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【小説】もう一度、愛を7


アネモネ 3.涙



  大丈夫。
 きっと、まだ大丈夫。
 
 そう言い聞かせていつもと変わらない日々を過ごしていたけど。あのコンビニの夜以来、彼女は前にも増して何かを考える様な仕草を見せた。
 時折、自分に対して申し訳無さそうな素振りをする彼女を見て、胸が苦しくなったけど。何かを自分から切り出せば、彼女はきっと離れていく。
 そう思うから、この場所から動く事が出来なかった。





「海行くぞ」
 夏休みに入って、いつものメンバーにそう声をかけた。もちろん彼女も誘って。付き合い始めてから初めての夏。せっかくだから楽しい事をしなくては損だ。
「何だよ急に」
「せっかくの初めての夏じゃん!気晴らしに楽しい事しないと勿体無いじゃんっ」
 二人で海に行くっていうのも悪くない。けれど今のこの状況じゃ断られるに違いないから。逃げ道をなくしてしまえばいい。
「……気晴らしって言っちゃってるじゃねぇか」
 何ていう一真の声は無視して。スマートフォンを開いて、目ぼしい店をセレクトした。

 次の土曜日。
 ワクワクと胸が躍る気持ちと、多少の怖さを感じながら彼女に電話をかけた。
 起きたばかりだったのか、少しかすれた声がスマートフォンの奥から聞こえて。それが少し色っぽいななんて思ったりして。少し一方的に待ち合わせの時間を伝えて電話を切った。
 強引だって思う。
 けれど、隙や時間を与えてしまったら彼女は考えて立ち止まってしまうから。
「……よし、準備するか」
 洗面所の前。顔を洗って気合を入れて、愛しい彼女へ、会うための準備を始めた。





 十一時半。
 気合が入りすぎて三十分も早く着いてしまった。いつだったか、彼女が先に待ち合わせ場所に来ていて、変な男に絡まれていたことがあったから。少しだけ自己評価の低くて押しに弱い彼女の為、危ない事はなるべく避けられるように。待ち合わせの時は先に着くようにしている。

 すると十一時四十五分。彼女もまた待ち合わせの時間より早めに現れた。
「おはよう、早いね」
「うん!おはよ」
 小花柄のワンピースにサンダル。
 いつものシンプルなシャツにタイトなスカートとは違って可愛らしいそれを見て、少しはデートだって意識してくれてるんだなと、嬉しく思う。
「どこ行くの?」
「買い物」
「何買うの?」
「内緒。行くよー!」
 右手を半ば強引に引っ張ってから、いつもみたいに指を絡める。

 しっかりと、離れないように。
 彼女が、迷子にならないように。

 ギュッと握り締めるほど、細い指はすりぬけていく気がしたけど。
「奈々ちゃん?」
 ふと、歩みが遅くなった彼女を振り返る。
 立ち止まってしまった彼女は、俯いていたけど。
「体調悪い?」
「ううん、大丈夫」
「本当?」
「うん」
「調子悪かったら言ってね」
「うん」
 少しだけ、気づかないふりをして。
 彼女の手を引っ張って、頼りない道を歩いた。

 カラフルな店内は、カップルや女の子同士の買い物客で溢れていた。色とりどりの水着を見ながら寄り添うカップルを見て、手を繋いではいるものの何となく距離が出来てしまった自分たちの隙間を見やる。
「ねー、奈々ちゃんこれ可愛い!」
 手に取ったのは黒地に白のドットのビキニだった。普段シンプルで、時にふんわりと可愛い服を着ている彼女とは、少しイメージの違う色っぽい水着だ。
「……水着なんてどうするの?」
 少し諦めたように、それでいて少し恨めしそうに。上目遣いに見上げられて加虐心みたいなものが生まれてくる。
「海行くんだよ明日」
「……明日?無理だよ!」
「何で?明日晴れだよ」
「そういうことじゃなくて!」
「あいつらの休み合うの明日しかないんだよ」
「……あいつらって……」
 畳みかけるように言うと、彼女は黙ってしまって。
 多分、色々準備があるのに、とか。また何だかんだと言い訳を頭の中で列べているに違いないから。
 ちょうど背後にあったギンガムチェックのオフショルダーのトップスにスカートタイプのビキニと、ワンピースタイプの水着も手に取って、そのままフィッティングルームに彼女を押し込んだ。
「……ちょ……圭太はだめだよ」
 普通のフィッティングルームより広い室内は、壁が簡易的とはいえ、大きな鏡と一人がけのソファがあって。カップルオーケーと謳っているのが、手にとるように分かるようなお洒落なスペースになっていた。
「カップルオッケーって書いてあった」
 そうにっこり笑うとさすがに彼女も観念したようで。鏡の前に敷かれた毛足の長いマットの上に乗って、頼りないカーテンを締めた。

