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【小説】僕たちのゆくえ 22


m10.僕たちのゆくえ


 朝目覚めると、見慣れない天井だった。
 指先に感じるタオルケットも、かすかに香るシャンプーの匂いと、香ばしい匂いも。
「海月、そろそろ起きて」
「……ん……」
「一回家に帰る?」
「……ん……大丈夫」
「朝弱いの?」
「……いや、眠れなかった」
「何で?」
「……何でって」
 そこまで言ったところで身体を起こした。
 ワンルームの部屋のキッチンの前に、シャツを一枚羽織った莉子が立っている。細いスラリとした足は、朝から見るには目に毒で。身体が疼くのは当たり前の事だ。
 昨日あのまま手を繋いでいると、莉子は静かに寝息を立て始めた。ちょっとだけ口を開けて眠る姿は、あの頃のままだったけど。
 タオルケットに包まれて充満する莉子の匂いとか、すぐそこにある小さな膨らみとか。それを前にしてぐっすり眠れるほど、無関心な訳じゃない。

 それに、何かを言いたそうにしていた莉子を思い出すと、自分の思いは間違いじゃないんだろうなとも思うけど。最後まで強がりな莉子の気持ちを守りたくて。疼く身体をどうにか鎮めようとすると眠れやしなかった。
「……シャワー浴びてきなよ」
「……うん、ありがとう」
 小さなユニットバスでシャワーに打たれながら、昨日のことを反芻する。
 莉子が生きてきた時間をほんの少し垣間見ただけなのに、どれも胸が苦しかった。けれどそれは全て自分が引き起こした事で。この先どう莉子に償っていけばいいのか、頭を巡らせる。
 もし莉子が、望むなら――……



「あ、海月早く食べて」
 シャワーから出ると、小さなテーブルにトーストと目玉焼きにサラダ、湯気のたつコーヒーが置いてあった。促されるままに、莉子の向かいに座ってコーヒーに口をつける。
「……うま」
「マスターに美味しい淹れ方教えてもらったの」
「そうなんだ」
 他愛もない話をしながら朝食を食べて。もし、一緒に暮らしたらこんな感じなんだなとか、考えて。少し皺になった制服のシャツを羽織って、莉子と一緒にアパートを出た。




 少し歩いて繁華街へ出た所で、莉子が立ち止って。
「……ここで別れよう」
「うん」
 莉子は駅から大学へ、自分はバスで高校へ。いつも通りの一日が始まる。けれど、朝少しだけ二人で過ごした時間の記憶が、いつもとは違う感覚を植え付ける。
「もう、会わない」
「……え」
「バイトも辞めたの。だから最後にコーヒーの淹れ方教えてもらったんだ」
「待って、どうして」
「もう大丈夫だから」
「…………」
「いい思い出になった、ありがと」
 そう微笑む莉子の表情は凄く穏やかで。特に我慢している素振りは見えない。けれどシャツの隙間に見える茶色い痕は、昨日と変わらず有り続けるから。
「でも俺……」



 側に居ようと思った。
 莉子が、側に居る事を許してくれるなら。



「大丈夫」
「…………」
「本当に、もう大丈夫だよ。ありがと、大事にする」
 そう言って莉子は、自分の唇に指をあてた。まるで連動する様に、唇が熱くなった気がして。昨日の二度目のキスを思い出す。
「初恋、大事にしなよ」
「……莉子」
「じゃあね、海月」
 莉子が目を伏せて、踵を返す。



「莉子‥‥!」




 けれど反射的に、腕を掴んで。
 莉子を腕の中に閉じ込めた。
「ごめん莉子……最後までごめん……」

 これが、恋かどうかは分からない。
 だって自分の心にはみのりが居る。
 けれど。
 こんなにも莉子が大事で、
 離れがたいのも事実。

「……甘えん坊なのも変わらないね」
 どこか諦めたように言葉を紡いで、莉子が抱きしめ返してくれる。少し掠れた声が、耳を熱くする。
「……間違えちゃだめだよ。好きなものは」

 莉子もみのりも大事だ。
 それは嘘偽りない。

 その気持ちに違いをつけなければいけないのが、不思議でならない。
「我慢もしちゃだめ。後悔するから……」
 でも、好きな人がそれで幸せなら後悔なんて。
「……私みたいにならないで」
 莉子が欲しいと手を伸ばしてくれれば、自分はその手を取っただろう。でもそれに、少しの罪悪感が混じっているのを莉子は気づいているから。
「……努力する……」
 頑固な自分の事。
 そんなに簡単には、変われないけど。
「莉子のために」
「……うん」
 莉子がそんな自分を望むなら、莉子のためにもそうしよう。もし、この素直な感情が、みのりや紫音を傷付ける事になっても。



