話し相手JAPAN TOUR
2000年3月20日『話し相手JAPAN TOUR 2000』というタイトルで、全国ツアーをスタートしたんです。20年前になりますね。
結果的には東京から西方面だけで終わったので、半国ツアーでした。そして、西へ向かえば向かうほど存在感が大きくなっていくツアーでもありました。
全国ツアーなんていうと、たいてい日時が決まってるもんなんですけど日時どころか場所も決まってなかったので、全国ツアーというには、なかなか無理のある感じでした。
東京から歩き始めて、横浜、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪(梅田、なんば)、三宮、岡山、倉敷、福山、尾道、松山、広島、山口、小倉、博多、佐賀、長崎、熊本、そして鹿児島まで歩いたんですが、別に歩くのが目的ではなく、目的は『話し相手』だったんです。
占いでも相談でもなく、話し相手です。ただ、話の相手になるだけです。
看板には、話し相手とするか聞き上手にするかを迷ったのですが、聞くだけよりは話したい。なので『話し相手』になりました。それともうひとつ『占い(え)ません』
ちなみに挿し絵は、妹に発注してます。持つべきものは、器用な身内です。
寝泊まりは、春先は寝袋に入って野宿というスタイルでしたが、夏前からは、ダンボールだけで寝るというライフスタイルに変わってました。
ツアーでは、たしか5つほど軽いルールがあって
① 移動は歩き ②『話し相手』でお金は頂かない ③ホテルには泊まらない(泊まれない) ④所持金(8万)がなくなったらバイトして先に進む
そして一番大事な5つ目 ⑤女子の家に転がり込まない
それぞれのルールが、どこまで守られたか、また、どれが最初に破られたかは・・・追々ということで。
鹿児島に着いて船で沖縄に渡りました。1ヶ月半沖縄から出られなかったので、国際通りの入り口で『話し相手』をやって、夜は、目の前にあるパレット久茂地というデパートのテラスというか、吹きっ晒しの中二階にダンボールを敷いて寝てました。雨は凌げましたけど、風は強かったり弱かったり、日々、自然と向き合って暮らしてました。
一度、台風の予報が出た日に、知り合った人に「うちに泊まりなさい」と言ってもらいましたが「大丈夫です。パレットくもじ雨凌げるので」と言ったら「沖縄の台風ナメたらだめだよ」と言われて泊めてもらいました。
沖縄から出られなかったのは、実にシンプルな理由ですが、お金がなかったからです。イカダを作る技術がなかったというのもあるのですが、当時飛行機代は、めちゃくちゃ高かったので、お金を貯めて船で渡るしかなかったんですね。
その船賃を貯めるのに1ヶ月半かかりました。
沖縄を出て神戸まで船で辿り着き、大阪からは、たまにオバチャンが運転してる三輪の自転車で東京まで帰ってきました。その間6ヶ月。
元々、6ヶ月だけ『話し相手』をやろうと決めていたのですが、その6ヶ月間、日々書き綴った日記と写真があるんです。
当時は、スマホなんていうものはなく、たしかデジカメもなかったのか、高価すぎて存在を知らなかったのか、よく覚えてないのですが、写真は使い捨てカメラで撮影していました。
その写真のクオリティーたるや、驚くほど悪いんです。
なんとも魅力のない写真ばかりが残ってました。富士山も桜も京都のお寺も関門橋も、「え?白黒写真?」っていうほど、くすんでるというか、きっと撮影する人間の内面が滲み出てたんでしょうね。そんなクオリティーの低い写真も後々、載せてみようと思います。
全国ツアーから帰ってきて、改めて日記を書き直して原稿にしました。何年か前に、原稿を読んでくれた出版社の方が「本にしませんか?」と言ってくれたのですが、ひとつ条件がありました。
「自分探しの旅をしてきた福島さんが、出会った人達によって成長していく姿を書き足して欲しい。」
というリクエストがあったのですが、僕の答えはNOでした。というか、正直半年ぐらいで人は『成長』しないというか、少なくとも僕は成長してなかったんです。
そもそも『話し相手』は『自分探しの旅』ではなくて、ツアーなので、すでに自分は見つかっていたのです。残念ながら出版社さんの期待には沿えないと思い丁重にお断りしました。
がッ、今になって思うと・・・リクエスト通り書き直してりゃ良かった!
そうだよ、オレは成長したんだよ!と。なんなら今からでも遅くないから成長したハズの自分を書き足そうじゃないか!よし、あの出版社さんに連絡して、なんぼでも書き足します!と言って本にしてもらおう!!と。
で、出版社に連絡しようと思ったら、3億以上の負債を抱えて倒産してました。
よぉし、それじゃあ、ここに書こう。noteに書こう。
そんなワケで、20年前に成長のカケラもなく、ただ面白い事をやりたいと思って歩き始め、半年間やってきた『話し相手JAPAN TOUR 2000』の話、始めます。