 少しして、カーテンがゆっくりと開いて。スマートフォンに落としていた視線を上げると、ギンガムチェックのビキニを来た彼女が恥ずかしそうに立っていた。
 多めの布で隠れた胸と、スカートタイプのビキニ。もっと見たい気持ちと、誰にも見せたくない気持ちが入り混じって。密かに一番気にいっているのはこの水着だった。
「かわいー!めっちゃ似合う!」
 くるりと回転させると、スカートがひらりと揺れて細い足の先の脹らみが一瞬だけ見える。今すぐにでも抱き締めたい衝動を気付かれないように押えて。
「はい、じゃあ次」
 そのまま鏡の前に押しやってカーテンを締めた。
 次に着て出てきたのはワンピースタイプの水着だった。可愛いけど、可も無く不可もない。自分的には黒のビキニの前のワンクッションのつもりでついでに持たせた水着だったりする。
「はい、次ー」
 閉められたカーテンの向こう。衣擦れの音がして、細い隙間にワンピースの水着が床に落ちるのが見える。それに気づいた途端に胸が高まって、身体が熱くなって。
「奈々ちゃーん、見せてー」
 少しおどけてそう声をかける。
「……や、ちょっと待って、これだめ」
 その掠れた声が色っぽくて。カーテンを開けようと手をかけると、細い指先が出て来てそれを阻まれた。とはいえそんな抵抗なんて、微々たるものだ。
 少し強引にカーテンを開けると、彼女は身体を翻して鏡の方を向いてしまった。
 自分を抱き締めるように、小さな胸を隠すように身体を小さくする彼女。
 けれど、細い腰のラインとかその下の膨らみとか。白い肌に黒がいやらしく映えて、どうしょうもない衝動がうまれてしまう。
「…………」
 少しして、鏡越しに彼女が見ているのが分かって。じっと見つめると、白いうなじが真っ赤に染まっていった。
「……っ……」
 恥ずかしそうに息を呑む彼女。
「……見せて」
 耳元でそうささやいて、両肩に手をそえる。
「奈々ちゃん」
「…………」
 まるで呪文にかかったみたいに大人しくなった彼女がこちらに振り返って。胸の前でクロスしていた腕をやんわりと解いた。
 いつもより深い谷間が目に焼き付く。白い肌も、赤くなるうなじも全部。彼女を独り占めしたい、そんな独占欲を湧き立てて。華奢な肩に頼りなくひっかかる紐を落として抱いてしまいたい衝動に駆られた。
「……圭太……?」
 少しして、うつむいていた顔を不穏げに持ち上げた彼女。まるでそれは、捕らわれた獲物みたいに怯えて見えて。
「……だめ……っ」
 それを察して小さく拒んだ言葉ごと飲み込むように。唇を重ねて、頭を押さえ込む。角度を変えて唇を噛むと、吐息に混じって喘ぐ声が聴こえて。
「……っ、はぁ……」
 息を吐いた彼女が、瞑っていた目をゆっくりと開く。まだ、まどろむような自分を欲するような色っぽい目で。彼女に押し付けていた身体を離して視線を泳がせた。
「……圭太……?」
「……あ、ごめん」
 自分から仕掛けておいて、このざまだ。
 結局自分は、彼女が好きでたまらない。
 今すぐにでも抱いてしまいたい。
 そう、彼女を欲してしまう。
「…………」
 まだ不安げな視線の彼女に気づいて、視線を合わせて今度は優しく抱きしめる。
「……こんなの可愛すぎるからだめ」
 そう耳に唇をつけて囁くと、また彼女は顔を真っ赤にしてしまった。





 翌日。
 一真に車を出してもらって海へ向かった。本当は電車で行くのも悪くないけど。綾華が急に行けないと言い出した事で一真にお願いする事になった。
 隼と雪音と三人で後部座席に座る彼女を見て、早く自分も免許を取ってドライブデートしたいな、なんて想像しながら彼女の様子を伺うけど。綾華の話題になると、途端に表情を変えて窓の外を眺め始めてしまった。
 誤解は解けたと思っているし、ヤキモチをやかれる事は悪い気はしないから。本当は何があって、彼女が何を考えているかなんて。このときの自分は考えることもしなかった。

