自分と世界との距離感を見つめる。
昨日の記事で、今LAに帰っていることを書かせてもらいました。
最近、常に考えるのは「距離感」について。
アメリカでは「social distancing」という言葉が浸透し、誰もが「人と会わない」ことを実践している。でもここで言う距離感は、フィジカルな距離ではなく、心の中の「距離」。「ギャップ」という捉え方もできるかもしれません。
私はこのギャップをわりと自然のこととして捉えています。
日本にいると、よく「日本と世界の考え方にギャップがある」と聞いたりします。でも「自分の世界」をはじめに考えるのは当然で。
例えば赤羽に住む弟にとって、どんなに地元のLAを愛していても、LAでトイレットペーパーが手に入ろうが売り切れようが物理的には関係がない。それよりは自分がトイレットペーパーを確保することだし、今後どうしていこうと考えることが一番だ。アメリカにいる私たちも、弟には「今はとにかく日本の情報を入れて」と促す。
ミレニアル世代の弟は家にテレビがないため、普段はNetflixとYouTubeを観て、アメリカのNPRなどのニュースポッドキャストを聴き、アメリカの大統領選を追ったり、最近ではLAレイカーズのコービー・ブライアントの死など、リアルタイムでインプットしている。
使い慣れない日本語を話しながら生活するだけでも脳が疲れるので、職場である小学校を離れたら、できるだけ母国語の英語を聞き、見て、頭をリラックスさせたい気持ちはわかる。会ってご飯を食べたりすると、爆発したように英語でまくし立てる(ふたりとも)。
私の場合は夫が日本人で、ふたりともテレビの仕事をしているのでテレビはよく見るし、日本語の本を読みまくったり、SNSやnoteをウォッチしたり、こうして微妙な日本語で書こうとしてみたり、日本のクライアントさんとの日々のやりとりなど、日本語での生活にはだいぶ慣れてきました。それでもひとりの時間は英語のポッドキャストを聴き、Spotifyで洋楽を聴き、英語の本を読みホッとしている。
自分が安心できる情報、正しい判断をするために必要な情報を集める、そこをしっかりと見つめていくのを何より優先する。それは正しいことだと思います。
私も「アメリカでは今」という言い方をしがちだけれど、正確に言えば「NYでは」と「LAでは」でも違うし、「トランプ支持者のアメリカでは」全くと言っていいほど見ている景色が違う。目や耳に入れている情報が違う。
日本と海外にギャップがある前に、アメリカの、同じ街の、同じ市の、同じ通りの、同じ家の、同じ家族でもギャップは生じるので、「みんな自分のことも世界のこともしっかり見て」と頼むのは難しいですよね。
私もいつこのnoteが「こいつ全然わかってない」と思わせてしまう文章になっていくか、不安はありますが...もうしばらくは書き続けてみたいと思います。
何より私が繋がっていたいから、という100%自分勝手な理由からです。
今日も読んでくださりありがとうございます。