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【小説】僕たちのゆくえ 8


s3.幼馴染


 団地の自転車置き場で建物を見上げると、ちょうど角部屋であるみのりの部屋の窓が見える。今日は学校に行くんだろうか、なんて思いながら暫く見上げていると、カーテンが揺れてみのりが顔を出した。こちらに気づいている様子は無くて、ただどんよりとした朝の空を見上げている。すると暫くしてみのりの母親が現れてみのりの肩を抱いて中へ促しカーテンを閉めた。
「今日も休みか……」

 そう呟く。
 だから何だ、そう思う。

 幼馴染だからって、みのりが休もうがどうしようが自分にはどうでもいいことだ。むしろ居ない方が自分にとっては都合がいいのだ。そう、自分が海月の事を好きだと気づいてから、みのりは自分にとって複雑な存在なのだから。



 どんよりとした空を見上げながら学校へ向かい、自転車置き場に着くとちょうど海月が校門に差し掛かる所で。慌てて鍵をかけて小走りに近づくと、海月の身体に隠れるように小さな陰がそばを歩いていた。黒い長い髪、いつか見た長めの前髪は少し短く切り揃えられていて、みのりに似てると思ったソレは、似ても似つかない女だった。
「……何してんだよ」
 何だか胸がざわついて。駆け寄りながら海月の首に腕を回した。
「はよー」
「重いよ紫音」
 いつもの事、といった感じで海月が軽く笑って腕をタップする。自分より少し身長は低くて身体の線は細いけれど、見た目より体力も腕力もあって海月は逞しい。少し長めの前髪のせいで隠れがちな切れ長の目も、薄く薄情そうな唇も。どこもかしこも好きで仕方ないし、本当は誰にも渡したくない。
 けれど産まれた頃から側にいるみのりは例外で。海月がみのりを好きなのなら、海月がみのりばかりを見ていても仕方ないとも思う。だから。 
「で、誰?」
 腕に海月を抱えたまま、隣に佇む女を見やる。近くで見れば見るほど、教室で俯いていた姿とはかけ離れて自身に満ちているように見える。
「田辺紗夏です、一年です」
「何で一緒に登校してんの?」
「何でって別に……」
「バスが一緒なんです。それだけです、ね?吉澤先輩」
「うん」
 言葉に詰まる海月を、田辺紗夏がスムーズに誘導していて。胸が何だかざわつく。海月の事だから別に深い意味などなくて。偶然バスが一緒になったから、降りるところは一緒だし離れて歩く理由も特にないし。一緒に歩いていて誰に何を思われようが気にならない、ただそれだけだから。
 知り合って間もないだろう紗夏に一ミリの焦りも感じる事なんてないのだけど。
「じゃあ私、先に行きますね」
 そう言って紗夏が、少し足早になり先に歩いていく。意外とあっさり引いたところも、何だか分からないけど癪に障る。あんな胡散臭い女に海月を獲られたくない。
「何あれ」
 紗夏の後ろ姿を見ながら呟くと、絡ませていた腕をやんわりと解かれて。
「何って、何だよ……お前寝癖ついてる」
 そう、ふいに髪に指を通されて。逆立っていた心が和らいでいく。そうやって優しくするから、胸が焦れて海月が欲しくなる。ただの幼馴染だから、そう分かっているのに。
「……はぁ。ねぇ海月」
「何だよ」
「気をつけてよ」
「……何が」
「女の子は怖いからね」
「……お前が言うなよ」
 何ていつもみたいに軽口をたたきながら校舎へ向かった。



「紫音くんって彼女作らないの?」
 薄いブルーの下着を身に着けながら、ユカが振り返る。広いベッドの上まだ怠い身体を持ち上げて興味ないと呟くと、ユカは笑った。
 彼女はカフェのバイト先で声をかけてきた二十五歳の普通の会社員だ。お互いに都合のいいときにこうして会って身体を合わせる。愛とか恋とか一ミリもないけど、お互いに面倒事に巻き込まれるのが嫌だから、フリーである事が条件だった。
「何で?」
「紫音くんってシてる時優しいから、彼女出来たら激アマなんだろうなと思って」
「そうかな」
 女の子の身体を優しくし扱うのは当たり前だと思うから、身体を重ねる相手もいつも丁寧にしてるつもりだ。
「何?足らなかった?」
 薄いブルーのブラジャーの隙間から指を忍ばせる。まだ主張してるそこに指を這わせるとユカは笑いながら、身をよじって立ち上がった。
「違うよ。私は大丈夫だけど、優しすぎるとヤバい女に、ひっかかんない?」
「…………」
 自分が海月に言った言葉と似てる気がして、ふいに我に返る。思い当たることもあるし、人に優しくし過ぎるなと釘を刺すくせに自分も立ち振る舞えて無いのかと言葉に詰まる。 
 黙った自分を特に追求もしないユカは、シャツを羽織って、タイトめなスカートを身につけると、ベッドの近くにある趣味の悪い鏡の前に座って、透明のリップを塗っていた。
 ふくよかな唇は多分赤色が映えそうだけど、血色のいいピンク色の唇には不必要そうで。楓とは大違いだなと、眺める。
「私、先に出るけど」
「ん」
「あーあと、彼氏出来たからもう会えないかも」
「そうなんだ。良かったじゃん」
「連絡先消してもいいよ」
「そっちもね」
「じゃあね、バイバイ紫音くん」
「バイバイ」
 ちゅっ、と唇が軽く触れる。後腐れなく離れていくソレに何となく名残惜しさを感じる。去る者は追わず、それでいいと思っている。でもいつか海月が居なくなったら?そう思うと息ができなくなりそうだった。



