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【小説】僕たちのゆくえ 21
m9.大事な人
『本当に大丈夫だから!』
そう、強く言われたときの瞳が忘れられなかった。あんな事言われて、大丈夫なはずがない。それが、自分がつけた傷のせいなのだから、なおさらだ。
『会いたい』
会って話しがしたい。昨日のうちに送っていたメッセージの返信は放課後になってやっと届いた。
「紫音、今日ちょっと用事あって。みのりと一緒に帰れなくて」
帰り支度を済ませた紫音にそう声をかけると、紫音はどこか複雑な顔をした。別に自分でみのりに言いに行けばいい事。紫音に頼む必要は無い。
ただ、紫音に伝えたかった。
自分の弱さにケリをつけてくる、と。
右手の甲が疼く。引きつったような、存在を主張してくるような。思わずその場所を擦っていると、自分の態度に気付いたのか、紫音は穏やかに笑った。
「……ん、分かった。伝えとく」
「さんきゅ」
とはいえ、我ながら遠回し過ぎて笑える。本当は、紫音に背中を押してもらいたいのだ。昔みたいに、海月なら大丈夫……と。
「海月」
「……ん?」
けれど、紫音も自分も幼いあの頃とは違って、少しは大人になって。いつまでも幼馴染に頼るのなんて気恥ずかしい気もするし。紫音だって、自分の知らない所で美波楓と向き合っていた。
一番辛いであろう時に側に居られなかったし、助けてあげられなかった。それをしたいのは、自分のエゴなのかもしれないけど、大事な幼馴染だから助けたいし守りたい。
それと同時に、紫音の様にちゃんと自分ひとりで向き合わなければいけない、そう思って。
色んな想いが巡って間を置いていると、紫音も同じ様にたっぷりの間を置いて。
「……行ってらっしゃい」
そう、一言だけ言葉をくれた。考えたあぐねいた末の言葉なんだろうなと思う。でもそれが、あの頃背中を押してくれた言葉と重なって思えて。
「……ん、さんきゅ」
また恥ずかしくなって、そのまま教室を出た。
莉子の大学の授業が終わるのを待って、莉子に指定された場所に行くと、いつもみたいにシンプルなシャツとパンツスタイルの莉子が待っていた。
「ごめん、遅れた?」
時間よりかなり早く着いたはずなのに。そう思いながら声をかける。
「一コマ無くなったから」
「そうなんだ……」
ふと店のディスプレイに映った自分達を見て、制服の自分と莉子が並ぶと、こんなにも違和感があるのかと思い知らされる。
「……どうしよっか」
「うん……」
呼び出したくせに、どうしたら良いか分からない。落ち着いて話せるところなんて、公園とかどこか店の中とか、それくらいしか思い浮かばない。
「……莉子が安心できる場所ってあるかな」
昨日みたいに、変な男に莉子を傷つけられたくない。そう思って呟くと、莉子は黙って歩き始めた。
待ち合わせの場所から数分歩いた細い路地の先。お世辞にも綺麗と言えない木造のアパートの前で莉子は立ち止まった。
「ここ、私の家」
そう言って外階段を歩いて行く莉子に続いて、建物の一番端の部屋に入った。
「お茶でいいかな?」
「え、あ、うん」
古い外観とは打って変わって、室内は割と綺麗だった。シングルベッドと小さなテーブル。服のラックもシンプルなシャツとパンツだけで。あの頃の莉子の家とは全く違って、色の少ない殺風景な部屋だった。
「座りなよ、なにもないけど」
「ありがとう」
テーブルに置かれた麦茶を一気に飲み干して、喉を潤した。けれど、何から切り出せばいいのか言葉に悩む。
「……昨日はごめんね。変なとこ見せて」
「いや、莉子こそ……」
大丈夫?そう続けようとしたところで言葉を飲み込む。あの男の言葉の端々には嫌悪感しか湧かないけど。莉子はそんなんじゃない、そう言い切れる程、今の莉子の事を自分は知らないのだ。
「……してるよ、パパ活。じゃなきゃ大学なんて通えない。母親とは縁きったしあてになんないからね」
酷く平然と話し出す莉子は、いつもどおりの表情に見える。あまりに普通過ぎて、言葉が出ない。
「でも足りない。本当は手っ取り早く稼ぎたいけど風俗ですら、この身体じゃ使えないって。酷いでしょ」
莉子が話す言葉が、非現実的過ぎて頭を掠めていく。確かに莉子の家は裕福と言える様には見えなかった。母一人子一人で、赤やピンクの服や雑貨で溢れた家は、雑然としていた。
それでも、お揃いの服を来て楽しそうに笑っていた莉子と莉子の母親は、その暮らしを悲観しているようには見えなかったのに。
