怪文書(2022/12/22)
今日、新しいスマホを購入した。それも13万円弱もするスマホで、無職にとってはとてもじゃないが安いとは言えない買い物だ。
この比較的高価なスマホを購入したのは、飽くまでカメラやバッテリー性能などの実用性(と日本への愛着)を重視した結果であって、主観的には奢侈品という印象はそれほど持っていないが、人によってはそう捉える人もいるだろう。と考えていた。
これまで生きてきて、奢侈に流れる者達に遭遇する度に彼らを下賎な俗物として軽蔑して生きてきた私からすれば、そう考えるのも当然の成り行きだ。
ところが実際に使用してみると、確かにカメラやバッテリーについては文句なしに高性能なのだが、そもそも私が日常的にスマホに高負荷を与えるような動作を要求しないからか、それら以外において前のスマホとの性能の差は実感できない。
そうなると、私の中でも当初の認識が変容し、なんとなくこのスマホに対して奢侈品としての性質を認めるような感情が湧いてくる。
私は奢侈品や奢侈に流れるあの人間共が大嫌いだから、この状況は今まさに自己嫌悪を招きつつある。
しかも、私は生物的に奢侈品を購入することで欲求が満足されるような人種でもないらしく、充足感すら手に入らない。むしろこのスマホを買ったことによる喪失感すらある。
確かにスマホの性能が上がれば、これからの生活を充実させるために大いに役立つだろう。しかし、そうであるはずなのに、何故か私の中では何かが失われてしまったのだ。
もっとも、翻って考えてみれば、そもそも購入時点の目的に一定の合理性があり、敢えて奢侈品を購入しようとした訳ではないのだから、私が私の偏見に悩まされるための前提が成立していないことに今気付いたのでこの話は終わり。
私は他の人と違う生き方をして、孤独になりたかった。他の人に紛れて区別のつかなくなるような存在にだけはなりたくなかった。
しかし、そもそも人は誰もが区別のつかないような存在で、そして他の人と違う生き方をしてもしなくても、本性から孤独だった。
やがて孤独を疎んで私が私の存在を叫んだところで、彼らは彼らの存在で耳が塞がっている。
孤独ではないのだと錯覚して、彼らは彼らと共に肩を並べている。
孤独を知っている私は決して彼らの輪の中には入れず、集団幻覚の当事者にはなれそうにない。
私は中途半端な考える人になり、幸福な人になる可能性を失った。誰の言動に対してもその心裡を洞察しようとして、遂には彼らすら気付いていない醜悪な意思を発見してしまう。
その意思を内心で弄ぶ楽しみもあるが、それよりも人間の不甲斐なさに落胆してしまう。それに、私も所詮は同じその人間なのだ。私も不甲斐ないのだ。
そして、私がその不甲斐なさを理解していて、彼らはそれを理解していないのだ。
不甲斐なさを理解していない彼らは自信に満ち溢れ、自信に満ち溢れた彼らは私益を貪り、やがて立派な人として扱われる。
一方、不甲斐なさを理解している私は自信を喪失し、自信を喪失した私は何も行動を起こせず、何も手に入れることができず、やがて社会のお荷物として扱われる。
競争が是とされる社会においては、これが人生の全てなのだ。浅はかな人間共、奢侈品を買い漁れ、勝てる限りの人を嬲れ、優越感に浸れ。社会体制に呑まれ、子孫に遺す資源をも使い果たして逝ね。