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【小説】もう一度、愛を8



アネモネ 4.あなたを信じてる




 まだ、大丈夫なんて。
 何で思ったんだろう。

 抱き締めていつもみたいにキスをすれば、彼女はこの手の中に収まる。いつもそうだった。
 けれど、あの海の日。どれだけ抱き締めて一つになっても、腕の中は空っぽだった。見てる瞳も涙も、自分のものではなかった。

 別に、最初から思っていた。
 いつか彼女はこの腕から逃げて行くって。
 そう、分かっていたのに。



『奈々ちゃん……。大好きだよ』
 情けなく囁いた自分の言葉が頭に残る。
 きっと最初から、自分も思っていた。五つの年の差なんて何ともない。そう思ってそう振る舞っていたけど。気にしていたのは彼女より自分だ。

 あの居酒屋の夜。
 彼女の側に立っていた男はスマートな大人の男だった。自分には無い大人の色香を纏っていて、感情的に苛立つ自分とは対象的に冷静だった。
 その立ち振舞も余裕のある表情も、自分は持ち合わせていなくて。沸々と湧き上がるどうしょうもない苛立ちと嫉妬心を彼女にぶつけていた。
 何も無いのは自分なのに。

 何でもっと早く、
 生まれなかったんだろう。
 そんな馬鹿げだことを思うくらい。
 最初から彼女の事が好きでたまらなかった。






 彼女と出会ったのは雪の降る日だった。
 クリスマス直前に彼女が出来た友人に頼み込まれ、たまたま代理で出た派遣のバイトで。ケーキ屋の店先で声を張り上げて、ホールのケーキを販売していた。
 しかしこんな平日ど真ん中でしんしんと雪が降る街の中。ホールのケーキを突発的に買おうと思う人なんてなかなか居なくて。
『これ帰れんの?俺……』
 白くなる空を見上げて呟いてから、折りたたみの長いテーブルの上に並んだ白い箱を睨んで。こうなってくると、最後まで売りきらないと気が収まらなくて。自分の出来る全ての愛想だとかサービストークを駆使して、残るは最後の一つ。
『水澤くん、ちょっと交通機関やばそうだからもう上がっていいよ』
『え、でもあと一個っすよ』
『まあ仕方ないね、片付けてくれる?』
『あ、はい……』
 多分別に一個くらいう売れ残ったって廃棄になるだけで。自分の日給には関係ないんだけど。クソダサいサンタのコスチュームまで着て、雪の中ここまでやったんだから、最後までやらせてくれよ。そう思うだけで。
 渋々片付けを初めたところで、テーブルの前に人の気配がして。
『……あ、あのまだ買えますか?』
『…………』
 落としていた視線をそれに合わせると、キャメルのコートの肩にも、茶色いミディアムロングの髪にも白い雪が積もっていて。寒さで赤くなった鼻と小さな唇から漏れる白い息が、こぢんまりと小さい彼女を可愛らしく少し色っぽく見せて。
 暫く、その姿に見とれてしまって。
『……あ、もう終わりなら大丈夫ですすみません……』
 そう言って踵を返してしまう彼女の肩を思わず掴んでいた。



『……っ』
『あ』



 
 案の定、肩を揺らして驚いた彼女を見て掴んでいた手を離す。
『すいません急に触って』
『あ、いえ……』
『大丈夫です!あと一個どうしても売りたかったから助かります!』
『……いいんですか?』
『どうぞどうぞ』
 例えばこんな雪の日にわざわざクリスマスのホールのケーキを買いに来るなんて。女性一人で買うのならなおさら、家で彼氏が待っているのが一番あり得る話かなと思う。そう思うとどこか胸がざわついたけど。



『……ここのケーキ大好きで。良かった買えて』
 最後の一個を袋に入れて渡すと、彼女はそう言って笑った。その笑顔が可愛くて見惚れていると、半歩だけ彼女が近づいてきて。
『あ、お兄さん雪すごいですよ』
 ふふふ。と笑いながら、赤い定番の帽子の雪を彼女の小さな手が払って。白い雪がハラハラと落ちた。
 もちろん、そんな小さな手で払ったくらいじゃ間に合わないくらい、しんしんと降る雪は変わらないし。彼女だって茶色いの髪や肩に雪を積もらせていて。
『お姉さんも積もってるよ』
 自分の手のひらにぴったりと収まる頭を、軽く払ってあげて。真っ白なこの空間で、まるで二人きりになったみたいで。



