匿名の世界で匿名であり続けようと思っている。
以前は匿名の世界なのに顔さえも出して名前も分かるようなやり方をしていた。
それは欧米のインターネットでは割と普通のことだったが、日本ではあまりなかったし、結局今のあたしにはなじまない。なぜなら知人の一部には少なくともあまり知られたくないこと、とくに「ヤマヒ」のことを書くからだ。
それでもなにかの拍子にばれてしまうことはあるだろう。なぜなら、私は匿名になれていないから。
ヤマヒを美化するつもりはないが、せめて架空の世界で、文章の中では謎めいた薄絹に包んでやってもいいではないか。実際には暗く重く痛い「それ」を。
私がずっと前に好んで読んでいたウルフの「ある作家の日記」を手に入れた。いや、手に入れる手筈が整ったというべきか。図書館で読んで気に入って何度も借りていたが、いつか当時のパートナーが購入して、そうなるとなんとなく自分で買うのもはばかられて(なぜか同じ本が同じ家に二冊というのは背徳感が強い)、読むことも遠ざかっていた。
ウルフは映画などでも最近は知られているように、心を病んでやがて自宅の近くを流れる川に入水して人生を終える。「ある作家の日記」ではそんな彼女の不安や作家活動での高揚、焦燥と絶望、夫レナード(本の編者でもある)への愛と葛藤をたっぷり紙面を割いて描かれている。もちろん底本は(というか全編)彼女自身の日記だからそのプライベートな文章を「作品」と呼んでいいのかは倫理観が問われるところだが、ウルフ自身が絶大な信頼を寄せていた出版編集者レナードによる編集であれば、「作品」となって世に出てもなんの不思議もない。
あたしはこの本を何度も何度も読んだ。ウルフの表現は言葉はとても具体的なのに読むと手からふと滑り落ちる。つかみようのない霧のような彼女の文章を、意味の分からないまま自分を重ね、あるいは自分をその世界に紛れ込ませて読んでいた。あるときはロンドンのブルームズベリーに。あるときは片田舎に。彼女のたくましく冷徹な視点が自身をも貫くのを、じっと見るのが好きだった。
ウルフと交流があり、私が好きなもう一人の作家、メイ・サートンがウルフのことを「とても暖かいのに、驚くほど冷たい印象を与える人」というように評していた(どの本だったか、正確な表現ではない)。とにかく、ウルフのことを崇拝者といっていいくらい尊敬していたサートンがそんな表現を淡々としたことに驚いたのを覚えている。作家というのはどんな相手に対しても冷静な視点を持っているのだなと。サートンが詩人であったことも同時に影響していたかもしれない。
ネット上に存在するだれでもないあたしのささやかなつぶやきは、匿名のままでだれかに読まれて、だれかの心に小さな点を残せたら、それでいい。願わくば、だれも気づきませんように。