フィルターに残ったもの
フィルターは、不純物を取り除き、エッセンスだけを取り出すものだ。
世の中の情報はすっかり溢れかえっていて、到底、人の脳の中で処理できる量を超えている。だから、それらにフィルターをかけることは誰しもが意識的にも無意識のうちにもやっている。
好きな情報だけ届くように、設定する。好きな人だけフォローする。好きなサイトだけを見る、探す。
理屈の上では、うまくフィルタリングすればするほどより質の高い情報ばかりが手に入り、余計なものは見なくて済むはずだ。
でも、どんなにフィルターをかけていても、それをすり抜けてくる不純物はあるし、ときには本当に価値のあるものがフィルターに残ったままになっているかもしれない。
情報の価値も、そのときの自分の関心、興味、前後の経験や環境によって変わってくる。
取るに足らない些細なものや、必要ないと思っていたつまらないものから、すごく大切なものを学ぶこともある。自分のフィルターはあてにならないことも多い。
「フィルタリング」というのは、たくさんの情報を処理するうえで、欠かせない技術であるのは間違いなくて、それがないと頭のなかが整理されず、パンクしてしまう。一方で、本当にそのフィルターは正しく機能しているのか、もしかして大事なものまでフィルターに残っていないか、ときどき確認する必要がある。
フィルターのなかに残ったものを時々覗いてみるのは、意識的にやらないとできない。フィルタリングは無意識のうちにできるけれど、そのフィルターを「疑う」というのは、能動的な作業だ。そもそも、フィルターを意識していないとできないし、疑ってみることもなかなか時間がかかる作業だと思う。
ときどき、自分のフィルターについてだれかと話をしてみるといいかもしれない。皆がもっているフィルターを意識して、それぞれの世界の捉え方、見聞きするやり方を、互いに話し合う。自分のフィルターが少しずれていたり、新しいやり方がみつかったり、いろんな発見があるはずだ。
あるいは、本を読む。まったく興味のない、脈絡のない本を手に取ってみる。図書館の書架を歩くだけでもいい。本のタイトルだけでも、なぞってみると、いろんな人の見ている世界が感じ取れる。なにかに精通した、ある分野の得意を突き詰めた人が、だいたい本を書いているから。
このnoteだったり、誰かの日記を読むのもいい。だれかの日常はだいたいフィルターを通して見たものでできているから。フィルターを通して書かれたものから、その人のフィルターを感じてみる。
情報を選んで、「好き」だけを集めることが簡単にできるからこそ、そのフィルターを意識するようにしていたい、と思う。変わっていく自分の感覚にも、苦手なものを避けている感覚にも、時々目を向けながら。
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