世界の中心で「僕は変態です」と叫ぶ。
どうもこんにちは。
SHIKAです。
先日まで真面目に水の話を書いていたのですが今日は気分転換にお馬鹿な自論の話。
多分”賛否両論”あります。
むしろタイトルからして”賛”の意見がどれほどあるのかは疑問ですが・・。
それでは今日のテーマ。
はい。これです。
”変態紳士”なんて言葉がありましたがそれですね。
僕は”変態”です!なんていうと本当に変態の方に”お前程度の変態性で変態とか言ってんなよ”と怒られてしまいそうなのでそこまで強くは言えないのですが自分なりの考えを。
変態ほど他人に迷惑かけちゃいかん。
語弊のない言い方になおすと”変態”って要は”マイノリティ”だと思うんです。
すごく個性的というか。
社会的に少数派な人。
別にマイノリティな人が悪いって訳じゃないんだけどどうしても少数派って「アイツ変だよねー。」とかそういって他人に非難されたりすることも多いです。
場合によっては蔑まされるのも興奮すr・・・・
ドMって本当人に無害な変態ですよねー。(遠い目
本題に戻ります。
民主主義社会においては、”数”が力なのでどうしても多数派が力を持ちます。なので少数派である”変態”は非難をあびたりもします。
別になんら他人に迷惑をかけていなくても。ある時は自分の思い通りじゃないという理由だけで。
で、だから少数派の人達の中には奮起してデモ起こしたりする人もいるんだけど。それって逆効果だよね・・?って思うんです。
だって、わざわざ五月蠅く声をあげて、抗議して。そりゃ武力主義の時代ならそれでも良いかもだけどこの時代においてそれは意味ないでしょって思うんです。
じゃあどうするか?
”人の役に立とうぜ。”
って事なんです。
少数派の人ほど自分の存在で他人に迷惑かけてちゃ認めてもらえないよ。って思うんです。
以前地元の銭湯でサウナに入っていた時にタイ人の方とお話する機会がありました。
その方は日本に来てもう7年くらいになる日本ベテランの方で、カレー屋さんを経営されているオーナー。
その方はこういっていました。
「海外にでた人間は自分の国を背負ってると思わなきゃいけないよ。あなたの印象が、あなたと出会った人にとって自分の国の人間全ての印象になってしまうからね。」
僕は自分がカナダに行った経験もあいまってこの言葉が凄く印象に残っています。そしてカナダに移民してお世話になっていた方も同じような言葉をおっしゃられていたことを思い出しました。
「日本を出たからこそ、仲間であったり協調といった人の文化を大切にしなくちゃいけないと俺は思うんだよ。」
僕は同調圧力とか超苦手だし、協調性に関しては著しく低い人間なのでその時はその言葉の全てを素直に受け入れられきれませんでした。ですがこのタイの方のお話を聴いて改めてあの人が仰られていた事もおんなじ事なんだなと気付かされました。
つまり、一人の少数派が他人に迷惑をかける事でそのほかの同じジャンルに属す”仲間”までも同じ目で見られてしまうって話しなんです。特に誤解を受けやすいジャンルであればあるほど。
まぁかくいう僕もまったくもって聖人君子には程遠いので気付かずに他人を不快にしていることはあるかもしれませんが、少なくとも「気付く範囲では他人への不快感や迷惑。」に気を付けようと意識するようになりました。
だからって僕も自分勝手な人間なので人の為に尽くして”仲間の株をあげよう!”みたいな頑張りはあまりしません。自分が良いと思うレベル。自分がしたいと思うレベルでの取組でいいと思うんです。
例えば”自己犠牲”なんて絶対必要ないし、自分の思い通りに動かない他人を非難する「社交的すぎて逆に自分勝手すぎる人」とかもいるのでそういう人にはやんわりと断りといれるか、「無視」でいいと思います。
ただ、迷惑かけるとか攻撃するってのは絶対に違うと思うんです。
日本人は反骨精神が強い方も多いです。ロックです。かっこいいです。けど、だからこそ数の圧力に対して温和な態度で挑むという視野も必要なのかと思います。
「あの人変わってるけど悪い人じゃないし、むしろ結構いいとこあるよねー。」
僕はそう言われる少数派が増えればいいなと思います。
個性の認められる社会。それは他人へのほんのちょっとの気遣いで成立するものなのかもしれません。
あとは世の中多数派に属している人も場所が変われば自分も”変態”という自覚はない人も多いです。”変態”なんてその環境における
”少数派”か”多数派”かの言いかえに過ぎないんです。
だから最後にこの言葉でまとめたいと思います。
人類皆等しく変態\(^o^)/
それでは皆さま、今日も自然体で自由かつ豊かな暮らしを。
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