 
「着いたー!海ー!」
 目の前に広がる海と青い空。
 テンションがあがって思わず走り出すと、それに続くように隼と雪音が追いかけてきた。
 黒縁眼鏡に黒い髪。一見真面目でおとなしそうに見える隼だけど、意外とお喋りで優しい男だ。
 一方の雪音は、いつもにこにこ笑っていて、幼少期から少しふくよかな身体も手伝って、正直もちもちと美味しそうな見た目だ。隼に言ったらきっと殺されかねないから、自分の中だけに留めているけど。
 バラバラの様で三人で居ると何だか落ち着く。幼馴染っていうのは不思議なもんだなとふと思う。
「ビーチバレーやろ」
 パーカーにショートパンツといった、完全防備の雪音がビーチボールを掲げてみせる。
「三人でやってもつまんねぇよ。奈々ちゃんと一真は?」
 テンションのままに走り出して、彼女を放っておいてしまった事を思い出した。走ってきたほうを見ると、一真がパラソルを立てるなか、ぼんやりと海を見つめている彼女が見えて。
「……たまにはいっか」
 この広い海を見てたら、今の悩みなんて些細なものだ。そう気づいてくれるかもしれない。それに……。
 荷物を置いてパラソルの下に二人で並んで座る彼女と一真。二人共海の方を眺めていて、お世辞にも会話が弾んでいるようには見えないけど。
 少しして、たまに顔を合わせて話し始める二人を見やってから、雪音のビーチボールを奪って、もう少しだけ遠くへ走り出した。




「きゃー」
 ゆるく跳ねたビーチボールが雪音の頭に当たって、隼が心配そうに頭を撫でる。
「ユキ、ちゃんとしめて。圭太が見るから」
 そういって、パーカーのジッパーを首元まで上げて、隼が睨んできた。
 雪音に対して過保護な隼。幼い頃から雪音の事が好きだったのに、付き合い始めたのは高校卒業の前くらいからだ。そばで見てるこっちはもどかしくて仕方なかったけど、二人がくっついてほっとしているし、雪音を恋愛の対象として見たことは無いから。
「見ねぇわ、ばーか」
「ばかってひどい!」
「うるせぇー……って!痛ってえ!」
 そばにあったビーチボールを隼に投げつけられて、顔面を強打する。
「てめ……待てこら!」
 逃げ出した隼を追いかけて。そんな自分達を雪音が追いかけて来て。こんなやり取り割といつものことだけど。夏っぽくてつい楽しんでしまった。
 その時その瞬間を楽しみ過ぎて、考えなくてはいけない事から目を背けてしまう。それが自分の悪い癖だ。現に、彼女を一真に任せっきりで海を満喫してる。
「……ちゃんとすっか……」
「あー!圭ちゃん、あぶないー」
 雪音の声で我に返って、ビーチボールが自分の後ろに逸れていくのに気づいた。ポンと砂に落ちて、少し黒い細い足首の元で止まった。
「やべ」
「これ君の?」
 黒いビキニの二人組がビーチボールを拾ってこちらに歩いてくる。茶色のストレートヘアーを靡かせた二人はいい具合に焼けてて、黒のビキニの谷間もいい具合で。
 ビーチボールを受け取って、自ずと谷間を見下ろす形になると、二人が満足そうに笑い合って距離を詰めてきた。
「ありがとうございます」
「君何歳?」
「二十歳っす。お姉さんは?」
「お姉さんだって!かわいー」
 自分より年上っぽく見える二人だけど、彼女と同い年くらいだろうか。茶色い肌にも黒のビキニは映えるし、見事な谷間は男心をくすぐるけど。
 不思議と何とも感じないし、おんなじ年上でもこうも違うんだなと、頭の中で彼女の姿を反芻してしまう。
「後ろの彼もお友達なら一緒に遊ばない?」
 片方の女が腕に触れながら、少し後ろで自分の帰りを待っている隼を指す。
「あーいや……」
 やんわりと、女の手が離れるように後頭部をかくふりをして距離を取ると、もう一人が今度は雪音を指していった。
「あんな子よりあたし達との方が楽しくない?」
 隼の少し後ろで心配そうにこっちを見てる雪音。白くてもちもちした雪音は確かに目の前の谷間と比べれば、そういう意味で言えば物足りないけれど。
「幼馴染なんであんま悪く言わないでやってください。それじゃ、いい谷間ありがとおねーさんっ」
「なっ……」
 満面の笑みを貼り付けて言い残して背中を向けると、背後でごちゃごちゃ文句を言っているのが聞こえるけど。
 
「わりぃ。ナンパされちゃった」
「何か怒ってるよあの人達」
「大丈夫だって、ほら行くぞ」
 大事な幼馴じみけなされる筋合いなんてないし、どんなに色っぽい女がいたって、自分はもう彼女にしか反応しないんだって、目の当たりにして。
「あ、やべっ。カズが奈々ちゃん口説いてる!」
 ふいにパラソルの方を見ると、一真が彼女の顔を覗き込むようにしていて。困惑している彼女の表情が遠目にも見えて。隼と雪音を置いてパラソルの方へ駆け出した。
 
