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弱さを守るための「ただしさ」

「ただしさ」は、ときどき厳しいし、疲れる。「ただしく」あろうとするには、いろんなひとへの配慮が必要で、まじめで、ズルしちゃいけないような気がする。でも、そんな「いい子」でいることが「ただしさ」なんだろうか、というとちょっと違和感がある。

この本は特段、読むのに全くおすすめはしない。朝井リョウの小説『正欲』の主人公が書いたような文章で、「多様性」「ポリティカルコネクトネス」に批判的で誤解に満ちている。特別、社会の闇を書いているわけでもない、みんな知ってるありふれたニュースを穿った見方で綴られている。統計的な根拠もない。ただ、毒饅頭を食らうような気持ちで読んで、やっぱり否定したい気持ちで、この文章を書いている。

この人の言う「ただしさ」は、とてもわかりやすい「ものさし」なのだと思う。実際には、何が良くて、何が悪いか、なんて単純に決められないし、とても複雑だ。流行りの漫画でも、もはや単純に悪い人、悪役を描くことはしない。誰でも、だれかを恨み、妬み、鬼のようになる弱さを持っているし、大小あれど、そういう罪を抱えて生きている。単純な物語を信じて「多様性」や「人権」にかかわる運動や活動をしている人は少ない。

「多様性」や「人権」「自由」といった社会的な規範が、人の行動を制限して、抑圧している、と感じているなら、それはたぶん間違った理解をしている。ポリティカルコネクトネスがだれかをたたくためのもの、と思っているのなら、それも間違いだ。

それらは、だれかを守るためのものであって、戦うための武器じゃない。自分の持っている「強さ」「弱さ」を理解し、生きづらさを解消するためのもので、生きづらさや困りごとを抱える人を守り、助けるためのものだ。

「多様性」をうたいながら、本当は画一的な社会のほうが強いのではないか、本当は誰かを排除しているんじゃないか、と著者は疑っている。
「多様性を認めない人」を多様性はどうとらえるのか。答えはそんなに難しいものじゃない。いままで、一つしか選べなかったものが、二つ選んでもいい、三つ選んでもいい、そういうふうに変わるだけだ。多様性を認めない人の一つを奪うわけではないし、それまで選べなかった人が選べるようになる。それでも、「人はなにか一つだけを選ぶべきで多様な選択肢は必要ない。そういう風に生きていくべきだ」というのならば、私たちは、選べない人の立場を尊重し、選ぶ自由を守る必要がある。そのために、「いい子」であることを捨てることもある。

「弱さ」を抱える人は、世の中は単純じゃないことも、もっと複雑なことも理解していて、日々いろんな敵意をずっと敏感に肌で感じているはずだ。日々、大変な思いをして生きているのはみんな同じかもしれない。いつも正しくいる必要はないし、だれでも簡単に間違えてしまう。間違えていい、許されていい。でも大変な思いをしているのは自分だけじゃないし、一人でなにかを変えるよりも、社会がもっと多様に、自由になったほうが楽じゃないだろうか。

障害は社会のがわにある、という考え方は、個人が行うべきことを社会がやるべきだ、といったような社会に責任を押し付ける考えではない。マジョリティが作ってきた「ただしさ」に殺されないために、個人ではどうにもならないことを社会のがわで解決していくための考え方だ。

「ただしさ」に殺されないために、本当に必要なことはなんだろうか。「ただしさ」は厳しく、簡単には守られない。息苦しいだけの「ただしさ」は疲れる。だからそうじゃない新しい「ただしさ」を社会に求めている。複雑で分かりにくいことを単純化しない、答えやものさしが一つじゃない「ただしさ」を。

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