「莉子……」
「だからさ、服着たままヤらせてやったの。三万くれるって言うから。そしたらあいつまたヤらせろってしつこくて」
莉子もまた、自分で出した麦茶を飲み干して、小さなテーブルには空のグラスが並ぶ。
言葉の端々から分かる。全ては、自分が莉子に怪我を負わせたせいだ。あの事故が無ければ、莉子は傷つかなかったし、あの団地を出ることは無かったかもしれない。母親とも、あのまま上手くいってたかもしれないし、こんな風に自分を傷つけなくて済んだかもしれない。
「可哀想だと思ってる?」
「……そんな風には……」
「分かんないよね、海月には。まだ親に守られて生きてるんだもんね」
「…………」
「私はね、ちゃんと自分で生きてる」
そう言われて、かえす言葉なんて無かった。
母親に対してしがらみがあったって、結局はその腕の中で生きてきた。どんなに昔の事を恨んで悩んでいたって、自分一人で生きるなんて事、思いもしなかった。
まだ、ただの子供だ。
ただ、大人ぶっただけの。
「海月」
「……?」
莉子が立ち上がって、デニムのパンツを脱ぐ。薄暗い部屋の中、すらりと細い足があらわになって、思わず目を逸らす。
するとまた衣擦れの音がして。
「こっち見て」
「…………」
「海月には見る義務がある」
そう言われて、瞑っていた目を開いた。背けた顔を莉子の方に向けると、黒のキャミソールに下着姿の莉子が立っていて。
「…………っ」
左側の首筋の辺りから肘、キャミソールの奥まで広がっているであろうその跡は、茶色く凹凸を作って莉子の身体に纏わりついている。
自分の右手なんて比じゃない。
自分が抱えていた感情なんて、比じゃない。
「忘れるなんてさせない」
こちらをじっと見たまま、莉子がキャミソールを脱ぐ。黒いブラジャーの紐に指をかけて、それが音を立てて落ちた。
「ちゃんと見て」
「…………」
それは、左胸を覆う様に侵食していた。
自分が想像していたよりもはるかに。
「あの時、死んでれば良かった……」
そう呟かれて、息が詰まりそうだった。
真っ直ぐにこちらを見る莉子から、目が離せない。茶色い跡が脳裏にこびりついて、離れない。
何も言葉が出せない自分に、莉子は続けた。
「あれから、何度か皮膚移植をした。治療費が払えないママは飲み屋から風俗に落ちた。でもねあの人変わらないの。そんな風になっても、恋をするの。人の男たらしこんで、狭い部屋でいつもヤってた」
いつか見た光景を思い出す。
真っ暗の部屋の中、苦しそうな声が聞こえた。カーテンの隙間から差し込む光が、絡み合った二人を照らしていた。黒いキャミソールが腰まで下がって、白い背中に骨張った腕が這い回っていた。
莉子の母親が不倫しているその様を見てしまった幼い頃の自分は、心の中で莉子の母親を非難した。
リコにはパパがいない。
ケンタくんには、ママがいる。
人のものは、とっちゃだめじゃないか。
それからずっと、莉子の母親が怖かったし。
それに似ている莉子が、怖かった
「そんなママが嫌いだった……。綺麗な身体を私に見せつけて男に抱かれるママが……」
莉子が自分の身体を抱いて、肩のあたりに爪を立てる。長い爪が肌に食い込んで赤くなる。
「……っ、莉子」
思わず立ち上がって、莉子の手首を掴んだ。少し強引にそこから引き剥がすと、そこから赤く血が滲んでいるのが分かる。
「莉子……」
床に落ちたシャツを掴んで、莉子の肩にかける。けれど莉子はそれを振りほどいて。そのまま首元のシャツを掴まれた。
「だからね、盗ってやった。ママの彼氏。こんな身体でもね、制服着てれば価値があるんだって」
笑いながら言う莉子の唇は、いつかみたいに真っ赤だった。あの時自分が怯えた、あの唇の様に。「……結局ママの血が流れてるんだよ…もう誰とヤったってなにも感じない……っ……この身体みたいに、もう何も感じない……」
首元を掴んでいた手を離して、莉子がゆっくりとしゃがみ込む。ぺたりと床に座り込んだその肩にまたシャツをかけて、自分も同じ様にしゃがみ込んだ。
「莉子……」
「…………」
「……ごめん」
「……謝ったってもう遅い。謝って、自分だけ全部終わらせようとするなんて狡い!……私には一生残るの、この火傷の跡も、この感情も全部!この汚い身体も、もうなおらないんだよ……」
心のどこかで。
ちゃんと謝れば莉子は許してくれると思っていた。あの時みたいな、豪快な笑顔で。浅はか過ぎた自分が酷く恨めしい。
会って何を話そうと思った?
莉子に全てを聞いたところで、
自分に何が出来る?
