お互いに迷惑をかける社会で
「ご迷惑をおかけしますが」って、何度も何度も仕事で繰り返し使っている。調子が悪いのでお休みします。子どものお迎えで早退します。忙しいのはわかっているけれど、判断をしてほしいです。そのたびに使う「ご迷惑をおかけしますが」はその言葉よりもずっと軽く使っているかもしれない。
でも、迷惑をかけずに生きていくことなんてできない。なるべく迷惑をかけないように、慎重に、周りを伺いながら、生きていくのも、なんだか窮屈だ。ひとに迷惑をかけるな、自分勝手なことをするな、そんなふうにずっと子どもの頃からたたきこまれてきて、おとなになっても、迷惑をかけていないか、気にしてしまう。こうした「迷惑」は罪悪感をともなって、申し訳無さにつながる。
誰にも迷惑をかけずに生きていくのは難しい。距離をとっても、近づいても、どちらも迷惑になることもあるし、相手に煩わしい思いをさせたら、自分も嫌な思いをする。私は、誰かに迷惑なことをされたら、やっぱりちょっと嫌な気になるかもしれない。
自分が迷惑なことをされたくないから、誰かに迷惑をかけたくない、というのも、とても利己的な考えだ。「迷惑をかけるな」とは「迷惑をかけてくるな」と同じだ。それは、つながりを断絶するような強い言葉に思える。
迷惑をかけてもいい、お互い様。そんなふうに相互作用のある社会のほうがしなやかで、強い。お互いに迷惑をかけるけれど、そのぶん助け合える。迷惑をかけたぶんだけ、今度は自分が助ける、と思える。相手のわがままを聞いたぶん、今度は自分もわがままを言う。お互いに我慢して無理しているよりも、無理なときは迷惑をかけてもいいし、ときどきわがままになってもいい。もし、社会のどこかに寛容さが必要だとしたら、そういう無理しない優しい関係性が生まれる場所であってほしい。迷惑は悪いことばかりじゃない。そこから、強いつながりが生まれることも、きっとあるはずだから。