 あぁ、この人が好きだ。
 そう、思った。
 これが一目惚れなんだ。
 そう、感じた。 



 
 後から聞いたら、初対面の人にあんなことしたのは初めてだと彼女は笑った。
 それに実は、向かいのカフェで雪が弱くなるのを待ちながら、ケーキを販売するサンタ姿の自分をずっと眺めていたのだと照れたように言った。
 触れる事にも触れられる事にも抵抗が無くて。
 この手にこんなにもしっくりと馴染む人は、初めてだった。




「……おいこら聞いてんの?」
「…………」
「圭太」
「……あ?何」
 ふと我に返ると、いつもの講義室の長机に肘を付いていた。講義は終わっていて、みんな席を立って帰る準備をしている。
「今日もバイト?」
 声に反応して見上げると、隣に立ってこちらを見下ろす綾華が居て。心なしか不機嫌そうな表情に、どうした?と声をかけると綾華は更に不機嫌になった。

 綾華と出会ったのは高校一年生の時だった。出席番号が後ろの綾華と仲良くなるのに時間はかからなくて。見た目"女"な割に、口を開くと男っぽいところとか。雪音と仲良くしてるところを見てると、女というより仲間という意識が強かった。
 
 だからあの時。
 高校二年生の夏祭りの日。
 あんな事になるなんて、思いもしなかった。

 あの夏祭りの日。
 いつもの五人で祭りを楽しむ予定だった。けれど待ち合わせ場所に行く途中で、数人の男に絡まれている綾華と遭遇して。
『……あいつまた絡まれてる』
 仲間である事を大目に見ても、綾華は美人だ。学内でも声をかけられることは多いし、外に出ればああやってナンパされる事もある。
『あ、おまわりさん!こっちでーす』
 声を張り上げて近づいたところで、男の一人が綾華を突き飛ばして。それと同時に男達が駆け出して逃げていった。
『大丈夫か?』
 倒れたままの綾華に駆け寄ると、慣れない浴衣と下駄で身動きしづらいのか、座り込んだまま立ち上がらなくて。
『うざぁ……』
 手についた砂利を払いながら悪態をつく綾華に手を差し出すと、少し渋々といった感じで手を伸ばしてきた。手を引っ張って立ち上がらせて様子を確認するけど、不機嫌そうに眉間にシワを寄せて、帯のあたりを気にしている。
『……あ』
『何?』
『帯緩んだかも』
『まじ?』
 羽織っていたシャツを脱いで、綾華に被せる。見た目着崩れているようには思わないけど、浴衣の事は詳しくないから。
『お前ん家戻る?』
『うん』
 何となくシャツを押さえるように背中に手を当てながら歩き始めると、綾華が足を引きずっている事に気づいて。
『足痛い?』
『うん』
 幸い綾華の自宅は近くだった。背中に当てていた手を腰に回して支えながら家に着くと、家には誰もいなくて。予想外に女の子っぽい部屋で驚いたのを覚えている。
 女の部屋なんて別に珍しくもなかったけど。普段男っぽいのに大きなくまのぬいぐるみが置いてある事とか、赤やピンクの可愛らしい小物が、いつもと違う綾華の一面を見た気がして。ほんの少しだけ女を感じたのは事実だった。
『どこが痛い?』
『膝』
『出して』
 別に他意は無かった。
 黒字に紫の花があしらわれた浴衣の裾が開いて、少し焼けた肉付きのいい足があらわになって。
 膝から滲む血とか、弛んだ胸元の合わせ目から見えるか谷間とか。エアコンの効かない室内で流れる汗と、暑さでぼんやりする頭が色々を麻痺させて。

『……圭太、私……』
『…………』
 
 赤い唇が開いて自分の名前を呼ぶ。
 視線が合わさって、左側に纏められた緩くウェーブのかかった髪ごと頭を引き寄せて。汗の匂いと、綾華のいつもの甘ったるい香水の匂いが背中をおして。
 