「海月、ありがとう」 
「……うん、ありがと」
 暫く抱きしめ合って。
 どちらともなく同じタイミングで離れた。
「じゃあね、海月」
「うん」
 莉子が先に振り返って、駅への道を進み始める。自分もそれを見届けて、バス停への道を進み始めた。



「…………」
 一度だけ振り返ったけど、莉子の姿はもう見えなかった。熱く疼く右手を握り締める。

 忘れない、ずっと。
 一緒に生きるよ。



 緩い坂道の下に着くと、少し先にみのりと紫音が歩いているのが見えた。
 昨日の夜、母親にはバイト先の先輩の家に泊まると連絡した。分かった、と一言だけ返ってきたメッセージは、あまり自分に関心が無いのかなとも思うけど。今の自分にはそれくらいがちょうど良かった。
 同じ様に紫音にもメッセージを送った。朝みのりと登校して欲しいと。紫音も同じ様に分かった、と返事をくれたけど。紫音の事、きっと心配しているだろうなと思うから。
「…………」
 ゆっくり歩くみのりと紫音との距離はあっという間に縮まってしまって。思わず立ち止まる。
 二人が時々顔を見合わせながら話す様子を見て、弱い心が想いに蓋をしようとする。
「吉澤」
 声の方を見やると、愛衣がいつの間にか立っていて。二人の背中を見つめたまま、呟く。
「やっぱ紫音ってそうなのかな」
「……そうって?」
「見たままじゃん」
 珍しく何か楽しそうに話してるぽいみのりの事を、微笑みながら見下ろしている。そんな横顔が見えて。あんな紫音の顔を見るのは久しぶりだなと思う。
「佐倉さんも、吉澤の事が好きだと思ったけど」
「いや……俺じゃないでしょ」
「……そういうのは気付くんだ」
「……どういうのがダメなんだよ」
 いつか愛衣に鈍感だと言われた事を思い出す。
「全部お見通しかぁ」
「……そんな事無いけど」
 みのりの事は好きだけど。莉子も大事だった。この二つの気持ちに名前をつけるとしたら、どうなるのか自分には分からない。

 好きとか嫌いとか。
 白とか黒とか。

 はっきり区別をつける必要があるんだろうか。「私は諦めないけど」
「え?」
「紫音が誰を好きでも、自分の気持ちは変わらない。気持ちなんて絶対伝えなきゃいけない訳じゃないし」
 きっと愛衣は紫音が好きなんだろう。
 じゃなきゃ些細な人の気持ちの変化なんて気づけない。相手の事をちゃんと見ているからこそ。
「辛くないか?」
「……そりゃ辛いでしょ。好きな人が幸せなら私も幸せなんて、綺麗事だよ。でもそう決めたのは自分だから。紫音と友達でいようって」
 誰かの幸せのために、自分の気持ちに蓋をするのは駄目なことじゃない。そう思える。
 莉子との約束は守れそうもないけど。
「園田っていいやつだな」
「吉澤もね」
 二人でそう笑い合って。
 校舎に入って行く二人の姿を見ながら歩いた。



 昼になって購買のパンを食べ終わったところで、ベランダに出てスマートフォンをポケットから取り出す。
 莉子とのメッセージ画面を開こうとしたけど、そこにあったUnknownの文字が、莉子の気持ちの強さを物語っていて。
「……急に現れたくせに……」
 突然現れた莉子。
 ずっと抱えていた感情を露呈されて。莉子の抱えていた痛みも預けられた。でもそれは、自分が莉子を突き飛ばしたから当たり前の事なんだけど。
 心に残るこの感情とまだ熱っぽい唇は、再会したからこそ生まれたもので。
「こんなんじゃ、忘れようにも忘れられない……」

 忘れない。
 そう約束した。
 莉子の痕も想いも全部。

 けれどそれとは別に、焦がれる様なこの感覚は忘れたくても忘れられない。

 自分は、みのりが好きなのに。



「海月」
 振り返ると紫音が立っていて。
 少しよけてスペースを開けると、自分の隣に並んでベランダにもたれ掛かった。
「……大丈夫?」
 色素の薄い前髪の隙間。遠慮がちに紫音がこちらを覗き見る。
 最近ずっとこうだ。自分も紫音も、相手の様子を窺って次の言葉が出てこない。いつかみたいに、自分の事を避けたりはしないけど、紫音もきっと思うことがあるはずで。
「なぁ、紫音」
「……ん?」
「少し話さないか?夜でいいから」
「……うん」

