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仏と神との融合
つらつら微管を傾け、いささか経文を披きたるに、世皆正に背き、人ことごとく悪に帰す。故に、善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず。ここをもって、魔来り、鬼来り、災起こり、難起こる。
仏教の正しい法に背き、悪道に陥ると、善神はいなくなってしまうと言っています。そのため、魔と鬼とがあらわれ、災難が起きると言います。
善神がいれば、魔と鬼があらわれることもなく、災難が起きるにしても、大事にはならないわけですね。
善神にはどうしても国にいていただかなければなりません。去ってもらっては困るのですね。
このように日蓮は、「立正安国論」において、善神が必要不可欠と述べているといってよいでしょう。神々を排除していないのですね。
よって、曼荼羅本尊には、「天照大神」、「八幡大菩薩」が勧請されています。その他の神々も善神として連なっていると考えてもいいかもしれません。
ある意味、日蓮仏法は、神仏習合となっています。立正安国論の記述や曼荼羅本尊の相貌をみるとそれは明らかです。日本の神々と仏教とを融合させたのが日蓮仏法といえます。
日蓮が正しい法とするのは法華経ですが、法華経を中心に信仰をする中で、曼荼羅本尊に向かって、勤行、唱題をしていきますと、「天照大神」、「八幡大菩薩」が目に入ります。
勤行という仏道修行をしながら、同時に、伊勢の神宮と宇佐神宮とに参拝していることになるのですね。また、その他の神々も連なっていると考えますと、八百万の神の神社に参拝しているのと同様となるわけです。
法華経の修行をしながら、実は、神々にまでその信仰が広がっていきます。曼荼羅の世界は、この世の中をすべて包含するわけですから、ある意味、当然の事柄といえましょう。
しかし、カルト的に信仰をしますと、特定の教団のみを至高とするようになり、信仰が偏ってしまいます。やはり、法華経の記載、御書の記載、曼荼羅本尊の相貌を確認しながら信仰し、神々の力をいただくのが価値的な修行と思われます。
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