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【小説】僕たちのゆくえ11
m6.再会
紗夏が訪れたあの日以降、何もない平坦な毎日が過ぎていた。紫音とはバイトのシフトが違うからあまり顔を合わせなくなったし、みのりは図書委員の仕事で夏休みの間も学校に行っているようで。小学生の頃の様に三人でプールに行ったり、団地の公園で遊んだり。そんな事も今では無くて。隣に住んで居てもこんなものなんだなと少し寂しく思う。
ふと、かすかにカレーの匂いが鼻を掠めて、朝から何も食べていないことに気づく。コンビニでも行こう、そう思い立ってスマートフォンを持って玄関の扉を開けた。
「……きゃ」
小さな悲鳴が聞こえて、ドアノブを握る手に力が入る。隙間から外の様子を窺うと目を丸くして驚いた様子のみのりが立っていた。
「ごめん、当たってない?」
扉を開き、みのりの様子を確認する。薄いブルーのゆったりとしたワンピースに、一つにまとめた黒い髪。あまり日に焼けてない白い肌は、赤く上気している様に見える。
「みのり?」
「ご、ごめん、大丈夫」
前髪を直しながら、少しだけ顔を背けるみのりに違和感を覚えて。
「本当?当たったんじゃ……」
前髪を直す手を掴んでみのりに近づいたところで気づく。爽やかな柑橘系の香りに、嗅ぎ慣れたムスクの香りが混じっている。
左手を見ると、みのりはキナリのミトンを握っていて。いつもの様に紫音の所に料理でも持っていったのかなと気づく。
「紫音居るんだ?昼飯一緒に食べ……」
「わ、私もう食べたからっ。ごめんね」
するりと。握っていた細い手がすり抜けて、みのりが自分の部屋に入って行く。
――ガチャン
重たい玄関の扉が閉まる音が響いて、ずっと感じていた可能性に重みを感じる。心のどこかで、ずっと思っていた。
みのりは、紫音の事が好きなんじゃないかって。
夏休みが終わり、二学期になった。まだ蒸し暑い朝、重たい玄関の扉を開けると、いつもの様にみのりがコンクリートの壁にもたれて待っている。
「海月くんおはよう」
「おはよ」
長袖のシャツを少し腕まくりして、じわりと額に浮かぶ汗を拭うみのり。
「部屋で待ってろよ」
「だって、先に行っちゃうかもしれないから」
そう、毎日同じ様なやりとりをする。みのりを置いていくなんてもうしないのに。一緒に行くのが当たり前、そう思ってくれている事が嬉しい。でもふと思う。もしみのりと紫音が付き合い始めでもしたら、この関係は変わってしまうのかなと。
「海月くん?」
「……ん、行こう」
「うん」
学校について緩い坂を歩く。何となく、居るはずのない紗夏の姿を探して、最後のカフェでの事を思い出す。ちゃんと話を聞いてあげたかった。紗夏だけが悪い訳じゃない、きっと自分が紗夏を傷つけたから、あんな結末になってしまった。でもどうしたら紗夏は傷つかなかったんだろう。気持ちに答えることなんて、自分には出来なかったのに。
校門に差し掛かったところで、自転車置き場に紫音の姿が見えた。一瞬紫音がこちらを見た気がしたけど、気のせいだったのか、紫音は校舎の中へ入っていってしまって。反射的に三階の最奥を見上げると、黒いカーテンが風になびいているのが分かって。どこか嫌な予感がして、自分も校舎へ入った。
みのりと別れて教室に入ると、同級生達がいつもよりざわついているのが分かった。
「吉澤、紫音は?大丈夫?」
席に着くと同時に、少し小声で、でも捲し立てるように声をかけてきてのは園田愛衣だ。
「来てるとは思うけど」
あの感じだと多分楓と会っているだろうから、何となく言葉を濁す。
「大丈夫って何」
「美波先生が妊娠して産休取るかもって噂になってて」
