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【小説】僕たちのゆくえ12


s6.歪んだ愛


 何の変哲もない夏休みが終わり、二学期が始まった。何となく、何となくだけど。海月と顔を合わせづらくて、わざとすれ違うようにしていた。別に幼馴染だからって毎日会わなきゃいけない訳じゃ無いし、自分の思う全てを話さなきゃいけない訳じゃ無い。まして、自分が海月の事を好きだとか、それなのにみのりを女として見てしまったとか。そんな事言えるわけがない。

 そんなもやもやとした気持ちは、優花と会う事で少し和らいだ。今だ不倫の傷を引きずって寂しそうな優花と、どうしようも無い自分とが寄り添い合うことで、思い悩んでいる様で空っぽの心が、少しだけ埋められる気がしたのだ。
 けれど、それが仇となったと知ったのは突然だった。



 自転車置き場に着くと同時に、ポケットに捩じ込んでいたスマートフォンが震える。反射的に校舎の三階の最奥を見上げて、嫌な予感がして。ふと、視界の隅に海月とみのりの姿が見えたけど。気づかない振りをして、重たい足はあの教室へと向かっていた。
「……何?」
 愚問だと思いながらも問いかける。いつも通り、黒いカーテンで締め切られた部屋の奥に楓がいる。けれどいつもむせ返るくらいに香っている甘ったるい香水の香りはしなくて。幾分か気持ちは楽だ。
「篠井優花さん」
「……は?」
「ご執心ね。私には会ってくれないのに」
 楓の口から優花の名前が出て、背筋がぞくりとする。二人の接点なんて無いはずだし、勿論のこと鉢合わせた事だって無い。
「調べたの?」
「別にいいの。紫音が誰と寝ようと」
 窓際から楓が近づいてきて、目の前に立つ。いつもより少し低い頭の位置に違和感を感じて足元を見ると、いつものヒールでは無くてぺたんこのスニーカーを履いている。それよりも、穏やかに笑う楓が不気味で。
「私にはこの子がいるもの」
 そう、楓が愛おしそうに自分のおなかに手をあてる。いつもの胸元がざっくり開いた服とは違い、ゆったりとしたロングのシャツワンピース姿の楓は、いつもの妖艶な雰囲気は無くて恐ろしく穏やかだ。「……ちょっと待って、何?どういう……」
 言葉を途中で遮るように、突然楓に手を掴まれる。熱を持った指先が手のひらを掴んで、ゆっくり楓の方に引き寄せられる。
「ほら、紫音分かる?ここに居るの」
 手のひらに、ざらついたシャツの感触が触れる。じわりと温かさを感じるが、それはただ楓の体温なだけのはずで。
「っ、やめろ……」
 急に鼓動が早くなる。頭に血が上って、嫌な汗が流れる。
「パパはご機嫌ななめみたい。可哀想に」
 そう言って窓の方に振り返ってしまった楓の背中から目が離せない。
「……は?嘘でしょ……?」
 最後にシた日はいつだったか考えを巡らせるが、強い動悸がして上手く頭が働かない。それにそんなはずがある訳無い。
「こっち向い……」



 ――ガラッ

「おい、何してる」
 楓の肩を掴んでこちらを向かせようとした瞬間、教室のドアが開いて生活指導の津田が入って来た。
「あら、津田先生」
 瞬間、楓がすっと自分の前に出て津田に声をかけた。
「古川くんの髪の色を注意してたんです。夏休みも終わったっていうのに、この色はねぇ」
 ふふふ。と笑いながら、楓が窓に近づき締め切っていた黒いカーテンを開ける。朝の光が差し込んで、ただでさえ色素の薄い髪の色が明るさを増す。
「いや、古川は届けが出ていたはずでしょう?ほら、母親があれだから……と」
 津田が少しだけ眉間にシワを寄せてバツの悪そうな顔をする。母譲りの色素の薄い髪は当たり前に地毛だから。学校に証明書を出すことで校則違反からは免れている。そんな事、楓も知っているはずで。
「あら、そうでしたか。古川くんごめんなさいね、もう行っていいわ」
「…………」
 楓に促され、津田に続いて教室を出る。



