょっと人がいるから……」
行き交う人達は、迷惑そうな嫌なものでも見るような複雑な顔で見て見ぬ振りをしてる。
「誰に何と思われようといい。最後だよ?ちゃんと抱きしめとかないと」
「何それ」
その言葉が何だか可愛くて思わず笑ってしまうと、優花がそのまま自分を見上げた。
「優しくて温かい紫音くんの事、ちゃんと覚えときたいの。……側に居てくれてありがとう……もう、私は大丈夫」
大丈夫。そう言って抱き締めていた腕を解く優花。その瞳は力強かったけど。少しだけ唇を噛んでいる優花がいじらしくて可愛くて。
「優花……」
こんなに可愛い優花を好きになれれば良かったのに。そう思うけど。感情なんてそう上手くはいかないのも良く分かっているから。
「僕もありがと。優花が居てくれて良かった……本当に。……可愛い優花も素敵だよ。自信持ってそのままでいて」
「……子供のくせに何言ってんの」
「あー僕はまだ子供だよ?その子供捕まえたのは誰だっけ?」
「……誰だっけ?」
「とぼけんな」
二人でふふふ、と笑い合う。
別れるのが名残惜しくて、他愛もない話をしてしまう。
「……紫音くん」
「うん」
「自分の気持ち大事にしてね。……私みたいに、誤魔化しちゃ駄目だよ」
自分をどこかで押し殺す事でしか、相手と一緒に居られなかった優花。相手のために、相手に合わせるその様は健気で可愛くさえある。でもその健気さ故に、騙されていたのも事実で。
優花の可愛さをちゃんと受け止めてくれる人と、いつか出会えるといいなと、心の底から思う。
と、同時に。
本当の気持ちを誤魔化している自分には、なかなか心を抉られる言葉だったりする。
「はい、は?」
「んー……じゃあ、はい」
「ふふ、何それ」
「嘘だよ、大事にする……心も、身体も」
「……うん。私も」
誰でも良かったわけじゃない。
少なくとも優花と自分の間には、セフレというカテゴリー以外の何かがあった。
でも優花以外の人と、感情に任せて身体だけでも満たされたい時があった。終わってしまえば虚しいだけで、心も身体もすり減っている。分かっているのに、やめられなかった。
多分お互いにだけど、もうそうならないで欲しいと、願ってしまうんだろう。
「……連絡先消していいよ」 「……うん、そっちもね」
「もうカフェには行かないから」
「うん……」
「ありがとう、紫音くん」
「ありがとう、優花」
何となく。
どちらともなく近づいて、背伸びした優花にキスをした。軽く触れる唇が震えていて、思わず抱きしめそうになったけど。
手のひらをきつく握ると同時に離れた優花に、最後の感謝をした。
「じゃあね」
「うん……じゃあね」
そう言って踵を返す優花。
振り返らずにゆっくりと歩いて行く背中をじっと、見届ける。
「さよなら、優花」
雑踏に消えた優花に、そう呟いた。
次の日曜日。
すっきりしたような、どこかぽっかり穴が開いたような不思議な気持ちだったが、日常は当たり前に自分を迎えに来る。昼過ぎに起きて、夕方前からバイトに行く。何もない時の日曜日なんて、そんなもんだ。
バイト先のマスターに買い物を頼まれて繁華街へ出た頃には日が落ちていて。昨日優花と別れた時の事を鮮明に思い出す。
やっぱりどこか寂しい気持ちは誤魔化せない。でもその寂しさを誤魔化さずに受け入れる事が、今の自分には必要なのかも。なんて、大人ぶって考えてみるけど。受け入れるというのは、どうしたらいいんだろうか。
この顔も身体も、受け入れられない。
上手く使ってたち振る舞ってるくせに、何となく認められない。自分の身体なのに。幼い頃の色々が、認める事を邪魔してる。
母親が外人だから。
髪の色が明るいから。
だから何だ。
自分は自分。
人からどう見られようが関係ない。
そう、思えたらいいのにと思うけど。 簡単にいかないから、こう立ち止まっているんだ。
「全部は無理か……」
悩みの無い人間なんて居ないだろう。全て解決するなんて、到底無理な話だ。少なからず、みんな何か抱えてる。みんなこの街を平気な顔して歩いてるけれど。
「……帰ろ」
あまり時間を取ったらバイト代から差し引かれるかな、何て思いながら、カフェへ近道をしようと行きなれた細い路地に入る。
大通りの街灯とは違い、ピンクの怪しげなネオンが光っていて。優花とよく来たラブホテルの近くに差し掛かったところで、聞き覚えのある声が海月の名前を呼んだ。
「……海月?」
ラブホテルの前、海月が背の低い男と対峙して睨み合っている。後ろでは莉子が何やら喚いているが、反射的に身体が駆け出していて。
男と更に顔を近づけたかと思うと、海月が右腕を振りかざして。
「……っ!!」
寸前の所で海月の腕を抱え込み、男と距離を取らせる。弾みで男の肩を押しやると、その男はいとも簡単に尻もちを付いていた。
今だ向かっていこうとする海月の胸を押しながら、スマートフォンを掲げる。
「警察よびますけど、まだやります?」
スピーカーに切り替えてコール音を聞かせると、連れの男が尻もちを付いた男を引っ張って連れて行こうとしていて。
「覚えとけよ!」
何て、酷く格好悪い捨て台詞を吐いて二人は繁華街へと消えていった。
振り返って海月を見ると、今だ拳を握りしめていて。酷く興奮しているのが分かる。
「海月、落ち着いて」
ポンと、一つ背中を叩くと、海月の背中に当てたままの手のひらがじわりと温まっていく。すると、海月がやっと声を発した。
「……紫音……」
ポン、ポンと撫でるように繰り返したところで、海月はやっと我に返った様だった。
「悪い……」
「……ん。じゃバイト戻るね」
そう言い残して背を向けて手を振る。
莉子の顔なんて見れなかった。
嫌でも予想が付く。
莉子のために怒ったんだ。
莉子のために、こんなに怒るのか。そう思うと、どうしようもない感情が湧き出てくる。
相手がみのりでもそうだったはずだ。きっと、それが自分でも海月はそうしてくれる。
でも自分はそれを望んで居ない。
自分だけのために怒って欲しい。
そう願ってしまう。
そして、こんな時にそんな事を考える自分が嫌いだ。やっぱり、こんな身体も心も
嫌いだ――。