「ふぁ……ねむ……」
 昨日家についた頃には日付が変わっていて。何だかんだと眠りにつけなくて寝不足のまま朝を迎えた。今日は自転車で行く元気も時間もないからバスにしよう。そう思い、団地の前のバス停からバスに乗り込む。運良く空いていた後ろの方の席に陣取って深く腰掛け目を瞑ると、一度発進しかけたバスが少し揺れて停まった。
「すみませんっ……」
 バスのドアが開いて、聞き覚えのある声に目を開く。息を切らしながら駆け込んできて、入り口のすぐ近くに立ったのはみのりだった。ゆっくりとバスが発進して、満員になったバスの隙間みのりの様子を窺うと、走ってきたからだろうか、こめかみから流れているであろう汗を拭う仕草を見せた。
 病み上がりなのに大丈夫なのか、なんて思いながらふいに海月が居ない事に気づく。自分がいつも乗るこのバスは海月とみのりが乗るバスより遅いから、本当ならみのりも居なくて当たり前なのだけど。暫くして呼吸が整ったであろうみのりを見届けると、ゆるやかなバスの揺れに合わせて睡魔に襲われていた。



 信号の数が減ってくるともうすぐ学校に着く。緩やかな坂になる手前のバス停で学生以外の乗客が降りるのがいつもの光景だ。半分夢心地だった頭を覚醒させて目を開けると、入り口に立っているはずのみのりが見えなかった。みのりが居たはずの場所には黒いスーツの大柄のサラリーマンが進行方向を向いて立っている。
「ん?……」
 緩い坂道の手前、バス停に停まる前に信号にひっかかると、次のバス停で降りるのであろう人達がそわそわとし始める。
 そんな人波の隙間、入り口の手すりを華奢な指がまだ掴んでいることに気付いて、ふいに窓ガラスに視線を送る。ちょうど反射した窓ガラスに俯いたみのりの姿が見えて自然と身体が立ち上がっていた。
「ちょっと、すいません」
 それと同じくしてバスが発車して。立ち上がったものの、満員の乗客に阻まれる。我先に降りよう、そう思われたのだろうか周りからの視線が痛いし前に進めない。
「おい、ちょっと……」
 信号から数メートル進んでバス停に停まる。小さな揺れに押し戻されたかと思うと、目指していたサラリーマンが、乗客の隙間をすり抜けあっという間にバスを降りていって。口元を緩めながら、人を掻き分けるように走っていくのが見えて。
「くそっ……」
 みのりの背後にやっとたどり着くと、きつく握った手すりの指が震えていて。俯いた顔を覗き込むと、青白い顔に汗が浮かんでいた。
「みのり?大丈夫?」
「……しーちゃん?……大丈夫多分貧血」
「あの、ここ座ってください」
 近くの女子生徒が自分達のやり取りを見て席を空けてくれて、みのりを座らせるとバスは無情にも発車してしまった。
「みのり、触られた?」
 なるべく周りに聞こえないように腰をかがめてみのりの耳元で話す。みのりは俯いて黙ったまま首を振ったけど。スカートの上できつく結んだ手がまだ震えているのが見えて。やられたのだと確信した。



 学校のバス停に着いて、雪崩れるように降りていく生徒達の最後、みのりをゆっくりと立たせてバスを降りる。不意に最後のステップを踏み外しそうになってガクンと揺れたみのりの身体を支えると、大丈夫と言ってやんわりと支えていた手を解かれた。海月じゃないと嫌なのかよ、なんて思って。空になった手を彷徨わせる。
 大体いつからだったか、海月の事は"海月くん"と呼ぶくせに、自分の事は子供の頃のまま"しーちゃん"だ。自分もそれに合わせて"みのちゃん"と呼ぶことはあるけど。そういう時は大体、幼馴染ごっこをしなきゃいけない時。それに海月の事はちゃんと見るくせに、自分が話しかけると俯いてしまう事が増えた。
 ふらふらと女の子と遊んでる自分に嫌悪でも感じてるんだろうか。まぁ別にどうでもいいけど。
 けれど青白い顔でふらふらと歩くみのりをそのままにする訳にも行かなくて。
「……嫌かもしれないけど我慢して」
「え、きゃあ」
 有無を言わさずみのりの身体を抱き上げる。さすがにお姫様抱っこは自分が恥ずかしいから。お尻の当たりを抱き上げると、反射的にバランスを取ろうとみのりが首に手を回した。
「し、しーちゃんっ、やだ恥ずかしい」
 それでも懸命に自分と距離を取ろうと上半身を離してじたばたするから。
「危ないから黙って。僕は病人を運んでる。大人しくしてないとそう見えないでしょ?」
 そう一蹴するとみのりは大人しくなった。
「しーちゃんごめんね」
「……幼馴染だからね」
 緩やかな坂道。歩いている生徒はもう疎らだ。それでも、みのりを抱いて歩いてる姿は異様だから。物珍しいものを見るように、周りが距離を取る。
 みのりは自分にとってライバルだけど、幼馴染でもある。無下に出来ないのは当たり前だ。
「……ありがと、しーちゃん」
 少し落ち着いたのか、首に触れるみのりの指先が少しずつ温かくなるのが分かった。