 首筋から背中に伝う汗が冷たい。
 髪の色なんて、どうでもいい。

 振り返って楓を見ると、太陽の光を背に厭らしく笑っているのが見えて。冷え切った背中がぞくりと震えた。



 それから。
 当たり前に授業を受ける気になんてなれなくて。自宅に戻った。父親はここ数週間家に帰って来ないし、運良く母親もいなかったから。一人、自室のベッドに身体を投げ出して、天井を見上げた。
「まじかよ……」
 楓のおなかは目立って大きくなってはいなかったから、万が一子供が出来ていたとしても、そんなに月日は経っていないはずだ。と言うよりも、いつもコンドームは欠かさなかったし、その準備も処理も自分がしていたし、子供なんて出来るはずが無いのに。
 最後にシた日の事を、もう一度思い返す。確か愛衣のポーチの一件があって楓に会いに行った時が最後で。
 切り裂かれた愛衣のポーチ、そして同じ様に切り刻まれたコンドームを思い出す。
「……っ」
 弾かれた様に上半身を起こして、あの時の楓の一挙手一投足を思い返す。
「あの時、どうしてた……?」
 いつもは自分で付けるけど、あの日は楓に任せた気がする。終わった後も、窓の外に気を取られてしまって、どう処理したのか覚えていない。万が一、楓に細工でもされていたらと、おさまっていたはずの鼓動が早くなる。
「嘘だろ……」
 少しだけ震える両手を握りしめて、目を閉じる。そんなはずがない、いつだって最善の注意を払っていた。愛の無いセックスなんてリスクだけだ。ましてや自分はまだ高校生だし相手が教師ならなおさら。

 子供なんて出来るわけがない。
 そう、自分の子供なんて。
 要らないと思っているのは、
 自分なのだから。



 スマートフォンの振動で目が覚めると、昼の二時を過ぎたところだった。着信やメッセージが沢山入っているのを見て、一気に現実に引き戻される。海月が帰ってくる前に家を出よう。そう思うが、今の自分に頼れる場所なんて無い。思考を巡らせたって、思い当たるのは優花だけだけど。他のセフレに子供ができた、なんて相談出来るわけがなくて。
「……はぁ……」
 一つため息を付いて、ひとまずバイト先に電話をかけて休む旨を伝える。それからその勢いで楓とのメッセージ画面を開く。
『会って話したい』
 素直に言葉を打ち込むと、それが送信されるとほぼ同時に既読がついた。
『夜うちに来て』
 そのひと言と共に地図が送られてくる。

 行って何になる?

 楓だって、自分と同じ様に他にセフレがいるかもしれない。本当に自分の子供かなんて分からないのに、どうしようもなく巡る不安が、自分の愚かさを露呈する。覚悟もないくせに、身体を重ねてしまった事の罰だろうか。

 でも思う。
 
 どうしたら、この身体の乾きは
 満たされたんだろう、と。



 夜まで適当に時間を潰して、楓のマンションに向かった。オートロックのそこは、楓が一人で暮らすには少し贅沢に見えて。少しだけたじろいでしまう。
「いらっしゃい」
 重厚な扉が開いて楓が顔を出す。シンプルなシャツワンピース姿だった楓は、ゆったりとした黒のワンピースに着替えていて。思わずおなかの辺りに目を向けてしまうが、やっぱりさほど大きくなっている様子は無くて。中に通されて、リビングのソファに座るよう促された。
「話って何?」
 お腹のあたりをなでながら、楓が微笑む。その穏やかな様は、初めて会った時の様で、変な錯覚を起こしそうになる。
 この、物腰の柔らかい優しそうな所が楓を選んだ理由だった。少なからず好意を持ったから身体を重ねられたのだ。でも今なら分かる、この微笑みが歪んでいるって。



「子供……出来たの?」
 乾いた喉から、掠れた声が出る。絞り出すように出た自分の問に、楓は無言で写真の様なものを差し出してきた。
「まだ赤ちゃんって感じではないのでもほら、ここに居る」
 そう言って、白黒の写真の中心を指差す。
 それを見たって、形の無いそれに何の実感もない。自分の子供だなんて、信じられっこない。
「……いや、ちょっと待って、子供なんて出来るわけ……」
 微笑んでいた楓の顔が静止画の様に固まる。笑っているけど感じる、じわじわと滲み出る黒い感情が。
「出来るわけ無い?言い切れるの?コンドームなんて百パーセント安全じゃないのよ?穴が開くことだってあるんだから」
 楓の赤い唇が歪んで笑う。
 頭に浮かぶのは愛衣のポーチに忍ばされていた切り刻まれたコンドーム。あれが警告だったのだとしたら、あの後の行為の時は大丈夫だったのだろうか。あの時それを付けたのは楓だったはず。
「でも俺は……」
「中に出さないものね」
 スッ、と。まるで音を立てる様に楓の表情が無になって言葉に詰まる。
「最初からそうだった。気づかないとでも思ってた?」
「…………」
「分かるのよそんなの。私に感じて、私の中に注いで欲しいのに、紫音はいつもくれなかった!!」
 最後は取り乱すように、楓が声をあげる。

