1

黒崎です。どこかで配信者っぽいことやってます。

現実でギリありそうな苗字で活動を行うことによって黒歴史の軽減化を計ろうと思っていたけれど、どうやら浅はかな考えだったようで。
黒崎としての1年と少し、未だに俺の黒歴史は暗さを増して世を侵食し続けている。
誰か止めてくれ。

別に書くことなど何も無いが、今日は記念すべき初回という事で、この名義の真骨頂、配信者としてのあれやこれやでも書き連ねてみようと思う。

世の中には配信者たるもの、という格言のようなものが出回っているが、俺に言わせりゃそんなものはクソである。配信者の数だけスタイルがあるのだ。そんなことを言うやつはきっと、学生時代、先生がいつまで経ってもこないあの時間に喜び勇んで職員室へ行くタイプだったに違いない。そういう奴とは昔からウマが合わない俺はSNSでもすぐさまミュートしがちだ。ブロックじゃないだけまだ可愛げがあるというもんである。


閑話休題


前述はさておき、この平均寿命がセミより短い配信者という界隈でそこそこ長い(かもしれない)俺が思うやらない方がいいこと、というものはやはりそれなりに存在する。今日はそれについて2つか3つほど述べていこう。なにせ書くことがない。こちとら文字数を埋めるのに必死である。許せ。

まず1つ目に気を付けることは異性の配信者と極端に仲良くしない、という事である。

これを読む君が配信者なのか視聴者なのか、はたまた男性か女性かそれ以外かなどとは知りようがないが、一先ず想像してみてほしい。

自分が好きで通っている配信者のプロフィール欄にいつの間にか見慣れぬファンマークがついているところを。その配信者のギフト上位欄に好きな配信者が名を連ねているところを。自分のギフトが横流しされているようなもんだ。
ほら見ろ。貴様のリスナーが草葉の陰で泣いてるぞ。おまえこの時期に人間の恨みを買って夢見が悪くても嘆く権利なんかないからな。配信という性質上異性のリスナーが付きやすいのは言うまでもないが、特別な感情がなくともそんなことをされれば面白くないだろう。匂わせをして許されるのはキティ様ぐらいである。人間に許されるわけが無かろう。恥を知れ。

2つ目は極力病みツイートをしない、ということである。と言っても、配信者をやっていく上で不満なことは沢山あるだろうし、TwitterもといXという気軽にみんなに見てもらう手段が手元にあればついつい手が伸びることだろう。なんなら俺もある。めちゃくちゃある。闇の黒崎という異名を舐めないでほしい。
とにかく、俺が言いたいのは病みツイの質に気をつけろということだ。見極めができないならば投稿をしない方がいい。そういう意味での病み投稿をしない、である。

具体的な例をあげるとしようか。

君が配信者であると仮定して、何かしらイベントに出たとしよう。幾人かのリスナーが配信に来てポイントを投げてくれたが、全く目標に届かず勝つことが出来なかった。その時君は何を思うだろうか。
君の同期は沢山のリスナーがいて、自分とは比べ物にならないほど投げられているかもしれない。自動フォローがついて自分の数字など軽々飛び越えているかもしれないな。一生懸命やればやる程悔しく辛い気持ちになるだろう。慰めすらも惨めに感じるかもしれない。もしその慰めた人間が他の配信者の枠のトップリスナーだったとしたら?
そりゃもう傑作だ。いっそのことなんかそういう小説でも書きたくなっちゃうもんである。
こんな自分が恥ずかしい?もう消えたい?
その時の君は確実に可哀想な人間だろう。
そんな可哀想な君がファン鯖なりSNSなりで自分の苦悩を打ち明けるとする。そりゃもう思う存分書いていい。そんだけ辛いんだとわかって貰えるだけで多少なりとも気持ちが軽くなるならば。
病みを出すなという人間は山ほどいるだろうが、生憎俺はわかってしまう側の人間である。このnoteの中でぐらいは肯定させて欲しい。

ただ、そんな中でも決してやってはいけないことが1つある。
それは来てくれた・投げてくれた人間に責任転嫁をしないということ。これは肝に銘じてほしい。人間という生き物はモヤモヤとした気持ちを手短な人間にぶつけがちな憐れな生き物である。やりたいならやってもいいが、貴重な視聴者を失うことになりかねない。配信者を続けていくのならば、絶対にやるべきでは無いし、何より君に価値を見いだしてくれた人間自体を否定することになりかねない。タダでさえ自分は無価値なんだと感じやすいのに更に闇へと突っ込んでどうする。お父さんそんなの許しませんよ。

君がどうして配信者をしているのか(していないかもしれないが)理由は知らないけれど、鬱屈とした感情は人間として深みが出る。その悔しさによって君はより輝くのだ。宝石は確かに美しく価値があるものかもしれないが、まだ何の石になるかわからない原石である君は無数の可能性を秘めている。仮に生まれるのが端金にしかならない石ころだろうと、そこらの小学生にとっては学校帰りの石蹴りの石になれる君はヒーローである。
自分の価値を特定の人間によって決定される謂れはないし、自分に新たな価値を見出してくれるのは未だ見ぬ視聴者かもしれないのだ。闇というのは光と対になっている。君が配信者としてもがき苦しむ程に、希望の光は優しく降り注ぐことだろう。

ものすごく眠くなってきた。また今度続きをいい感じに書くから許してほしい。
俺は思いついたその時に書かないとあまり書けない人間らしい。困ったもんである。書くのがイヤになるその日まで、思いつくまま細々と更新するかもしれないししないかもしれないが、そのぐらいの適当さがいいのだ、きっと。

じゃあまた今度。

いいなと思ったら応援しよう!