 気づけば、唇を重ねていた。

 そっと当てるだけのキスをすると、綾華の手が自分を抱き締めて。言おうとした言葉を塞いだのは自分なのに。綾華が自分の事を好きなのだと感じてしまったのと同時に、一真の顔が浮かんでいた。
 頭に添えた手を離して綾華の両肩を掴んで身体を離す。仕掛けたのは自分だ。目眩がするくらいの甘い香水の香りと、この暑さと。目の前の女の身体に反応してしまっただけで。綾華の事が好きだとかそういう感情は無い。多分男なんてそんなもんだ。
 
 でもそれが仲間となると話は別で。
 
『……ごめん』
『……謝んなバカ』
 それから。もちろん夏祭りを楽しもうなんて思えなくて。雪音に連絡を入れて自宅に戻った。人並みに逆らって歩く街は、自分のしたことの弱さを咎める様に逆だっていて。
 
 魔が差した。
 気の迷い。
 
 そんな言葉で片付けられるほど、簡単な相手じゃなかったのに。そう思うと、自然と手のひらに力が入って。一度だけ自分の太ももを殴った。

 
 それでも綾華は、いつもどおりだった。
 暫くしてからあのキスの事をちゃんと謝ろうと思ったけど。謝らせてもらえなかった。
『友達でいてあげる。だから忘れんな』
 そう言われて複雑だった。
 無神経に今まで通りで居ることも、気を使って過ごすことも違うと思っていたから。ちゃんと謝ってすっきりしたかった。
 でもきっとそれは、自分がすっきり出来るだけで綾華にとっては酷なんだと気づいた。あの言葉が本音なら、綾華の気持ちに添うのが一番だと思った。
 
 だから。
 綾華には、雪音や他の女友達とは違う感情が少なからずある。それを彼女に説明するのは難しいし、する必要もないと思ったけど。
 彼女が綾華の事を気にしているのは一目瞭然で。少なからず今の状況に悪影響を及ぼしていると思うけど。歩み寄れば離れていくそんな気がするから。
 距離を取ったのは、自分の方だった。



「ねぇってば!」
「……あ?」
 デジャヴみたいな不機嫌そうな綾華の顔を合わせる見上げて、変わらずに側にいてくれる事に感謝する。
「情けない顔。圭太らしくない」
 
 自分らしくない。
 
 そう思う。こんなに恋人の事ばっかりを想って思い悩むなんて初めてだ。いつ離れていくのか不安で仕方ないし、何で早く生まれて出会えなかったんだろうって何度も思う。
「……なんだよ急にせっかく感謝してんのに」
「は?何言ってんの?」
「お前がいつもどおりで嬉しいって言ってんの」
「は?ばかじゃないの?もう!先に帰るから!」
 長い髪を靡かせて綾華が背を向ける。髪の隙間からのぞいた耳が赤いから。きっと怒ってはない。ただ、自分の事を心配してくれてるだけ。



 彼女を信じてる。
 そう思うのに、弱い心が隠れてくれない。
 きっと考える隙きや時間があるから考えてしまうんだろう、そう思って夜のバーで働き始めた。毎週金曜の夜は彼女の家に入り浸っていたけど、バーで働くようになってそのルーティンも無くなっていた。

「水澤ゴミ出して休憩出て」
「はい」
 バーで働くようになったとはいえ、お酒を作らせてもらえる訳じゃなくて。主には接客だったり店の片付けや清掃ばかりだ。それでも、白いシャツにカマーベストを着ていると気持ちが引き締まって、いつもと違う自分になれる気がする。
「はぁー……」
 とは言え、それは見た目だけ。
 中身が伴わなきゃ意味がない。そう思うと、狭い路地の狭い空を見上げたところで、ため息が出た。
「圭太」
「……カズ」
 声に振り返ると、一真が立っていた。
 バイトを変えてから、一真はこうして時々会いに来る。同じ大学とはいえ、一真は教育学部で自分とは違うから昼休みにたまに顔を合わせる程度で。そういう時は周りに雪音達が居ることもあって、当たり障りのない話ししか出来ない。
 それもあって、こうして休憩の時間を見計らって会いに来るんだから、一真という男は友達想いの良い奴だと思う。 
「相変わらず暗ぇな」
「うるさいよお前暇なの?」
「バイトの帰りについでだよ」
 表通りの少し離れたところの書店で一真はバイトをしている。バイト先も学部も、見た目のなりにそぐわないからそれを選んだ時は驚いたけど。
 目指すものがある一真にとって、その信念は揺るぎなくて。誰にどう見られても、自分を変えない一真の事を格好いいと思う。口は悪いけれど。
「どうなの?進捗」
「……別に」
「だせぇな」
「……悪ぃかよ」
 彼女に考える時間をあげたい。
 そう思っているのは本当だ。けれどただ単純に、自分から何か行動をして、壊れてしまうのも怖いのも事実だ。一真の言うとおりダサい男だ。そう思う。
 けれど、時間をあければあけるだけ彼女の事を考えてしまって。自分は彼女の事が大好きなのだと実感するから。彼女も自分と同じだといいのに、と。淡い期待を抱いてしまう。
 彼女がいつでも安心していられるような、大人の男に早くなりたい。そうすれば、こんなに心がモヤモヤする事も無いのだ。
「……圭太変わったな」
「……何が?」
「良くも悪くもバカで明るいのがお前の取り柄じゃん。空気読まないっていうか、猪突猛進ていうか後先考えないっていうか」
「……褒めてる?それ」
 一つ苦笑いをして、細くて暗い空を見上げる。
「お前のことだから、奈々さんの事問い詰めてでも相手の事聞いて、話し合うと思った」
「……や、別に浮気された訳じゃないからね?ただ、高校の先輩に再会したっていう……」

