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【小説】僕たちのゆくえ 4
s2.罠
それは夏休みに入る少し前に起きた。
「きゃっ」
体育の授業から教室に戻った時の事。教室で小さな悲鳴が聞こえ反射的に視線を送ると、いつも僕にまとわりついてくるクラスメイトの一人、園田愛衣が青ざめたような複雑な顔をしていた。
「なにこれ」
「気持ち悪……」
声につられて愛衣を囲んだクラスメイト達が何やら口々に話している。気味悪がるような蔑むような、複雑な空気だ。
「紫音〜見てよこれぇ」
クラスメイトを掻き分けて愛衣はこちらに泣きついて来た。
「何?どうしたの?」
面倒事を持ち込むなよ。なんて心で思いながら、愛衣が持ってきた物に目を落とすと、レースの付いたポーチの表面が大きくバツ印に切り込みが入っていて、その中のものも切り刻まれて見えた。
「これ私のじゃない……」
ポーチの中ではコンドームが切り刻まれていて、愛衣は複雑な表情を浮かべていた。
「何してるの授業始めるわよ」
クラスメイト達がその声に弾かれた様に振り返り各々に席に戻っていく。戻りそこねた愛衣は自分の横に立ち尽くしたまま。
「何してるのあなた達」
声の主、美波楓が愛衣の手元を見る。隠しきれなかった切り刻まれたポーチとコンドーム。それと自分たちの顔を交互に見た楓が一瞬だけ口元を歪めた気がした。
「あなた達後で職員室来なさい」
「……は?」
黙るクラスメイト達を横目に思わず声が漏れる。
「こんなの持ってきてるからいたずらされるのよ?学校でくらい我慢しなさいよ」
そう、楓がいやらしく笑うと、クラスメイト達からぼそぼそと声が漏れた。
「さすがビッチ……」
蔑むような、そんな声がして。愛衣が少しだけ俯く。
「分かったわね。授業始めるわよ」
有無を言わさないといった感じで楓が教壇に戻ると、愛衣も席に戻っていく。クラスメイト達の視線がいつもと色を変える。別に愛衣と身体の関係は無いしただの友達だからやましいことなんて一つも無いけど。十代の彼ら達の想像力を掻き立てるのには充分なアイテムだ。
それに楓のあの顔。
「…………」
はめられた。そう思って楓の背中を一度睨んだ。
放課後。
「紫音ごめんね」
楓のいる職員室に向かう途中、隣を歩く愛衣が申し訳無さそうに呟いた。
「愛衣のせいじゃないじゃん」
「でも私が紫音に見せに行ったから……」
「びっくりしたんでしょ?仕方ないよ。それに愛衣がそうしなくてもこうなってたと思うよ」
ポーチの犯人が誰なのかは、一目瞭然だった。けれどクラスメイト達は、そんなことより自分と愛衣の関係の方に興味があるみたいで、楓の微かな表情の変化には気づかなかったようだけど。
「……紫音ってやっぱ美波先生となんかあるの?」
「…………」
普段何も考えてなさそうで、それでも楽しそうにしてる愛衣。意外と周りを見てるんだなと思って思わず立ち止まって顔を見やる。
「紫音?」
「いや。やっぱこっから先は僕だけで行くから愛衣は帰って」
「え、でも……」
「大丈夫だよ」
困ったようにこちらを見上げる愛衣の頭をポンポンと撫でる。艷やかな黒の髪はさわり心地が良くて、するりと指が毛先まで滑る。
「もうあんまり触んないほうがいい?」
可愛い友達だから。それだけの理由で触っては駄目なのかな。ただの情の表現でしかないのに。
「愛衣もヤキモチやく?」
「……ううん。紫音は友達だもん。分かってるよ」
そう、いつも通りに笑う愛衣。嘘偽り無さそうな真っ直ぐな視線が気に入って、愛衣と仲良くなったんだった。
「僕こそ、巻き込んでごめんね」
「大丈夫。結構図太く出来てるから私」