 莉子の事を話そう。
 きっと紫音が一番心配してる。
 紫音を安心させよう。



 バイトを終えて家に着いた頃には夜の九時を過ぎていた。紫音にメッセージを送って二人で団地の側の公園のブランコに座った。
 いつかみたいに、頼りない電灯が自分達を照らしていて。キィキィとなるブランコが相変わらず耳障りだけど。シン、と静か過ぎる公園の中で少しだけ気を紛らわせてくれた。
「お疲れ」
「うん」
「……莉子ちゃん、大丈夫?」
 紫音に助けられた、あのホテルの前での事を思い出す。紫音が居なかったらあの男を殴っていたし、自分があんなに感情的になるのかと驚いた。
「ごめんなあの時は助かった」
「ううん、通りかかって良かった」
「……昨日莉子と話したよちゃんと」
「うん」
「莉子はさ、自分のせいで怪我をしたって言ってたんだよ……あの頃からずっと、俺の事守ってくれてたんだ」
 莉子が生きてきた時間は言葉で表せるほど簡単なものじゃなかった。莉子に再会してほんの数週間。そんな短い時間じゃ、莉子の気持ち全てを分かりっこなくて。どれだけ辛い思いをしてきたんだろうと考えると、胸が裂けそうになる。
 それなのに、あの瞬間のあの時から。
 自分の事を守ってくれていたんだと思うと、どれだけ謝ってもどれだけ気持ちを伝えても、そんなものじゃ足りるわけがなくて。 
「莉子の側に居ようと思ったんだ……莉子が許してくれるなら、どれだけでも」
 そう、莉子が側に居ることを許してくれるなら、一緒に居たいと思った。それは、ほんの数週間でも思い出してしまった恋心と罪悪感で。
 けれど莉子には、きっとこの罪悪感を見透かされていて。寄り添うことを拒まれてしまった。
 それもきっと莉子の優しさで。
 あのまま莉子を抱いていたら、変わってしまっただろう。二人でぐずぐずになって溶け合って、向き合わなきゃいけない事から二人で逃げていたと思う。
「でもさ……」
「何だよそれ」
「…………」
「分かるよ、莉子ちゃんの事は大変だった。海月だってずっと苦しんでた。でも、そんなに苦しまなきゃいけない?いつまで苦しんだら許されるんだよ」
「…………」
「莉子ちゃんの側に居る……?だったらみのりは?みのりの事はどうするんだよ。好きなんでしょ……?」




「……好きだよ」



 みのりはきっと紫音が好きで。
 紫音もきっとみのりが好きだ。

 だからこの気持ちは言葉にしない、そう決めてた。
「だったらみのりを大事にしろよ」
「……大事にしてるよ。だから、このままでいい」
 みのりを好きな気持ちは変わらない。けれど、伝えることが全てじゃない。みのりがみのりらしく笑えて居られるなら、このままでいい。
「……そんなのずるいよ……そんなの聞かされたら僕はどうしようもないじゃん」
「ごめん、フェアじゃないと思って」
「…………」
「…………」
「……分かんないんだよ……。海月はずっとみのりが好きで、みのりだってそうなんだと思ってた。僕はただ、海月をとられるのが怖くて、みのりの事なんてちゃんと見てなかった……」
「紫音……」



 いつかみたいに視線を落として、紫音は呟く。
「……言っちゃいけないって思ってた。こんなの駄目だって」
「…………」
「だって普通そうでしょ?……普通の人は思わないよ……海月が笑えば嬉しいし、悩んでるなら助けたい。髪を撫でられたら身体が熱くなるし、抱きしめたいって思っちゃうんだよ……なのに……」



 ――ガシャン 

 ブランコが少し跳ねて音を立てる。
 立ち上がった紫音がこちらに振り返る。



「……僕も、みのりが好き」



 頼りない電灯の下、照らし出された紫音の頬にしずくが流れる。
 泣き虫だった紫音。
 彼の涙を見るのは久しぶりだ。
「紫音……」
「でも僕は……」
「…………」



「好きなんだよ……」



 海月の事が。

 そう、聞こえた気がした。
 絞り出すように象った言葉に後悔してほしくない。そう思うけど、その気持ちに応えられる自分は居なくて。
「紫音……」
 ありがとうなんて、軽く聞こえるかもしれない。
 そう思って。

 ――ガシャン

 また、ブランコが耳障りな音を立てる。
 砂利を踏みしめて、目の前に立つ紫音を抱きしめると、紫音は少し驚いた様に肩を揺らした。
「……俺も紫音が笑ったら嬉しいし悩んでたら助けたい。……紫音が好きだよ。……紫音が望む答えにはならないかもしれないけど」
「……海月……」
 長い手が、自分を抱きしめ返す。腕の強さとか身体の大きさとか。二人共こんなに大きくなってたんだなと、改めて実感する。