「おいカズ、人の女口説いてんなよ」
「口説いてねぇよ」
 一真がこちらに振り返って、思いのほか彼女との距離が近かった事に気づく。
 別に一真が彼女をどうこうするだなんて思っていない。無口だけど、心配性で周りのことをちゃんと見てる優しい男だから。自分の彼女を口説くだなんてするわけがない。
 ただ少しだけ苛立ってしまうのは、こんなに自分は彼女が好きで、誰にも取られたくないし見られたくないとさえ思ってしまうのに。
 ゆるくあいたパーカーの胸元が無防備な事とか、一真に意図も簡単に距離を詰められてしまう彼女の甘さとか。危機感の無さとか、自分の事を分かってないところとか。挙げていけばキリが無くて。
 それほどに自分は。
 彼女の事が好きなんだと知らされてしまうから。
「…………」
 パーカーのジッパーを一番上まで上げて、細い手首を掴んで少し強引に立ち上がらせる。

 ほら、こんなに簡単に連れされる。
 
 そう思うと、また苛立ってしまって。 
「飲み物買ってくる」
 背中越しに一真に声をかけて、砂浜を歩き出した。



 混み合った砂浜の上、はぐれないように掴んだ手は汗ばんでいた。こんなにキツく掴んでいるんだから、彼女は離れられないし逃げようがないのに。どこからともなく湧いてくる焦燥感が、自分を焦らせる。
「……何話してたの?」
「……え?」
「カズと」
「……別に大したことは……」
「カズに何か言われた?」
「…………」
 黙りこくる彼女を見て、どうせ綾華の事とか年の差がどうとかいわれたんだろうなと思う。一真に悪気があるわけじゃない。ただ曖昧な事が嫌いな奴なだけで。
「カズ、あいつは見た目チャラいし顔怖いけど、悪いやつじゃないから」
 そう言うと彼女は、ふふふと笑ってからまた何かを考え始めた。
「……奈々ちゃん?」
「……あ、ごめん。いこ?」
 家に促され海の家に入り人数分のドリンクを買う。袋いっぱいになったそれをぶら下げながら店内を見ると昔ながらのアイスのケースがあって。
「あ、アイスじゃん買おー」
 自分の好きな苺のアイスクリームとミルク味のアイスキャンディーを手に取ってレジに向かった。

 海の家を出て、彼女の分のアイスの包を剥ぐ。暑い日差しのせいで、今にも溶け出しそうなアイスを二人で口に含んで。
「うまぁー」
 青い空とか海とか、水着の彼女とか。
 視界に入るもの全てが、夏そのもので。 
「やだ圭太、アイスもう零れてる」
 少し柔らかくなったアイスが、指を伝っていって。それを目で追いかけたまま、彼女の表情が固まった。




「…………っ……」



 彼女が息をのむのが分かった。
 伝った、苺のアイスクリームが砂浜に落ちて砂が濃い色に染みていく。

 深く、深く――……
 彼女の想いも、どこかへ沈んでしまった。




「奈々ちゃん……」
 行かせない。 
「…………」
「……奈々」
 肩を掴んで、顔を覗き込む。
 黒目がちな瞳に、情けない自分の顔が映ってる。
 ほら、こんなにはっきり見えるほど近くにいるのに。
 滲んでいっているであろう彼女の瞳は自分の事なんて捉えていない。
 
「……何で泣いてるの」
 赤くなった目の縁を優しく指で拭うけれど。はらはらと零れるそれは、自分の指じゃ追いついてくれない。
「奈々……」



 お願い。



 腕にぶら下がっていたビニール袋が音を立てて砂浜に落ちる。呆然と立ち尽くしたままの彼女を強く抱きしめると、ぶらりと垂れ下がった細い腕の先から、白いアイスキャンデーが伝って砂浜に落ちていく。



「好きだよ……大好き」

 置いて行かないで――…………。



 きつく、隙間がないほどに抱き締める。
 逃げられないように、きつく。
「……ごめん……っ、ごめんなさい……」
 荒くなった呼吸の隙間。細い息を吐きながら絞り出された声に、身体が熱くなる。
「何だよそれ……何がだよ……」
 
 こんなにも側にいるのに。
 この腕の中は確かに温かいのに……。

 ずっと鮮明に見えていた彼女の姿が見えなくなる。
 目頭が熱くなって、視界がぼやけていく。
 一滴も零れないように、大切にしてきたはずなのに。



 あなたは、どこに行くの。

 抱き締めていた腕を解くと、暫くして恐る恐るといった感じで彼女が顔を上げた。
 涙は拭った。
 あとは、いつもみたいに上手く笑えばいい。



「奈々ちゃん……。大好きだよ」



 その日から彼女は、
 俺を拒むようになった。

 



 


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