両親がつくり、お客様に育ててもらったお店をずっと残したい
全国にあるローソンのオーナー・クルーに、マチの魅力とご自身との関わりをインタビューする企画「#マチのほっとステーションをつくるひと」。
第11回目は、宮城県、気仙沼市で2店舗を経営するオーナー、熊谷こず恵さんにインタビュー。熊谷さんは、東日本大震災で亡くなった両親から受け継いだローソン気仙沼東八幡前店を切り盛りする。店舗を受け継いだ経緯、マチへの想いを聞きました。
ローソンで働くことになったきっかけ
本日はよろしくお願いします。まずは、熊谷さんの生い立ちを教えていただけますか?
東京都、福生市生まれですが、母親の里帰り出産でした。病院を出てからはずっと気仙沼です。
ローソンを始める前、両親は酒屋を営んでいました。私が高校を卒業する直前くらいに、両親から「コンビニを始めるかもしれない」みたいなことを言われました。その時はまだローソンを始めるとかではなく、「コンビニをやるかもしれない」と。はっきりと言われた訳ではないのですが、両親は私と一緒にコンビニをやりたいのかなと思いました。
進学を考えてはいなかったのですか?
考えてました(笑)。今もですが、服が大好きで、本当は服飾の専門学校に進みたかったんです。
両親に東京の専門学校に通いたいと言ったら「遠いし心配だからダメ」って。そこで、仙台市内の専門学校を探し、両親に再度提案したんですが、それもダメって(笑)。今思えば、両親は長女だった私に「コンビニを残してあげたい」って気持ちがあったのかなと。反対を押し切って進学して、両親に会えなくなるのも悲しいので、それならと、両親と一緒にローソンで働くことを決めました。
熊谷さんは店長として働き始めたのですか?
いえ、父親がオーナー、母親が店長だったので、私は従業員として働き始めました。私が子供を産んでからは、子育てをしながら自宅近くのローソンを手伝っていました。
それが、今の「気仙沼東八幡前店」ですか?
もう閉店してしまったのですが、最初は「気仙沼仲町店」という港町のお店でした。気仙沼市内では初めてのローソンで、オープンの日なんて、すごい数のお客様がいらっしゃいました。今のオープンじゃ考えられないくらいでしたね。朝の7時オープン予定だったのですが、6時に前倒しするくらい人が並んで、「気仙沼にローソンが来る!」ってちょっとしたニュースになりました(笑)。「気仙沼仲町店」の後、2店舗としてオープンしたのが「気仙沼東八幡前店」です。
港町ということは、「気仙沼仲町店」のお客様は漁業関係者が多かったのですか?
オープン時はそんなことなくて、いろんなお客様が来店されました。でも、常連さんは漁業関係の方が多く、お店の中から魚の匂いがするくらいでした(笑)。カツオ船に乗る方がお店まで歩いてきて、船に積み込むためのコーヒー1ケースや、日持ちするパンなどを大量に買われてました。ローソンのLサイズのレジ袋がスーパーの普通サイズくらいなんですけど、特Lサイズのレジ袋もあって、そのサイズの袋を二枚、三枚使うくらいの買い物量でしたね。
熊谷さんはお店でどのような手伝いをされていたのですか?
私は、子育中だったことと、家のことも任されていたので、お店の経営に全然携わっていなかったし、商品の発注もしてませんでした。接客は好きで、時々お店に立ってましたけど、商品の検品とレジ対応するだけでした。父親、母親、一人の社員さんを中心に、数名の従業員でお店を運営していましたね。東日本大震災の前、お店のシフトに入りがちな母に、「気仙沼でもいいから友達と温泉に行ってきたら?」と提案したこともあったんですが、母はいつも「分かった、もう少し後で、もう少し後で」という感じで。今思うと、母はお店が大好きだったんだなと。
被災の中、両親から残された唯一のもの「気仙沼東八幡前店」
今、東日本大震災のお話が出たので、そのお話を伺ってもいいですか?辛いお話になるかもしれませんが…。
大丈夫です。東日本大震災が起きた時、私は自宅、両親は「気仙沼仲町店」にいました。「気仙沼仲町店」のすぐ近くに自宅があったのですが、「気仙沼仲町店」と自宅は完全に津波にのまれました。地震が起きた後、子供を連れて車で必死に逃げました。お店の近くまで車で行きましたが、すぐそこまで津波が来ていて、両親がいるお店に行ったら私たちも絶対に助からない、そんな状況で…。両親のいるお店が津波にのみこまれていくところがミラー越しに見えました…。
「気仙沼東八幡前店」は無事だったのですか?
