見出し画像

怒りと日常と家事

沸々と込み上げてくる、扱いきれない、表にでてしまう感情は怒りだ。

私がどんな感情に巻き込まれて、取り込まれていても、日常は担々と続く。

とにかくごはんを作り、ごはんを食べながらパソコンを開き、少し疲れて横になる。

子どもの下手っぴなピアノは、不思議と嫌な感じはしない。それよりも、大人なのになぜこんなに気持ちが整理できずにイライラしてるのか、自分自身にただただ怒りを感じている。

怒りにまかせて、ゲームする。ゲームに負けたら、家事に徹する。食洗機に皿を投げ込み、カレーの鍋を洗って、お茶を作ってついでにアイスコーヒーも仕込んでおく。テーブルを拭き、洗濯物を畳む。

いつもの私は子どものごはんを作ったところで力尽きて寝てしまう。そのあとは妻に任せてる。

だから、私ができるのは、早く帰って献立を考えてごはん作るだけだ。

カレーの鍋に洗い残しがあって妻に指摘された。カレーの残りを食べてほしかったのにカップ麺が食べたいと言い出す娘。何回出せと言っても出さない水筒。

ああ、いろいろなものは、放っておいてもなんとかなる。放っておいても、かまわないし、ゲームで気を紛らわせればいいのに、ただただ怒りが収まらない。

人に、いろいろな感情があるのは、きっとバランスよくでこぼこな道を歩くための緩衝材なのだと思う。怒りも、それがあることで、やり切れることがある。悲しいことも、寂しいことも、恨んで、憎むことも全部、それがないと人生やっていけない。

得点を取られて取り返すゲーム、出会ってまた別れてを繰り返す人生。目まぐるしく動く時間と担々と流れる時間は同じ世界に流れているけれど、同じ世界で感情はそのまま残って、日常の流れる時間になだれ込む。簡単に気持ちは切り替わらない。

私はだんだん老いている。気持ちの起伏はいずれ、なだらかになる。なだらかになるまではイライラとは付き合い続ける。なにもかも嫌でだめだと思う日もすべて過去になる。

時間の流れは変わらない。変わっていくのは私たちで、昨日と今日の私は考えてることも意見も、行動も違う。皆いつまでも同じではないから、自分自身も同じではないと思って、うまく付き合っていく。


読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。