家庭内負担平等は虚構。-幸せに生きるための価値観の再構築-
既婚か未婚か、異性か同性に限らず、同棲中のカップルに付きまとう問題として「家事どっちが何やる?」というテーマがあると思います。もう本当に世の中にあふれかえっている。私は毎日を心から幸せに暮らしたいと思っているから、不満とかをいちいち感じたくないんですよね。だから家庭内負担不平等について少し考えてみたことと、暫定で持っている結論とその先の可能性について吐き出します。
効率主義の平等神話から抜け出す
そもそも「二人は共働きだし、家事を分割して負担を平等に」という考え、もしくはそれが可能だという思い込みから抜け出しましょうという提案です。理由は二つ。
・お互いに異なるバックボーンを持ち、異なる才能を持っていること
・感情は相対評価ではなく絶対評価であること
お互いに異なるバックボーンを持ち、異なる才能をもっていること
片方は子どものころから家事の手伝いをすることが好きもしくは得意。理由は「お小遣いをもらえた」でも「お母さんから褒められる」でもなんでもいいですが、自分が家事をすることで何らかの報酬が与えられていた場合、家事をすることを前向きにとらえていると思います。
もう一方は、家事の経験がほとんどない。理由は「子供は外で遊べ」「男は台所に立つもんではない」と教えられていた等何でもよいのですが、その場合家事をするのはあくまで大学生で一人暮らしをするようになってから「仕方なくやること」であるから、家事をすることで何らの報酬系も動作しないのではないかと思います。
アイデンティティを形成する幼少期~青年期での行動様式が異なるため、必然的に得意なことも違ってくるよね、家事もその一つだよねという話です。
感情は相対評価ではなく絶対評価であること
家事はめんどくさい。バックボーンはどうあれ外で働いてきて、現在進行形で疲れているのはお互いさま。あなたのほうが簡単な家事分担にしてやってるんだからそれくらいやれよ!という反論が聞こえてきそうです。
でもわたしはこの「それくらいやれよ」って感情が悪さをしていると思ったんです。それくらいって「どれくらい」?私にとっての「それくらい」が相手にとって「どれくらい」なのかなんて、誰にもわからないです。「悲しみ」とか目に見えない感情だけが対象なら、人の気持ちを自分の物差しで測ることの無意味さに当然気付けるのに、そこに家事という目に見える対象がセットになると途端に全世界共通であるがごとく物差しで測ってしまう、でもそれは紛れもなく「自分の物差し」だったんですね。
こうして「それくらいやれよ」が使えなくなってしまった私には、相手に家事を強制させる手段はなくなりました。
思い込みからの脱却(結論)
途方に暮れた私には「得意な方がやる」という、当たり前の結論だけが残りました。というかそれでいいはずなのに、勝手に「それを言ってはいけない空気」を感じていたような感覚。それはきっと世の中のすべてを数値化し、効率性が重視され、個を無視して労働を分業・管理し、、という、資本主義社会的な発想を家庭に持ち込んでしまっていたことの弊害でした。その考え方を手放せば当たり前に家庭円満のため、相手のために得意なことをして「ありがとう」と言ってもらえる、これで自分は満足して良いんだと開き直った形です。
今あるキャパの中でやりくりすることが前提となっていて、キャパを「拡げる」視点に欠けていること
本当に言いたいことはここからで、「はいはい結局私がやるんですね」という感想を持ってほしいわけではなく。いや私がやるんですが、私は女中ではないので「得意だからやってあげちゃる」くらいの意識で、さらにそうすることで「私の能力が拡大する」と考えれば絶好の機会ですよね。他人に求めるのではなく自分に求める人生のほうがはるかに不満は少ないです。
派生して「私にはこれもしてあれもして、家事まで全部したら自分の時間が無くなる!」みたいな感覚もあると思いますが、その「これもしてあれもして」が本当にやる必要があるのか?あるとしても今必要なのか?を考えることでもある程度不満は取り除けると思います。そういう意味で家事は自分とその大切な人の生活を円滑に進める、価値のある仕事です。
おわりに
今までさんざんこすられまくったテーマで読む人に目新しさはないかもしれませんが、自分が新婚当初苦しんだ体験と、克服するために導いた考えを書かせていただきました。要するに「気の持ちよう」という話ですが、これを読んで少しでも気が楽になってもらえたら幸いです。
ハッシュタグはこの記事を書くまでに影響を受けた本と作家さんです。ではまた。