泥水が店内に残っていましたが、建物は壊れていなかったので、店内の掃除をすれば営業再開できる状態でした。私は無事だった妹の勤め先で数日過ごしている時、気仙沼市内のローソン店舗を管轄していた当時の支店長さんとお会いしました。その際、支店長さんから、熊谷さんが「気仙沼東八幡前店」をやりませんかってお話しがあって。父親と母親がまだ見つかっていなかった時だったので、どうしようって思ったんですけど、「私がやります」と伝えました。
「私がやります」と伝えたのはマチのためですか?
そんな大層な理由ではなくて、子どもがいたからです。当時、私はシングルマザーでした。「気仙沼仲町店」はダメ、家もダメ、車もない、住む所も無いってなった時に、残っていたのは「気仙沼東八幡前店」だけでした。これから先、どういう支援があるかも分かんない状況だったので、お店をやりますっていう選択肢しかありませんでした。自分一人だったら、たぶんもっと気落ちしてなんにもできなかったと思うのですが、子供たちを前に、そうも言ってられませんでした。
「気仙沼東八幡前店」が営業再開したのは震災後どれくらい経ってからですか?
10日後くらいです。店内の掃除が終わっていなかったので、まずは店先で商品を売りました。ローソンの商品じゃなくても、売れるものはとにかく売りましたね。電気が通っていなかったので、明るくなってから暗くなるまで電卓で計算してという感じでした。いろいろと大変でしたが、お客様から買い物ができて助かっていると聞いた時は、嬉しかったです。
支援品って、大きい避難所には届くけど家には届かないんですよね。ご自宅がちゃんと残っていて良かったねってなる一方で、ご自宅で過ごす方には支援品が十分に届かないっていう状況でした。避難所まで行けば支援品を受け取れるのですが、お年の方も多いですし、ガソリンがないから車も使えないってなると、避難所まで取りに行くのも大変で。なので、お客様から、近くのローソンで商品が買えたことが嬉しい、お店を開けてくれてありがとうって。
オーナーになったのは、お店に通ってくれるお客様のため
正式に「気仙沼東八幡前店」のオーナーになったのはいつですか?
3月に被災して、そこからいろいろあったので、オーナーになったのは12月でした。オーナーになる前は、両親が亡くなり、子どもたちのためにお店をやらなきゃという想いで、お店をやっていました。その時はオーナーとしての自覚を持ってなくて、両親が残したお店を、子どもたちのためにも開けてなきゃという感じでした。他の方にお店を譲るという選択肢もあったのですが、それはなんか嫌だったんです。両親が残してくれたものだから、というのもあるのですが、いろんなお客様と接してきたお店にオーナーとして関わっていきたいという気持ちが強くなって。
「気仙沼東八幡前店」が本格的に再開してからは、もともと接客が好きだったので、レジに立っていることが多かったです。レジで接客を続けている内に、常連のお客様がたくさんできました。若い頃の自分にとっては、コンビニって良くも悪くもただのコンビニ。色んな商品が売っていて、近くにあって、喉渇いたからジュース買いに行くような場所というイメージだったんです。でも、私とお話をするために来てくださるお客様が少しずつ増える内に、気持ちが変わってきて、オーナーとしてこのお店をやりたいって思うようになりました。
不安はなかったですか?
もちろん不安だらけでした。やるとは言ったものの、お店について知らないことまだまだあったので。なので、オーナーになってからも、震災後からずっと支えてくれたクルーさんたちに分からないことは聞いて、一歩ずつ前へ前へと進みました。クルーさんに頼ることが多かった自分ですが、オーナーになってからは、自分が責任をもってお店をみていかなきゃと考えるようになりました。
今後、どういうお店にしてきたいですか?目標みたいなことはありますか?
これらかもずっと、「気仙沼東八幡前店」を残したいです。震災復興の工事も一段落し、以前に比べるとお客様の数は減りましたが、私のお店で毎年土用の丑の日の鰻蒲焼重を買ってくださる方や、常連のお客様がいらっしゃいます。お店の売上ももちろん大事なんですけど、それは自分たちが生活できる範囲内で良いと思っています。両親が愛した、そして、多くのお客様に愛していただいてるお店を、これからも大切にしたいです。
母親がずっとお店で働いている姿を見て、「こんな働き方は私には絶対に無理!」って思っていました。今でも思っていますが(笑)。いざ自分がお店をやるようになると、お客様から「頑張ってね」とか「いつもニコニコしてるね」なんて声をかけていただくと、一日のやりがいっていうか、ずっとお店にいるのも悪くないなって。なので、これからも、ユニフォームに袖を通して、両親が残したお店を続けていきたいと思います。
熊谷さん、本日はありがとうございました。