 紫音が大事だ。

 出来る事なら傷つけたくないし、出来ることならいつまでも側で笑っているのを見ていたい。
 それは、みのりや莉子に対しても同じで。この気持ちに名前をつけるのは難しいんだけど。

 抱きしめていた腕を解いて紫音を見ると、一筋流れた涙のあとが浮かんで見えて。拭いそうになった右手をきつく握りしめる。
「紫音がいいなら、これからも隣にいて欲しい」
 紫音の気持ちを聞いてしまった今、それは自分のわがままかもしれないけど。心のどこかで、紫音ならそうしてくれると信じている自分も居て。
「……海月はいいの?僕が側にいて……。みのりの事だって……」
「いいんだ。俺は、紫音とみのりが笑ってればそれで幸せだから……」

 まるで綺麗事。
 そう聞こえたかもしれない。

 でも莉子と約束したとおり、我慢しないで素直な気持ちを紫音に伝えた。紫音は困るだろう、そう分かっていたけど。
「……僕とみのりが付き合っても?」 
「あぁ」
「我慢してるんじゃないよね?」
「大丈夫だよ。……本当は俺も分からないんだよ」
「何が?」
「みのりの事は昔から好きだった。当たり前みたいにそう思ってた。……でも莉子に会って、ほんの少しの間だったけど思ったんだ。俺、莉子が好きだったんだなって。それに気づいたときに、じゃあみのりに対する気持ちは何なのかなって」
「…………」
「好きだから付き合いたいとか、俺にはまだ分かんない。ただ、みのりも莉子も大事だと思ったんだ。二人が幸せになる方を選びたい。だから、莉子とはもう会わないし、みのりの事は見守ってたい。……それが、俺の本心だよ」



 キスをしたり、抱き合ったり。
 それがとても温かいものなんだと知った。

 でも、だからみのりを一人占めしたいとか、強い想いで自分から離れていく莉子を無理に引き止めたいとは思わない。
 それが今の自分の、想い方だと思っている。



「……同じだね」
「そうかな」
「そうだよ……。僕も海月もみのりも大事だから」
「俺も、紫音もみのりも大事だよ」






 いつもどおりの朝、重たい玄関ドアを開ける。
 コンクリートの壁にもたれながら、みのりが立っていて。
「おはよう海月くん」
「……はよ」
 朝の眠い頭には、この二文字くらいが精一杯。それでも返事を返した自分に満足そうなみのりを見ると、可愛いやつだなと思う。
「……はよー……ふぁ」
 同じく眠たそうな声と顔で隣のドアから紫音が出てきて。三人揃って、団地を出て学校へ向かった。



 少し坂になった緩やかな桜並木の先にあるのが、通って二年目になる高校だ。
 もう茶色く色づき始めた葉は、すっかりと秋を連れてきていて。この坂道もずっと並んで歩けるわけじゃないんだなと感傷的になる。

 それはきっと、秋の色のせいで。

 白の冬を超えて春になれば、また桜に満ちたこの下で、新しい世界に胸を膨らませられるんだろう。



「…………」
 立ち止まって空を見上げると、小さな雲が流れていた。

 ゆるやかに、柔らかく。
 いつもこんな気持ちだったらいいのに。
 でも生きてる以上そうはいかない。
 どんなに辛い事があっても、
 ちゃんと朝はくるし。
 どんなに泣いたって、涙は枯れる。

 どちらか選べない時もあるし、
 選ばなくていいときもある。

 好きとか、そうじゃないとか。
 好きだから付き合って当たり前とか。
 キスをしたいとか、抱き締めたいとか。
 セックスしたいとか。
 しないとか。

 みんな一緒のラインじゃないし、
 自分じゃない他の人が決めつける事じゃない。

 同じ時に産まれたって、肌の色も違えば髪の色も違う。薄いブルーが好きな女の子だって、ピンクが好きな男だって、どっちつかずな黄色を好きな男だっている。

 自分のペースで、自分の想いで。
 紡いでいけばいい。
 この気持ちは、自分のものなんだから。



「海月くん」
「海月」



 二人が同時に振り返って。
「何してんの」
「海月くん、遅れちゃうよ」

 いつも通りに微笑んでくれる二人が居て。
 いつも通りの毎日が来る。

 いつまでこうしていられるか分からないけれど、今側にいてくれる二人がこんなにも愛しいから。

 今という時間を、大事にしよう。
 何も、変わらなくても。

「今行く」

 二人が開けてくれた真ん中に並んで。
 いつもの坂道歩く。






 僕たちのゆくえは

 僕たちもまだ知らない





 2024/04/26 21:49 end



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