 そう。
 それだけなのだ。
 
 ただそれだけなのに、彼女の想いは過去に戻ってしまったようで。それを感じれば感じるだけ、彼女があの男の事を好きだったんだろうと分かってしまう。
「それにしちゃおかしすぎねぇ?」
「…………」
 別に自分に隠れて会っているような気配は無い。ただ、あのコンビニの一回だけ。そう思う。
 それなのに彼女があんなにも、心が揺れているように見える理由はきっと一つしかない。
 でもそれは、彼女自身が考える事で、自分の出る幕では無いかもしれないから。
「色々あるだろ。俺だって奈々ちゃんに言えない事たくさんあるし……」
 ふいに綾華の事が頭をかすめて言葉に詰まる。一真の手前、具体的には言えなかった。一真がそれに気づいたかどうかは分からないけど。
「圭太お前大人になったな」
「…………は?」
「……奈々さんのために我慢してんだろ?」
「…………」
 彼女のために。
 そう思っているけど。それはただの建前で、本当はちゃんと聞くのが怖いから逃げている自分がいる。
 
 でもきっと。 
 心の奥底では気づいている。

 彼女が好きで、好きでたまらなくて。
 そばにいたいから、彼女を信じたい。
 なんでも無いと言った彼女を、
 信じて待ちたいのだ。

「……どう頑張ったって年の差は埋まらない。俺らしくいたいって思うけど、奈々ちゃんの隣に胸張って並べる男でいたい。……それに奈々ちゃんの事、信じてるから」
「……成長したな」
「うるせぇ」
「まぁでも……それはちゃんと奈々さんに伝えろよ」
「……え?」
「お前がどう思ってるか、ちゃんと伝えないと。あの人、駆け引きは通じなさそうだし」
「……まぁそうだけど……」
 純粋過ぎるゆえに悩み過ぎる。
 心配性だから、周りに気を使って愛想笑いをする。
 押しに弱くて、涙もろくて。
 一人では居られない人だ。
「……俺らはこれから大人になんて嫌でもなんなきゃいけねーんだから、いつものお前のままでぶつかってこいよ」
「…………」
「いつでも慰めてやるから」
「いらねぇよバカ!」
 見た目チャラくて怖そうなのに。いざって時は欲しい言葉をくれる。芯が強くて自分をちゃんと持ってて。一真という男は本当に良い奴だ。
「……でも、さんきゅ」



 それから数日後。
 講義も終わってバイトもない平日の夜。
 彼女の顔が浮かんで、どうしても会いたくなって。スマートフォンをポケットから取り出したところで、久しぶりのメールが届いた。
 
『いつでもいいから、会いたい』

 いつもとは違う、簡潔なメールだった。
 それでも、同じタイミングで同じ様に会いたいと思ってくれた事が嬉しくて。気づけば走り出していた。
 暗い空からは小雨がぱらついている。肩を濡らす雨を見て、いつかのデートを思い出した。
 人混みの中、肩がぶつかって他の男に支えられていた彼女。もうあんな思いはしたくない。いつだって彼女を守るのは自分でありたい。
 まだ大人になんてなれてないかもしれないけど、彼女の小さな身体を守るくらいの力はあるはずだ。
 