普段甘ったるい声でまとわりついてくる愛衣だけど、割とサバサバしてるんだなと思う。美波のほうがよっぽど子供で女だ。
「ありがと。じゃ上手くやってくる」
ひらひらと手を振り愛衣と分かれる。職員室を覗くと楓の姿はそこに無くて。自然と足はあの部屋に向かっていた。
白の校舎の三階の最奥。光一つ漏れない教室の扉を開き、後ろ手に鍵を締める。途端に嗅ぎ慣れた甘ったるい香水に包まれて、息が詰まる気がした。
「あの子は置いてきたの?」
黒いカーテンの側から楓がこちらに歩いてくる。白く細い指が、黒いシャツのボタンを外していく。
「用事があるのは僕でしょ?こんなことしないで呼べばいいじゃん」
そう、いつもみたいに黒のカーテンを靡かせて。
「だって私の紫音に馴れ馴れしいんだもの」
手を引かれ窓際の椅子に座らされると、今日はゆっくりとした手付きでベルトを緩められる。その指先を見ながら、楓の緩んだシャツの隙間、露わになる胸元に視線を寄せる。その光景に身体が疼くのは事実。充満する甘ったるい匂いも、自分に纏わり付く細い指も。高めるには充分だ。
「友達だよ、ただの」
「私以外の女を触るなんて嫌」
纏わり付いていた身体が一度離れ、顔を覗き込まれる。愛衣とは違う。何もない、真っ黒ながらんどうだ。
「お願い紫音。もう何もしないから、今日は抱いて欲しいの」
「…………」
「紫音」
立ち上がった楓が足の上に馬乗りになると、赤い唇がゆっくりと首筋を這う。制服のシャツのボタンが外され、少し汗ばんだ肌が露わになる。ざらついた舌で舐めあげられ思わずぴくんと身体を揺らすと、今度は両手で顔を包まれた。
「鍵は閉めたんでしょう?もう誰も来ないわ大丈夫」
耳を塞ぐ様に包み込まれて耳元で囁かれる。何もない空間に二人しかいないような感覚になる。
「愛してる、紫音」
赤い唇がそう動いたかと思うと、ちゅっと音を立てるように楓は唇を重ねる。ふわりと重なったソレは、下唇を遊ぶように蠢き、酸素を求め薄く開いた隙間から侵入してくる。深く、深く貪られ身体が熱を帯びていく。
あぁ、なんて簡単な身体なんだ。
そう諦め、細い身体を掻き抱いた。
黒いカーテンと窓を開けると、外はすっかりオレンジ色の空だった。まだ部活をしている生徒はいるが、校門へ向かう波は落ち着いた様で、それはすぐに目に入った。
見慣れた長身の背中が一人で歩いていく先に、いつかの一年生が花壇の近くでしゃがみこんでいる。あぁどうせ、変なフラグが立って知り合ってしまうんだろう。なんて心の中でため息をつく。
予想通り、海月が背後を通り過ぎる瞬間、立ち上がった一年生が手元のジョウロを海月の方に方向転換させたかと思うと、小さな放物線が描かれる。足元が濡れ相手を支える形になる海月。ほんの数分ふたりの時間が出来上がっていた。
「紫音?」
振り返るとすっかり身支度を整えた楓が側に立っていた。外の出来事に後ろ髪をひかれながら楓を見やる。真っ黒な魔女みたいな顔してたのに、文字通りすっきりした様子の楓は、男子生徒達が夢見る純情無垢な先生に戻っていて。羊の皮をかぶった狼とはこの事だなと、見るたびに思う。純朴そうに見えて最初から手慣れていたから、後腐れないだろうなと思っていたけど。怠い身体と、何だか重たくなった頭を働かせ、脱ぎ捨てたシャツに腕を通す。汗ばんだ肌に張り付くシャツが気持ちわるい。
「先に行くわね」
「ん。ちょっと涼んでから行く」
窓から入る風は生ぬるいけど。今の自分の身体を落ち着かせるには充分。それに今すぐにこの教室を出る気にはなれなかった。
「またね、紫音」
いつの間にひき直したのか、赤いリップが歪んで笑う。その様に少し胸がざわついたけど。それが楓のせいなのか海月のせいなのか、もう分からなかった。