「対話」に関する連想ゲーム


「話せば分かる」は幻想です!
これ、皆言ってます。なんでなんですかね。言語ゲームがさァ!言語の恣意性がさァ!という話は分からないので置いておきますが、同じ言語を話す同じインターネットに接続された同胞であるはずなのに、どうして「話せば分かる」が幻想になってしまうのでしょうか。私は2つのケースが考えられると思います。

マジで分かってない場合
ほんとうに会話ができない人というのは、居る。
私は信じていませんが、IQが20離れると会話が成り立たないという俗説もあります。本当に日本語の運用能力に差があり過ぎて通じあえないという場合もありうるでしょう。しかし、「私たちは通じ合えていない」「これ以上の対話は無駄である」という、後ろ向きな分かり合いは発生できても良いはずです。
にも関わらず、なぜ人はインターネットで言い争い続けているのか、もうキーワードを出してしまいましたが、その答えはコレだと思います。


そもそも対話する気がない場合
インターネットの人間の多くは、そもそも対話を求めていない。持論を撒き散らすのになぜかリプライ/引用RTという形をとって、議論のような何かをおっ始める。なんなんですかマジで。
そもそも話す気がないし分かる気もないから、話しても分からない。話すだけ無駄。どうしてこんなバケモンが生まれてしまうんでしょう......現実で誰も話を聞いてくれないから?だとしたら悲しい、そんなことをしても世界の不幸の総量が増えるだけですよ!

余裕
などと考えると、「余裕」みたいな話になってくる。
そもそもなぜ対話を私が尊ぶのかといえば、それが楽しいからというのもあるが、よき人であれという義務感のようなものがあるからだ。たぶん、本当は、私のような人間なら尚更、自分がしたい話をしたいだけして相手に一分の隙も与えないのが、一番気持ち良い。本当は延々と競走馬の血統の話とかしたい。何ならそこに適切な合いの手を入れて欲しい。しかしそれは人道に悖る行為、あまりにも多くの母性を求め過ぎているので、対話に甘んじている......といったところだろうか。
なぜ甘んじることができるのかといえば、「余裕」があるからだ。そうまでして埋めるべき空白が無いからに他ならない。なんだかんだリアルの友人と話したり、インターネットの人とスペースで話したり、ほんとうに孤独ではないから、少ない会話の機会で苛烈な発話をする必要がない。
もっと言えば、実家が太いから飢えることがないとか、背が高くて勉強が得意だからその点での劣等感は抱かずき生きられるとか、精神全体の余裕が、私に対話を促しているのかもしれない。(女に縁がないとか大学卒業できそうにないとか頭がおかしいとか、狂うこともあるけど大抵酒を飲めば解決する)

して、これは難しい問題だ。まぁあくまで私の突飛な仮説に過ぎないのだが、どうすればインターネットに対話を促せるかというと、より良い人間になりましょうという、バカでかい課題をクリアする必要がありそうだ。そもそも人にはなぜ対話の余裕すらなくインスタントな快楽に耽るほかなくなってしまうのか、

比較
昨今のSNSを見ていると、SNSそのものが悪なのではないかという指摘をまま見る。曰く、恵まれた人間を直視できるようになってしまったことで劣等感が刺激されやすくなってしまった、今までなら満足出来ていた人たちが満足できなくなってしまった、理想が高くなり過ぎてしまった、と。
私が挙げた、私の余裕の源泉として考えうる要素も、「他人より」という枕詞がつく。他人より裕福だから他人より飢えにくい。他人より背が高く他人より勉強が得意だから、他人より劣等感を抱きにくい。だから余裕がある。誰かより優位にあるということが余裕の源泉だとすれば、境界線がどこかに必ず存在する。
私が見下す/見下されるの境界線。尊厳を保ち、余裕ある振る舞いを可能にする閾値。そこを下回ってしまうと、何もかもがどうでもよくなるような、理性と本能の分水嶺が、各々のどこかにある。そういうことを認めざるを得なくなる。これは我々を不幸にもしうるので、存在するべきではない。大体身に覚えがあるだろうが、優越感が役立たずの割に、劣等感というやつは大変に勤勉なのだから。


話がだいぶ脱線してしまった。
「話せば分かる」を幻想にしているのは対話の拒否、一方的な発話である。それは普段 余裕によって抑えられているが、余裕がなければ抑え切れず発露してしまう。余裕は比較によるものである。より優位にあるものは、より余裕を得る。つまり対話を普及させるには、まず何かしらの方法で余裕を普及させるか、比較を破壊するか、どちらかの方法が必要になってくる。
比較の破壊、これは私が常日頃考えていることだ。


比較の破壊
こういう時にこそ脱構築っていうんだろうか、よく知らないので、私はこれを破壊と呼ぶ。
劣っているとか優れているとかいうのは、どうでも良い話だ。理想と現実のギャップに苦しむこともあるだろう。理想の、あるいはその先をも体現している人の存在をSNSが暴き出すこともあるだろう。しかし、それがなんだというのか。私は彼ではないし、彼は私ではないのだから、「もし」を考えることには何の益もない。それで何くそとやる気を出して人生が好転するなら良いが、落ち込むだけなら気にすべきではない。比較とは、そういうことをむしろ進んで行っている空虚な営みだ。つまり、ありもしない仮定の上で不幸を感じたり、己の人生を悪循環に落ち込ませたりする、そういうことばかり得意で、肝心の優越感は大して与えてくれないのだ。
だから、比較は破壊すべきだ。いっそあらゆる比較をやめて生きるべきだ。それは我々をほんの少しだけ幸せにする代わりに、絶大な劣等感を置いて行く詐術なのだから、決して騙されてはいけないのだ。

具体的な方策について
比較こそが諸悪の根源であり、その破壊でもって私たちの精神衛生が豊かになろうということは、多少納得してもらえたと思う。しかし、いったいどうすればこれを実行できるのだろうか。どうすれば私たちは、他人と自分とを比較して、少しだけ幸せになったり、ひどく落ち込んだり、そういうことの繰り返しをスパッとやめることができるのだろうか。
......分かりません!
分からない。これっぽっちも分からない。第一、ひとの考え方というものを変えることが出来るというのが烏滸がましい仮定ではなかろうか
それは鬱病の人に「ポジティブでいてください。」「やる気を出してください。」「動いてください。」そう言えば治ると言っているようなものだ。脳がそうしたがっているのを矯正するのは生半可なことではない。だから、分からない。どうすればこの無益な比較を破壊できるのか、想像もつかない。ただ、言葉は尽くした。あとはこれを読んだ人たちがどう感じるかに委ねられている。

結局、インターネットを啓蒙し対話を普及させるという私の目論見はどうやら上手くいきそうにない。しかし対話について気ままに考えることで、何だか思索が深まった気がしないでもない。
今後も適当に考えついたことを書いて、それを元にまた適当に考えて、あやしい文章を生成していけたらなと思う。俺はchat gptに負けない

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