 頭に浮かぶのは、好きの次の言葉。
 恥ずかしくて伝えたことは無いけど。
 いつか胸を張って言えるようになりたい。



「……はぁっ……」
 全速力で走って彼女のアパートにたどり着いた頃には、全身びしょ濡れだった。彼女の部屋を見上げると、電気がついていて、在宅を知らせてくれる。
 ポケットからキーケースを取り出す。青いリボンの付いたカギは、彼女からの初めてのプレゼントだ。

『いつでも会いに来て』

 そう、はにかんだ顔が今でも忘れられない。
 小さなワンルームだけど、二人だけの世界。
 そう思っていた。

 ――ガチャ……

「……奈々ちゃん?」
 玄関ドアをそっと開けて声をかけた。けれど、窓に打ち付ける強い雨がそれを遮って。
 ワンルームの窓際、木目のルーバーで少しだけ仕切られたベッドに視線を送ると、白い影が、ベッドの彼女を覗いていた。
 
 途端に強く脈が打って。
 足元に視線を落とすと、いつか見た黒くて上品なビジネスシューズが並んでいて。
「奈々」
 少し声を張って名前を呼ぶと、白い影がゆっくりと身体を起こしてこちらに振り返った。
「…………」
「…………」
 振り返った手は、冷却シートのゴミを握っていて。近くの小さなテーブルを見ると、コンビニの袋からスポーツドリンクや冷却シートの箱がのぞいていた。
「……コンビニの前で倒れた所にちょうど居合わせたのですみません免許証拝見して連れてきました」
 そう淡々と説明しながらこちらに歩いてくる男。濡れた髪にスーツ、首には安っぽいコンビニのタオルがかけられている。
「解熱剤、起きた時に飲ませてやってください。彼女自分で着替えたので誤解なさらないで下さい。あとドリンクとかテーブルに……あぁ、失礼。あとはお願いします」
 玄関口に立てかけてあったビジネスバッグとスーツを掴んで、玄関の取っ手に手をかける。
 甘い彼女の部屋に、少し苦いシトラスの香りが混じって残っていて。男がどれくらいこの部屋に居たのか、胸が焼けるように焦れる。
「……おい」
「…………」
 男が振り返って視線が合う。
 暫く合った視線は、何を物語るんだろう。
「……ありがとうございます。彼女運んでくれて。……これ持ってってください」
「…………」
 先に視線を外して、彼女の家に置きっぱなしにしていたビニール傘を差し出すと、男は一瞬きょとんとした顔をして。
 少しだけ目元を緩めてから、扉に向き直った。
「……お返しできないと思うので結構です。気持ちだけで」
 そう言うと男は、強く打ち付ける雨の中、暗闇の方へ走っていった。
「……んん……」
 背中に彼女の呻く声が聞こえて彼女の横たわるベッドに歩み寄った。
 
 濃くなるシトラスの香りに苛立つ。
 少し斜めに貼られた冷却シートに、かけちがえられたパジャマのボタン。全部があの男の痕跡に思えて、冷却シートとボタンを外した。



「奈々……」



 外したボタンの先。
 胸の膨らみの上に唇を当てる。
 いつもより速い鼓動と、熱い身体が彼女の体調の悪さを物語っているけど。鼻をかすめるシトラスの香りを消したくて。目の前にある膨らみをきつく吸い上げてシルシを付けた。

 子供っぽい。
 そんな事分かっている。

「……奈々ちゃん」
「……ん……」
 苦しそうに眉間にシワを寄せる彼女の前髪を上げて、額にもキスを落とす。冷却シートを貼り直して頭を撫でると、少しだけ表情が和らいだ。
「……奈々……」
「…………」
「……奈々……」



 




「……ん……あお、いせんぱ……」






 赤く小さな唇が、自分じゃない男の名前を呼ぶ。
 熱にうなされているだけ。
 ただ、それだけだ。



「……俺は、奈々ちゃんの何なの……」



 弱い気持ちが顔を出す。
 それを閉じ込めるように、もう一度今度はこめかみにキスをした。けれどふと、シーツにシトラスの香りがした気がして。
 ベッドの脇に座り込んで、深く目を閉じた。

 



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