【プラネタリーヘルス①】プラネタリーヘルスとは何か?
近年、気候変動や環境問題に関する議論が世界的に活発化しています。しかし、海面上昇や温暖化といった問題が、私たち一人ひとりに具体的にどのような影響を及ぼすのか、明確に示される機会はそれほど多くありません。多くの場合、「地球に住めなくなる」といった抽象的な表現が用いられ、その結果、「遠い未来の話」として捉えられてしまうことが少なくないのです。
このような状況では、環境問題に熱心な活動家や市民と、それに無関心または関心の薄い市民との間に深い溝が生じ、感情的な議論が繰り返されることが多々あります。この溝を埋めるためには、私たち全員が共有できる「現実的かつ具体的な危機感」を持つ必要があります。
そこで注目されるのが、プラネタリーヘルス(Planetary Health)という概念です。プラネタリーヘルスは、著名な医学誌であるLANCETが2015年に取り上げたことによって注目された概念であり、学術研究分野です。
プラネタリーヘルスは、環境問題を「人間の健康」に焦点を当てて捉えることで、地球環境と人間の健康が密接に結びついていることを前提に、具体的な健康リスクを解明していく学問分野です。環境の変化が人間の健康にどのような影響を与えるのか、具体的なリスクを理解することで、環境問題がより「自分ごと」として認識されるのです。
プラネタリーヘルスの定義
プラネタリーヘルスとは、人類の健康が地球全体の環境と生態系の健全性に依存しているという考え方に基づいた学問領域です。気候変動や生物多様性の喪失、大気・水質汚染など、地球規模で起こる環境変化が人々の健康にどのような影響を及ぼすかを探求します。
この視点から見ると、環境問題は単に地球や自然を守るだけではなく、私たち自身や家族・子孫の生存や健康な生活、生活の質にも直結する問題であると捉えることができます。
主な研究領域
プラネタリーヘルスは、以下の領域を主要な研究対象としています。
気候変動と健康
地球温暖化による気温上昇や異常気象が、熱中症、感染症の拡大、栄養不良、精神的ストレスなど、人間の健康にどのような影響を与えるかを調査しています。例えば、蚊が媒介するデング熱やマラリアなどの感染症が、温暖化によって地域的に拡大するリスクが高まっています。
その他にも、生態系の変化や海流等の変化による生物の生息域の変化が栄養素の偏りをもたらしたり、災害被害が拡大したりと、様々な健康リスクが想起される分野です。
生物多様性の喪失
森林破壊や生態系の乱れが、食糧供給に与える影響や、新興感染症の発生リスクにつながり得ます。森林伐採により野生動物と人間の接触機会が増え、新しいウイルスが人間社会に拡散する可能性が高まります。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)も、その一例として挙げることができます。
環境汚染と公衆衛生
大気汚染や水質汚染が、呼吸器疾患、心血管疾患、癌などの病気を引き起こし、特に子供や高齢者に深刻な影響を与え得ることが指摘されています。世界保健機関(WHO)によれば、大気汚染は年間約700万人の早期死亡の原因となっています。
また、マイクロプラスチックやPFASによる水質・土壌汚染の問題も無視できない問題となっています。これらの健康リスクに関する疫学研究はまだ十分な数が積み上がっていませんが、動向を注視するべき問題であることに変わりはありません。
プラネタリーヘルス・ダイエット
プラネタリーヘルス・ダイエットは、地球の環境負荷を抑えつつ、人々の健康を最適化する食事法です。ハーバード大学の研究者らが参加した「EAT-Lancet委員会」によって提唱され、植物性食品を中心に、動物性食品の摂取を減らすことが推奨されています。これにより、栄養不足や肥満といった健康問題を改善し、同時に農業による温室効果ガスの排出や水資源の過剰利用を抑制することが期待されています。
この食事法の効果に関しては、2024年に入って研究成果が公表されつつあるので、こちらも動向に要注目の分野です。
都市計画とプラネタリーヘルス
都市化が進む中、都市計画は人々の健康と環境に大きな影響を与えます。緑地や公園などの自然環境の整備は、空気質の改善や気温の調節だけでなく、住民のメンタルヘルスや社会的なつながりの向上にも寄与します。歩行者や自転車に優しい街づくりは、交通渋滞や大気汚染を減少させ、身体活動を促進します。
最近は緑化推進法や企業・アカデミアがコラボした実証研究も進められており、ビジネスサイドからの関心も高い分野といえます。
気候変動と人権
気候変動は人権問題とも深く関わっています。海面上昇や異常気象により、住む場所を失う気候難民が増加しています。これに伴い、生活基盤の喪失や健康被害、社会的不安が生じています。また、政府や企業に対して気候変動への対策を求める気候変動訴訟も増加しており、環境保護と人権保護の観点から法的な責任が問われています。