 そう、最初からどこかでブレーキをかけていた。自分はまだ未成年。子供が出来るなんてそんな事望んでいないし一番避けなければいけない事だ。ただ、身体の乾きを満たして、疼く熱を開放したかっただけで。果てることが出来ればそれでいいのだから。ただのセフレに、特に教師である楓の最奥に、自分の熱を放つなんて。例えコンドーム越しだとしてもあり得なかった。
「私の事はそんな風にしか抱かないのに、あの女達は何なの?私の髪を撫でて、微笑む事だってしてくれた事は無いじゃない」
「……そんな事……」

 無いと言い切れるだろうか。
 最初の頃は、物腰の柔らかい、優しい楓に包まれる事でどこか安心していた。でも次第に滲み出てくる楓の独占欲に、線を引いたのは自分の方に違いない。
「でも、そうさせたの楓でしょ?好きにならない、そういう約束だったよね」
 ただ、空っぽの自分を満たしたかった。そこに愛とか恋とかは要らなかった。
「そんなの……」
「…………」
「そんなの出来る訳無いじゃない!何でセックスするか?寂しいからよ!愛されたいから、そうに決まってるじゃない!身体だけなんて虚しいに決まってる!何度したって空っぽなのは埋められる訳が無いんだから!」
「…………っ‥‥」
 楓の言うとおりだった。
 何度身体を重ねたって満たされなかった。だから、少しでも空っぽの自分を埋めたくて自分に好意を持っているだろう女の子に優しくたのは事実。優花も愛衣も、自分の事が好きなんだろうなと心のどこかで気づいている。



「……じゃあどうしたらいい?愛されたくても愛されない僕は、何で自分を埋めればいいの?自分の外側を利用してセックスして何が悪い?楓だって、僕の外側が欲しかっただけでしょ!?」
 ソファから立ち上がり、向かいの床に座っていた楓の前に立つ。

 人より色素の薄い髪も、白くて長い手足も。歳を重ねる度に目立つ顔も、全部が嫌いだ。でも、それを利用して浅はかに振る舞っている自分が一番嫌いだった。
 こんな自分を、海月が好きになってくれるはずがない。自分が欲しいのは、海月だけなのに。



「…………」
「…………」
 お互いに言葉を失くして。どれくらいか分からない沈黙が訪れて、自分勝手に我儘を言っている事に気づく。自分がどうにも出来ないから、人のせいにして人を傷つけてる、そう自分で分かる。
「……感情的な紫音なんて初めて見た」
「…………」
「大人びて見えたって紫音は子供だもの」
 楓の声のトーンが穏やかになって、思わず視線を合わせる。
「その方が、人間らしい」
 そう言って、立ち上がった楓に自然な流れで身体を抱き締められた。不思議と嫌な感情は無くて、じわりと温まる身体に思わず目を閉じる。だらりと降りたままの両手を楓に添えようか、そう思った瞬間。



――バタン

 背後でドア音がしたかと思うと、重たい足音が近づいてくる。
「お前誰だ」
 突然肩を掴まれ引き剥がされると同時に、頬に鈍い感触がしてソファの方へ吹き飛ばされた。
「っ、いってぇ……」
 口の中に血の味がして、頬に痛みが広がる。
「楓、お前も何してるんだ」
 男が楓の方へ向かって行き、緩いワンピースの胸元を掴む。右手が振り上げられたのを見て、身体が勝手に動いていた。
「待てよ、おなかに子供が……!」



 楓をかばうように間に入ると、男の動きがピタリと止まった。衝撃に耐えようと瞑っていた目を開くと、男が距離を取って離れるのが分かって。楓を背後に男を見上げて気づく。部屋の至る所にある、男の陰に。
「あぁ、これね」
 男が床に落ちていたエコー写真を拾い上げて指に挟む。
「君もこれに騙されたのか」
「……は?」
「これは二年前のだ。楓は昔から手癖が悪くてね、これを堕ろしたせいで子供が出来なくなったんだ。そうだよな?楓」
「…………」
 自分の腕を掴んでいる楓の手が震えている。少し振り返り楓の顔を覗き見るが、俯いてしまってその表情は見る事が出来ない。
「お帰りください」
 男が身体を開いて、玄関の方を指す。
 何が起きているのか、頭の中が整理できなくて。重い身体に力を入れて立ち上がると、楓の手がするりと腕をすり抜けていって。男に言われるがまま、ふらふらと玄関の方へ歩いて行く。



「女一人上手く切れないなら、子供は子供らしく恋愛ごっこしてろよ」
 すれ違いざま、男に囁かれる。
 全部を見透かされているようで指先に力が入るが、言い返す言葉なんて見つからない。
「…………」
 玄関で汚れたスニーカーに足を突っ込む。それと対照的に、艷やかに磨かれた大きなビジネスシューズを見て、自分の惨めさをじわりと感じていた。



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