 保健室に着くと、ちょうど扉が開いて中から養護教諭の松田が出て来た。
「センセーこの子寝かせていい?」
 寝不足の時にたまにベッドに潜り込んでいるせいで、最初は怒られたものだけど、今となってはタメ口で話せるくらい馴染んだ養護教諭にそう告げる。
「あら、どうぞ。そのまま運んでくれる?私ちょっと職員室に行くからよろしく」
「はーい」
 結構淡白でサバサバしてるから、ちょっと歳は上だけどアリだな、なんて思った事があったけど。左の薬指に光る指輪を見て、自分の中でナシになったのを不意に思い出して。本当、どうしようもないなと自嘲したところで、抱いたままのみのりが真っ白でキレイすぎて見えて。少しだけ雑にベッドに降ろした。
「……しーちゃんごめんね?」
 窺うように、でも視線を泳がせながらこちらをうかがう姿に胸がチリつく。
「前も同じやつ?」
「…………」
 黙って顔を背けてしまうみのり。思い出したくもないだろうけど、きっとこういう泣き寝入ってしまう雰囲気が相手を助長させるに違いないから。
「嫌なら嫌って言わないとずっと変わらないよ」
「……そんなの分かってる」

 あぁ、ほらまた。

 肩を揺らして泣き始める。海月だったらきっと頭を撫でて慰めて甘やかすに違いない。でも。
「みのり」
「……っきゃ」
 そっぽを向いていた細い顎先を掴んでこちらを向かせる。逃げないように、顔を近づけてじっと目の奥を覗いていると、きょろきょろと彷徨っていた潤んだ目がやっとこちらを見つめ返した。
「いつまでも甘えてんな。嫌だって、自分で言えるようになれ」
「……っ」
 潤んだ目から涙が溢れる。痴漢されて体調の悪いみのりには酷だろうけど。きっとそれだけじゃない。根本的なみのりの弱さを目の当たりにすると、いじめられていた頃の自分を思い出すから腹が立つのだ。それに、何よりみのりの気持ちが良く分かるから。
「……みのちゃんなら出来るよ」
 掴んでいた顎先を離して、流れ落ちる涙に親指を這わせる。ついでに、睫毛にかかっていた黒い髪を掬って髪の先まで指を滑らせた。
 ただ、いつもの癖で。

「……っ」
 すると、みのりが顔を反らせて布団に潜り込む。
「みの……」
 シカトするなよ。
 そう言おうと思って、布団の襟元を掴んだところで、隠れきれなかったみのりの耳が赤く染まっているのに気づいて。開いていた口をつぐんだ。



 教室に向かうと、頬杖をついて窓の外を見てる海月に愛衣が何やら一方的に話しかけていた。珍しい組み合わせだけど、そんなのどうでもよくて。
「何してんの?」
 机の前に立って海月を見やると、不思議そうな顔をしてこちらを見返してきた。
「何だよ」
「みのりだよ、何で一人にしてんだよ」
「あぁ、忘れものしたって……」
「あいつまた痴漢にあってた」
「……な」
 瞬間、弾けたように立ち上がって教室を飛び出していく海月。慌てて追いかけると、みのりの教室のドアの所できょろきょろと教室の中を見回していた。
「みのり……?」
「海月、焦んないで。今保健室で寝てるから」
 今にも走り出しそうな海月の肩を掴んで、みのりの居場所を伝えるが、心ここにあらずといった感じで聞こえているのかどうかも分からない。
「僕が気づいた時にはちょうど学校に着く寸前で、ドアが開いた途端に逃げられた。で、みのりは貧血で保健室で寝てる」
「……俺が一緒にいなかったから……」
「海月……」
「悪い、戻るわ」
 そう言って教室に戻り席に着くと、海月はまた黙りこくってしまった。

 あぁ、ほら。
 また、自分のせいだって責めている。

 こんな姿、何度見ただろう。海月が苦しめば苦しむほどこんなにも辛くて、愛しいと気づく。だからこそ、みのりには側に居てほしくないと思ってしまうんだ。



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