そのため、単なる環境×パブリックヘルスの枠に留まらず、法律や安全保障、国際政治とも関連性が高い分野といえます。
メンタルヘルスと環境
自然環境の変化や破壊が、精神的な健康にも影響を及ぼします。気候変動による災害の増加や生態系の喪失は、不安、うつ病、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などのリスクを高めます。また、都市部での緑地の減少は、ストレスや社会的孤立を招く要因となります。一方で、自然との触れ合いが精神的な健康を促進する効果も研究されています。
こうした研究結果からもわかるように、メンタルヘルスの問題は他のカテゴリーと重なる部分も大きいですが、近年メンタルヘルスを巡る問題は日本のみならず世界的にも大きな問題であることから、独立したカテゴリーとして取り上げる意義は大きいと考えます。
プラネタリーヘルスの重要性
プラネタリーヘルスが重要視される理由は、環境問題が抽象的な未来の問題として捉えられがちであり、具体的な危機感を持ちにくいからです。特に、2023年から2024年にかけての年平均気温がこれまでの記録を大幅に上回っている現状は、多くの専門家が「ティッピングポイント(tipping point)」を超えつつある、もしくはすでに超えてしまったと指摘する要因となっています。この転換点を超えると、環境悪化が加速度的に進行し、もはや元に戻せない状況に陥る可能性があります。
こうした現実を踏まえたとき、たとえ「人間中心的」であると批判されることがあっても、環境問題を私たち自身の健康や生活に密接に結びつけて捉えることが、より多くの人々に共感と行動を促すための効果的なアプローチではないでしょうか。
環境問題は、一部の感度の高い人々だけの問題ではありません。社会全体がこの問題に対して現実的な危機感を共有し、積極的に行動しなければ、解決はますます遠のいてしまいます。特に、環境問題の影響はすでに私たちの生活に現れており、熱波や豪雨、干ばつなどの異常気象が各地で頻発しています。これらは農作物の不作やインフラの破壊を引き起こし、経済的損失や健康被害をもたらしています。
プラネタリーヘルスが提供する新たな視点
環境問題を「自分ごと」として捉える視点の提供
プラネタリーヘルスは、環境問題を「自分ごと」として捉えるための有効なアプローチです。具体的な健康被害や生活への影響を理解することで、個々人が抱く危機感や切迫感が高まり、日常生活での行動変容につながります。
また、様々な思想を持つ人々に対し環境問題に関する危機意識を喚起できる概念だと感じています。環境問題に対して、温暖化懐疑派など様々な思想があると思いますが、現在の環境問題が短期的(あるいは中長期的)に自分や家族の健康に直結する可能性があると分かれば、健康リスクをどう防ぐか、という考えを持ちやすくなります。
SDGsを有機的・連続的に捉える契機
これまで、持続可能な開発目標(SDGs)は17の目標が平板に並べられ、個別に取り組まれることが多くありました。しかし、プラネタリーヘルスの視点を取り入れることで、これらの目標が有機的かつ相互に関連していることが明確になります。例えば、気候変動対策(目標13)は、健康と福祉の向上(目標3)や貧困の削減(目標1)と密接に関係しています。このように、SDGsの各項目を連続的に捉えることで、より効果的な解決策を見出すことが可能となります。
ESGのEとSをつなげる役割
企業の持続可能性を評価する指標としてESG投資が注目されています。ESGは環境(Environmental)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字を取ったものですが、環境(E)と社会(S)はこれまで別々に扱われることが多くありました。
プラネタリーヘルスは、環境問題が社会全体、特に人々の健康や人権に直接影響を与えることを示し、EとSをつなげる役割を果たします。これにより、企業は環境への取り組みと社会的責任を一体的に考慮する必要性が高まります。
まとめ
プラネタリーヘルスは、地球環境の問題を私たち自身の健康と結びつける新しい視点を提供します。これにより、環境問題をより具体的かつ現実的に捉え、社会全体の行動を促すための強力なフレームワークとなります。
また、プラネタリーヘルスは、SDGsやESGの各項目を有機的・連続的に捉える契機となる概念で、気候変動や環境汚染がもたらすリスクを、単なる遠い未来の話としてではなく、現在進行形で私たちの健康と人権を脅かす現実的な危機として捉えることができます。
今後のプラネタリーヘルス関連の投稿では、より具体的な研究成果や日米を中心とした動向を紹介していきたいと考えています。