「妊娠……?」
胸がざわつく。まさか、そう思うけど。今ここに紫音が居ない事が、胸のざわつきに拍車をかける。
「紫音大丈夫かな」
「…………」
愛衣は二人の事を知っているのだろうか。けれどそんな事より。夏休み中、紫音とちゃんとした会話をしていなかった事に気づく。別に今までだってそういう事はあったし、話してなくても会っていなくても、紫音との関係は変わる事なんて無かったのだけど。夏休み前から不穏な空気は感じていたから、もう少し気にかけるべきだった、そう思う。
「席につけー」
そうこうしていると、教室の前から担任が入ってきて。ざわついていた教室が静まり、愛衣も自分の席に着く。紫音の席は空いたままなのに、いつもと同じ時間が流れていこうとしていた。
その日一日、紫音は教室に現れることは無かった。メッセージを送っても電話をかけても出ることは無くて、その全てが紫音の状況を物語っている気がした。
「紫音くん、風邪大丈夫?」
「……あ、はい多分」
バイト先のマスターに問われ、紫音からちゃんと連絡があったのだなと安心する。一度家に帰って紫音の部屋を訪ねたけど応答は無くて。どこで何を考えているのか心配だったのだけど。
「あぁそれと、来月から夜営業もしようと思っててね、夜のバイトの子を入れる事になったんだ。今日少しだけ入ってもらうことになってもうすぐ来るから……」
――カランカラン
マスターの言葉の途中で、昔ながらのドアベルが鳴り、反射的に振り返り訪れた人物を見やる。
細身のデニムに、シンプルなシャツ。茶色いロングヘアーは緩やかなウエーブを作っていて、顔周りを隠すように覆っている。
「あぁ、ちょうど良かった入って」
マスターがその女性を促し、目の前に対面する形になると、彼女は少し吊り目の大きな瞳でニコリと笑った。
「秋山莉子です、よろしくお願いします」
そう言って軽く頭を下げると、緩いウエーブの髪が肩から落ちて、シャツの襟の隙間から、白い肌に浮かぶ茶色い痕が覗いた。
「あきやま、りこ……?」
『み……みぃ、くん……あ、ついよ』
真っ赤に染まった身体、泣きはらした瞳。
鮮明な記憶がフラッシュバックして。右手の甲がヒリヒリと痛む気がして思わず左手で隠す。
「海月くん?」
「…………」
マスターの呼ぶ声も上の空で。目の前に居る彼女から視線が離せない。
「……みーくん、久しぶり」
微笑みかける彼女に湧き上がるのは罪悪感と懐かしい感情。苦いだけじゃない、どこか甘酸っぱい感情も滲み出てくる。
「……莉子」
会いたかった、ずっと。
でも、会えなかったし、会いたくなかった。
それからずっと上の空だった。莉子はマスターに付きっきりで仕事内容を教わっているから、最初の挨拶以降特に話も出来なくて。いつも間違える事なんて無いオーダーミスはするし、何度グラスを落としそうになったか分からない。
当の莉子は、長い髪をハーフアップにして、マスターの言葉を時々メモしながらテキパキと動いている。小さな子供が零したジュースのグラスも、自分より先に気づいて拭き上げて、新しいドリンクを提供する気遣いも見せる。面倒見の良いところは昔と変わらない。自分も良く面倒を見てもらっていた。
あの頃。
女の子が欲しかった母の要求に答えるのが重荷に感じていた自分を、莉子は側にいて元気づけてくれていた。紫音でもみのりでもない、三つ年上の莉子が。
「海月くん、莉子ちゃんと休憩取って色々教えてあげて」
「……あ、はい」
ギャルソンタイプの黒いエプロンを取って、莉子をバックルームへ促す。突然訪れた二人きりの時間と、慣れたはずの狭いバックルームに息が詰まりそうになって。
「まかない食べる?」