そう自問自答しても、答えなんて出てこない。謝る事で、ほんの微かでも気が晴れるのは自分だけで。莉子にとってはそんなのただの言葉というカタチに過ぎないのに。
「……終わらせようなんて思ってない。ただ、本当に謝りたかったんだ。……痛い思いさせてごめん……傷つけて、ごめん……」
あの日。
赤い唇が、自分のアイスキャンディーを舐めた時。それまで感じたことの無い衝動が血液を巡って。跳ねた自分の胸が怖くて。それを振り払いたくて、莉子を突き飛ばした。
今でも脳裏に焼き付いている。赤く染まった身体を掻きむしるようにして、顔を歪めていた莉子の姿が。
「あの時……莉子が女に思えて、怖かった」
心のどこかで。
女の人が怖いと思っていた。
それは多分、幼い自分を目の前にして女の子が欲しかったと言ってのける母親とか、あの日見てしまった莉子の母親の姿が影響していて。
それに重なって見えた莉子が、ただ怖かった。「……そんな顔しないで」
莉子に言われて、頬が引き攣っているのが分かった。泣く事も、笑う事も。今は相応しくない。
だとしたら自分は、どんな顔で莉子の前に居たらいいんだろう。
「……海月も苦しかったよね……」
莉子がそっと、自分の右手を撫でる。微かに震えながら触れるそれは、酷く優しい。こんなにも苦しそうなのに、自分に優しい言葉をくれる。
それはあの頃からそうだった。
家から出され玄関のドアを背に座り込んで、コンクリートの隙間から空を見上げていた莉子。
『あ、みーくん!一緒に見よう』
そう手を引っ張られて同じ様に空を見上げて。流れていく雲の形の話をした。厚く重たい玄関ドアの向こうからは、苦しそうな莉子の母親の声が聞こえたけど。
『みーくん、ほらあれ鳥みたい!』
楽しそうに。
あの声をかき消すように。莉子は笑ってた。
強くて優しい莉子。
この細く頼りない身体と心に跡を付けてしまったのは自分だ。それはこの先永遠に、自分の中に留まり続ける。莉子の跡と同じ様に。
「莉子」
自分の右手を撫でる莉子の手をそっと握る。
「……莉子、触っても大丈夫……?その、莉子がいやじゃなければ……」
莉子の瞳から視線を落とし、首筋から腕そして胸元へ視線をやる。茶色い跡は、そう簡単には消えない。そう主張してる。
その身体を目の前にして、生理的に反応する身体も、少し気恥ずかしい気がする自分も。全部正直な反応で。この先ずっと忘れないために、莉子に触れたいと思った。
「……いいよ」
莉子が立ち上がって、肩にかけていたシャツが落ちる。何にも包み隠さない姿が目の前にはあって。同じ様に立ち上がって、肩にかかる髪をそっと払って。左肩に手のひらを乗せる。 ざらついた肌は、この自分の右手と同じ感触で。それをずっと下へ這わせると、ドクンと震える膨らみにたどり着く。
温かくて、美しい。
規則正しく、少しだけ早く打つそれは。
莉子が、ちゃんとここに生きている証で。
「……莉子……傷つけてごめん……生きていてくれてありがとう……」
それは自分のエゴかもしれない。こんな言葉なんて、莉子にとっては何の意味もないかもしれない。それでも。
「忘れないよ……ずっと、この跡と一緒に生きるよ」
「……っ……」
莉子の腕が、自分を抱きしめる。それに答えて抱きしめ返すと、莉子の身体はすっぽりと自分の中に収まった。
あの頃、自分より大きくてお姉さんだった莉子。
大人びたところも、くるくると表情を変えて笑うところも大好きだった。それが、恋愛の好きとかそういうのかどうかは、当時の自分はきっと分かってない。
ただ、大事な人だった。
それはきっと、今もこれからも。
暫くそのまま抱き合って。
莉子が小さなくしゃみをして我に返った。
今だ早く脈打つ自分は、酷く身体が熱くて汗が滲むけれど。エアコンの効いた小さな部屋で、裸の莉子は寒そうだ。
「ごめん寒いよな」
莉子の身体を離して、シャツを拾い上げる。肩にかけようと、莉子の背中に腕を回すと、また莉子の腕が自分に絡みついてくる。
「……もう少し、このままでいさせて」
ぎゅっと。
身体を抱きしめられて。自分もまた抱きしめ返した。でも、少し震える肩が気になってしまって。
「ちょっと、ごめん」
「……あっ」
そのまま莉子を抱きかかえて、シングルベッドの上に座らせる。薄手のタオルケットを身体にかけてあげて、そのままその隣に座って、莉子の身体を抱きしめた。
「風邪ひくから」
「……じゃあ海月も中に入って」
「いや、でも……」
「今更何恥ずかしがってるの」
「…………」
