日本史:飛鳥時代 ③ 「遠征」
通訳案内士の試験勉強のための、まとめノートです。
7世紀後半、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって全国統治の基盤が整備されていきました。女帝、斉明天皇による蝦夷討伐や、朝鮮半島での白村江の戦いなど、船団を伴った組織的な戦い行われるようになりました。
654年 孝徳天皇が崩御。乙巳の変のおりに皇位を引いた、女帝である皇極天皇が再び天皇の位につき、「斉明」天皇となりました。
658年 越国守であった「阿倍比羅夫」は、三度にわたって船団200隻あまりを伴って日本海側を北上し、現在の秋田、能代、津軽を拠点とする蝦夷を服属させました。また、北方民族の粛慎(詳細不明)を平定して、北海道の後方羊蹄(場所は不明)というところに政所を置き郡領を任命したとされている。
660年 中大兄皇子が日本で初めて「漏刻」(水時計)を作ったとされています。1972年、奈良県明日香村で、この時代の漏刻跡とされる遺跡「飛鳥水落遺跡」が発見されました。この遺跡は国の史跡に指定されています。
660年 唐が朝鮮の支配を狙っており、朝鮮半島では3国が鼎立していました。百済の政治が弱体化しているのを好機と見て、「唐、新羅」の連合軍が「百済」を攻め滅ぼしたのです。
百済の遺臣達は再興を目指し、倭国に滞在していた百済王の太子、豊璋王を擁立しようと倭国に救援を要請しました。 これを受けた「斉明」天皇は、朝鮮半島への出兵を決断。天皇自ら遠征をしたが、筑紫の朝倉宮にて病のため崩御しました。中大兄皇子は、この戦いを引き継ぎ、総勢5万人の軍を派遣して、豊璋王を百済に帰還させた。
663年 唐・新羅軍との「白村江」での戦いで大敗を喫し朝鮮から兵を引き上げました。その後、朝鮮半島では、唐により高句麗が滅亡。また、友好国であった新羅が唐に反旗を翻し、675年に半島を統一しました。
こぼれ話 ①
昭和天皇は戦後間もない頃、白村江の戦いのことを例に取り、戦後復興のため国民を励まされた。「日本は、昔、白村江の一戦で負けたことがあり、半島から兵をひいた。その後さまざまな改革が行われ、日本の文化の発展に大きな転機となった。このことを考えると、今の日本の進むべき道も自らわかると思う。」という主旨のお言葉を述べられたという。
朝鮮での敗北により、唐による脅威を抱えることになりました。そのため、九州北部に防衛施設を築きました。筑紫に大宰府を守るように、「大野城」や「水城」を、対馬には「金田」城を建設しました。それに加えて、対馬、壱岐島、筑紫国に「防人」を、情報伝達のための烽を配置しました。朝鮮での戦いに参加していた、蝦夷討伐で活躍した阿倍比羅夫は、防衛の要として太宰府長官である筑紫大宰帥に任命されています。
667年 中大兄皇子は都を近江大津へ移し、翌年、第38代「天智」天皇として即位した。この遷都の理由には、いくつか説はあるが、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。
669年 中臣鎌足は落馬後に病床に伏せていた。天智天皇は、鎌足に「大織冠」(冠位の最上位)を授けられ、内大臣に任命し、「藤原」の姓を授けた。鎌足はその翌日に亡くなりました。
鎌足は、奈良県の多武峯の「談山」神社に祀られています。645年、中大兄皇子と中臣鎌足が、乙巳の変の前に、この多武峰の山中で談合を行ったことから、 この山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
こぼれ話 ②
1934年、大阪府茨木市の「阿武山」古墳でミイラ化した人骨が発見されました。人骨のX線調査から、この男性は腰椎などを骨折して、その後、合併症で死亡したとの調査結果がでました。これは、鎌足が落馬によって死亡したという日本書紀の記述と一致します。 また、副葬品として、金糸を織り込んだ高貴な人がかぶる冠帽があり、天智天皇から贈られた冠でないかと想像でき、この墓は鎌足のものではないかと言われています。
こぼれ話 ③
歴史上、大織冠を授けられたのは、藤原鎌足だけだとされています。そのため、大織冠といえば、鎌足を指す言葉となりました。大阪府茨木市にある大織冠神社は、鎌足を祀った神社であり、幸若舞(室町時代に流行した曲舞)の人気の演目、大織冠は、鎌足と海女の物語。また、その物語を描いた、江戸時代の大織冠屏風などがあります。
幸若舞は、信長が好んで舞ったという演目「敦盛」が有名です。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」
670年 天智天皇の命によってという全国的な戸籍制度「庚午年籍」がつくられました。氏姓、班田収授のための基本台帳としてつくられたとされ、永久保存
することが定められている。現存しているものは発見されていません。
671年 大津宮に漏尅を設置し、日本において初めての時報として、時を知らせるための鐘鼓が鳴らされました。1920年、日本国民に「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」、この鐘を最初に打った日、「6月10日」を時の記念日として制定しました。天智天皇を祀っている近江神宮では、毎年、この日に漏刻祭を執り行っています。
672年 天智天皇は近江大津宮で崩御しました。
こぼれ話 ④
天智天皇の歌は、鎌倉時代に「藤原定家」が選者とされている小倉百人一首の中に収められています。
「秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつ」
秋の田のそばにある仮小屋の、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてしまった
こぼれ話 ⑤
万葉集で有名な、「額田王」は万葉集が成立した奈良時代ではなく、この飛鳥時代の人です。大海人皇子に嫁ぎ十市皇女を生むみました。その後、大海人皇子のもとを去り、その兄である天智天皇の後宮に入ったとされています。
額田王の代表的な歌:
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな」
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
額田王の容姿などを示したものは残っていませんが、絶世の美女だったという説が根強くあります。切手にもなった「安田靫彦」の日本画「飛鳥の春の額田王」がその容姿を彷彿とさせるものです。