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私が安楽死に反対する理由・補遺

以前、「安楽死について反対な理由」を書いたことがある。この言葉で検索をする人が多いようで、今でもよく読まれているし、ときどき心無いリプライも飛んでくる。

ここで書いている理由は主に3つで、今も考えは変わらない。

・今の日本で「安楽死」を認めると、死の「強要」が必ず起きる
・もっと生きやすくなる「ほかの権利」が先に認められるべき
・今日「死にたい」と思っても、明日は「死にたくない」かもしれない

よく飛んでくる批判は、「いまがつらいんだから、生きやすい権利なんて待っていられない」、あるいは、「滑りやすい坂なんてないし論理の飛躍だ」というもの。それに対する答えになっていないかもしれないが、私は少なくとも今の日本では悲観的な見方しかできない。

オランダ、ベルギー、カナダなどで安楽死が認められていることは知っている。たしかに、オランダでは安楽死は認められ、全死亡者の4.4%が安楽死という(2017年)。

一方で、法律では、厳格に生命終結の際の『注意深さの要件』が定められている。

・医師が、「生命終結または自死介助への」患者の要請が自発的で熟慮されたものであることを確信していること
・医師が、患者の苦痛が永続的かつ耐え難いものであると確信していること
・医師が、患者の病状及び予後について、患者に情報提供していること
・医師及び患者が、患者の病状の合理的な解決策が他にないことを確信していること
・医師が、少なくとももう一人の独立した医師と相談(セカンドオピニオン)し、その医師が診断の上、書面による意見を述べていること
・医師が、注意深く生命終結を行うか、自死を介助すること

では、同じようなルールを日本でも定めれば、安楽死を容認しても良いのだろうか。

残念ながら、私はそこまで日本の政治や医療を信頼していない。

最初は厳格に定められた法律ができあがり、徐々に規制が緩和されていく、というのは、ほかの法律でも同様に行われてきた。
隠ぺいや改ざんが日常的に行われる政治体制のなかで、同じように縦割り型の医療機関が同じことをしないと言い切れるだろうか。
患者の家族と医師が無理やり患者に意思決定を迫ることはないだろうか。自分の介護をさせられる家族への忖度から、望まない死を自発的に選んでしまうことはないだろうか。

そして「安楽死」という選択肢もあるのに、それでも高度な医療を受けながら生き続ける選択をした高齢者に対し、冷たい視線が浴びせられることはないだろうか。そうした空気に耐えながら生きていくことの辛さは、自発的な死の選択を誘発しないだろうか。これが「滑りやすい坂」である。
残念ながら、日本はそこまで成熟した社会になっていない。あるいは、どこかで壊れてしまったのだと思う。

日本にこうした弱者切り捨ての土壌があることを懸念します。

という「はる」さんのnoteに共感する。

安楽死の法制化は、個人に尊厳のある「死ぬ権利」を与えるものではなく、「死」というカードを選ばせてしまう強制力になり得るということだ。

結局のところ「死にたい」と思う気持ちが本当に正しいものか、なんて誰にも分からないし、当人も分からないんじゃないだろうか。
仮に書面で安楽死を望む旨を記載していても、いざその時が来たら、気が変わっていることもあるかもしれない。その時に既に認知がままならなくて正常に判断ができなかったとして、過去の自分の「正しい」判断が、今の自分を殺してしまうのだろうか。書面は常に過去の自分の残したものだ。
自分は常に変わりゆくもので、医療の進歩も変わりゆく。明日のことは分からないし、「死」に対していつ正しい判断ができるのか、なんてことも分からないから。

同時に、私は反対する理由を述べるけれど、賛成する人の言葉を殺したくはない。安楽死に賛成する人の多くが死を軽んじているわけでも、それを助長しているわけでもないし、それを望んでいる人がどうしようもなく生きるのが辛いのは確かなのだ。
ただ、強い立場にいる人が述べる賛成論は疑ってかかりたい。弱者に寄り添ったふりをして蹴落とそうとしていないだろうか、その賛成論は誰のためのものなのか、と。議論を都合のいい方向に持っていくことも、安易な結論へと扇動することも、決して許さない。

参考文献



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yukiota
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