
【小説】僕たちのゆくえ 5
m3.無意識
昔から、みのりはいつもにこにこと笑っていた。大丈夫、そう眉を下げて笑っていた。でもそういうときは大抵大丈夫じゃないと言うことも分かっているから。少し長い前髪の奥がちゃんと笑っているかいつも、心配だった。
でもふと思う。
幼馴染だからこんなに心配なのか。リコの事があったから。もう誰も傷つけたくないから、側にいるみのりを無意識に傷つけたくないと思っているのだろうか。
だからなのか、みのりに似た彼女をほっとけなかった。
放課後。
用事があるからと、珍しく紫音が先に教室を出た。体育の授業のあと、クラスメイト達から少し遅れて教室に戻ると不穏な空気が部屋の中には満ちていて、紫音と園田愛衣、そして美波楓が紫音の席の辺りに集まっていた。その事と何か関係あるのかもしれないと考えをめぐらせるが、紫音の事。上手くやるだろうそう思い、少し遅れて教室を出た。
みのりの教室を覗くがみのりももう居ない様で。校内をフラフラとしているとうっかり担任に捕まり、プリントの整理を頼まれてしまった。いつだったかみのりもやっていたな、なんて思いながらプリントを綴じていく。あの時のみのりは泣いていた気がしたけど。大丈夫かと声をかけても、大抵眉を下げて大丈夫と言うのが決まりだ。
小さい頃から自分の思っている事をなかなか言えない所はあったけど。幼馴染なのだからもう少し頼ってくれてもいいのに。なんて思う。
プリントをまとめて職員室に持っていき、校舎を出ると部活動にはげむ生徒達の一方、帰路につく生徒はぐんと減ったようだった。すっかりオレンジ色に変わろうとする空を見上げながら、校門を抜けようとした瞬間。
「……っ」
「きゃっ……」
視界の隅に蹲っていたそれがふいに立ち上がり、足元に透明の放物線が描かれる。ゆっくりとした動作で見えたそれの先に視線を合わせると、鼻先に甘い香りが触れた。突然立ち上がりバランスを崩したのであろう彼女の両腕を支えたままでいると、右手に持っていたジョウロがカランつと音を立てて落ちた。
「あ、あの、ごめんさないっ……」
弾かれた様に彼女が自分と距離を取る。少し俯いた彼女を覗き込むと、いつかの一年生の様だった。
「……大丈夫?」
そう言いながら落ちたジョウロを拾い上げようと腰を折ると、
「靴濡れちゃいましたかっ……?」
そう言って彼女がしゃがみ込み、ポケットから出したハンカチで自分の靴の水滴を払った。薄いピンク色のハンカチが濃く染まっていく。
「いや、大丈夫」
「ごめんなさい……っ」
「ちょ、本当に大丈夫だから」
拭き続ける彼女の手を掴み制止すると彼女の肩が揺れ、やっと視線が合った。少し上気したような頬に潤んだ目がこちらを見上げている。制止していた手をほどき再び腕を支えて彼女を立たせる。
「いつかの子だよね、教室の」
「あ、は、はい……」
「あの時はごめん、バイトだったから」
「いえ、あの私もすみません……」
あの時はごめん。なんて言っても、何がしたかったのかは察しがつくから。なんとも言えない沈黙が流れて。いたたまれなくなって手を離し、ジョウロを差し出す。すると彼女は無言でそれを受け取りこちらを真っ直ぐに見た。
「田辺紗夏と言います、一年生です」
「……あぁ、うん。俺は」
「吉澤先輩」
にこり。少しはにかんだ様に田辺紗夏が笑う。
「…………」
「引き止めてしまってごめんなさい、靴も」
そう言って足元に視線を落とす紗夏。長いまつげが揺れて影を作り、大人しそうな印象だった紗夏の雰囲気がどこか変わって見える。すると、ふいに紗夏が眉を下げて笑った。困った様な、どうしていいか分からないといった様な複雑な表情で。その様はやっぱり、みのりに似ている様に思えたし。
「先輩……?」
「……あぁ、いや。大丈夫、気にしないで。じゃぁ」
「本当にすみませんでした……ありがとうございます、吉澤先輩」
何より、普段初対面の人にも大抵は下の名前で呼ばれる事が多いから。久しぶり過ぎて不思議な感覚だった。
それから、たまに紗夏を見かけると、彼女はぺこりと頭を下げて微笑む様になった。いつだったかあの緩い坂道で顔を真っ赤にして声をかけるのを躊躇っていた彼女とは少し様子が変わっていて。むしろ自分にとっても、周りでうじうじされるよりもその方が楽だったし、言い寄られるわけでも何かをされるわけでも無いから。どこかで気を許していたのかもしれない。
珍しくみのりが風邪をひいたある日。一人バスの手すりに掴まりながら窓の外の風景を眺めていると、途中のバス停に停まるタイミングで小さく揺れた車内で、ふわりと甘い香りが右腕に触れた。
「あ、ごめんなさ……吉澤先輩?」
声につられて視線を下げると、混み合った車内バランスを崩したらしいが紗夏がこちらを見上げていて。バスの入り口が開き、これでもかと客が乗り込んできたかと思うと、小さな悲鳴と共に、紗夏が寄りかかる形になった。
「大丈夫?」
手すりを掴みそこねた紗夏の身体が、バスの振動と共に自分に寄りかかる。
「ごめんなさい……」
「……腕、掴める?」
「え?」
「どこでもいいけど。危ないから」
周りの客にも迷惑だろうからと思い、紗夏を自分に掴まらせる。最初は遠慮して制服の端っこを掴んでいた紗夏だったが、バスの揺れに応じて自分の右腕を掴んでいた。
学校の前にバスが停車し、圧迫された車内が少しずつ開放されていき、紗夏が握っていた自分の腕を離したのもつかの間。一際大きな鞄をもった生徒が勢いよく後方から歩いてきて。鞄が紗夏の背中に当たり、その勢いで紗夏が自分の方にふらりと倒れてきた。
「きゃ……」
今度は抱き止める形になって、鞄を当てた張本人を見やると、すいませんと言いながら足早に降りて行ってしまった。
「大丈夫?」
紗夏を支える手を離しそう声をかけると、紗夏は少し恥ずかしそうにしながら笑っていた。
「先輩、いつも大丈夫?ばっかりですね」
今までより少し砕けた話し方に戸惑いながらも、
「……いや、そっちが危なっかしいからだろ」
そう答えると、紗夏はまた笑って。何となく二人でバスを降りて、何となく二人で緩い坂道を歩いていた。みのりに似た黒い長い髪が右側で揺れていて。みのりとは違う少し甘い香りが鼻先に香っていた。