夕方の六時。夕飯を食べるには早いようで丁度いい時間帯だ。普段平日のバイトは三時間程度の事が多いから休憩を取ることなんて無いんだけど。ただならぬ自分の雰囲気にマスターは気づいたのかな、なんて思う。
「特に大丈夫かな。みーくんは?……あ、みーくんって呼ばれるの恥ずかしい?」
あの頃に比べて当たり前に大人になった莉子。三つ年上という事も手伝って、みのりや同級生達より大人っぽいのは目に見えて分かる。
「あー……恥ずかしいかも」
本当は、その呼び方をされる事が嫌いだった。あの頃を、莉子の事を思い出すから。それが態度に出ていたのかわからないけど、ある日からみのりは自分のことを"みーくん"と呼ばなくなった。紫音の事は今でも"しーちゃん"と呼ぶのに。
「じゃあ、海月くん」
「……海月でいい」
「ん、分かった」
そんな他愛もないやり取りをしても、十年程の時間は埋まるはずが無くて。
「……本当に、莉子なんだよね」
少し吊り目の大きな目。あの頃から少し茶色がかっていた柔らかそうな髪。相変わらず細い手足が垣間見えるけれど、ぺたんこだった胸は魅力的に成長していて。
「免許証見る?」
そう、いたずらっぽく笑う笑い方も昔の莉子そのものなんだけど。
「あー、いや大丈夫……何かドリンク持ってくる」
居ても立っても居られなくて、思わず店に逃げ込んだ。
あの事故の後、莉子は母親と共に団地から引っ越してしまった。赤く染まった莉子の小さな身体はどうなったのか。自分の右手の甲を見るたびに思っていた。命に別状が無い事だけは、伝わってきたけど。母親同士の繋がりなんて離れてしまえば容易いもので。それ以降莉子がどうしているか、知るすべがなかったのだ。
「コーヒーもらいます」
マスターに声をかけて、アイスコーヒーを二つ用意する。グラスを二つ掴みバックルームに戻ると、莉子がハーフアップにしていた長い髪を一つにまとめているところだった。
――カラン
アイスコーヒーの氷が音を立てて、莉子が振り返った。
「こっちは暑いね」
バックルームは店内に比べエアコンの風が届きにくい。そのせいもあってパタパタと手で自分を扇ぐ莉子のうなじに目が釘付けになる。
緩く後ろに下げた襟元から覗くうなじの左側に茶色い痕が見える。紛れもない、あの時の傷だと嫌でも分かって。
「あ。ありがと海月」
まるで十年の時間なんて無かったみたいに、至極自然に振る舞っているように見える莉子。雫のついたグラスを手に取ると、素肌に近い色のナチュラルな唇にアイスコーヒーが吸い込まれていく。
ゴクン、と。喉が動いて。シャツの隙間から見える茶色い痕の先に好奇心が芽生える。自分が付けた傷だから?それとも、艷やかに成長した大人の莉子に心を奪われているのか。
「……莉子、あのさ……」
でもそれよりも。莉子が怪我をしたのは自分が突き飛ばしたせいだから。
「海月」
「……うん」
「私と付き合って」
「……え?」
向き合う形になった莉子がこちらを見上げる。あの頃と変わらない真っ直ぐな瞳で。思い返す苦い記憶と、大好きだった幼い頃の莉子の姿。でも心の中で何かひっかかる。
「……や、ちょっと待って」
突然の事に困惑して、言葉に詰まる。
「考えておいて」
そう、莉子が少しだけ背伸びをして自分の髪を乱すように撫でる。
「ちょ、莉子っ」
距離の近くなった莉子がいたずらに笑う。母親を真似て、莉子はよく自分の頭を撫で回していた。その行動も、いたずらっぽく笑う姿も、全てが昔を思い出す要因になって。
「これから、よろしく」
空になったグラスを持って、莉子が店の方へ歩いていく。
心がざわつく。
それなのに、惹き寄せられるように感情が莉子で満ちていく。それが何だか怖くて。
――カラン
音をたてて溶けていこうとする氷ごと、アイスコーヒーを流し込んだ。