莉子に言われて、他意は無いけど華奢な胸に触れた事を思い出す。思い返せば酷く恥ずかしいし、女の人の身体をあんな風に触ったのも初めてだ。
莉子に言われるまま、一緒にタオルケットの中に入りベッドに寝転ぶ。すると莉子が右手をそっと握ってくれた。
まるで、いつかの押し入れの中にいるみたいで。喉に引っかかっていた言葉が流れ出る。
「……俺をかばってくれてたんでしょ?」
「……え?」
「……あんな事故だったのに、誰にも咎められなかったのが不思議だったんだ。莉子に再会してから母親に聞いたら、莉子がヤカンを倒したって……」
「……海月がやったって知ったら、ママはずっとお金をせびると思ったから。……それにね」
「……?」
「……海月の気を惹きたかったんだ」
右手を握ったまま、莉子は言う。
「みのりちゃん。……あの子から海月を盗りたかった」
あの頃。
紫音、みのり、莉子。そして自分の四人で遊ぶ事もあった。いつも莉子は自分を贔屓していた様に思うし、頭を撫でてくれるのも自分だけにだった。思い返せば、みのりに対してだけ少し辛辣だった記憶がちらつく。
「変らないね、みのりちゃん。相変わらず海月としーちゃんに守られてるんだ。……それに、海月は相変わらずみのりちゃんが好き」
「…………」
みのりを好きになるのなんて、必然だった。
同じ時に産まれ、同じ時を生きた。
小さくて頼りなくて。いつも自分に自信がないみのりを守りたいと思う事に、何の違和感も無かった。そんな自分に対して、いつも側に居てくれて、必要としてくれたみのり。好きになるのなんて、息をするくらい自然なことで。
でも、側に居てみのりの事を見ていれば分かってしまう。みのりの気持ちは自分には向いていなくて、きっと紫音の事が好きなんだろうって。
みのり自身がそれに気づいているかは分からないけど。安心しきった様子で自分を見上げるのとは対象的に、紫音を見る時のみのりは、酷く不安げで。それでいて、その瞳の奥は熱くて。それは、歳を重ねるごとに増していった気がする。
だから思っていた。もし紫音がみのりの事を好きなら、自分はこの場所に留まっていようって。
人のものは、とっちゃだめだって。
「……変わらないね」
「……え」
莉子の声に思わず頭ごと視線をやると、莉子も同じようにこちらを見ていて。
「自分の気持ちを言えないところ」
「…………」
「優しすぎるところ。自分の事より人を優先するところ。……人の気持ちを溶かすところ」
「……何それ」
「本当はもっと意地悪したかったの。もっと海月を困らせたかった。……でもね、海月あの頃と変わらないんだもん。やっぱり、酷くなんて出来ない」
繋いだ手にぎゅっと力がこもって。莉子はまた天井の方を向く。
「……それにね、確かめたかったんだ。海月なら大丈夫かなって……」
「……?」
莉子の横顔を覗き見るけど、その言葉の意味は分からなくて。繋いだ手がただただ熱くなっていくのが分かって。
「……莉子?」
「……子供の頃、私にとっても海月が救いだった。小さくて柔らかくて従順で……。あの小さい世界で、海月の存在が私にも大事だったよ」
強くて優しかった莉子。
泣いたり辛そうな顔をしてるところなんて見たことなかった。あのコンクリートの隙間から、二人で狭い空を見上げたときだって、莉子は笑っていた。 今ならそれが強がりだって、手に取るように分かる。その程度には、自分は大人になれたんだろう。
「俺も、莉子が大事だったよ」
繋いだ手を握り返して。どちらともなく向き合う。
「……だからこのままで……大事にする……。海月もそうして。忘れないで」
「……うん」
前髪同士が触れて、またあの狭い押し入れの中での事が頭を掠める。忘れていた、初めての記憶が。
『みーくん、目閉じて』
小さな押し入れの中。
いつも灯す懐中電灯の光を消して、莉子は言った。
『なんで?真っ暗だよ?』
『いーの。ふんいきだよ』
『なにそれ』
『みーくん、しぃ……』
真っ暗な押し入れの中、
柔かい手が頬に触れて。
唇の先にぬくもりを感じた。
でも、次に目が覚めた時には自分の部屋の布団の上で。それが夢だったのか、何だったのか分からなかった。
「海月、目閉じて」
「……何で?」
「……雰囲気だよ」
細い指が頬に触れて、赤い唇が優しく触れる。
「……海月のファーストキス」
「……とっくの昔に莉子に奪われてる」
「覚えてたんだ」
「……今、思い出した」
「海月の初めての女だ」
「……言い方」
それから、またキスをして眠った。
あの頃の様に。