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稲盛和夫「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」に学ぶ

稲盛和夫氏は、「日経ビジネス」誌上で13回に渡って「敬天愛人 西郷南洲遺訓と我が経営」を連載されていました。その連載の一部分を参照しながら学んでみたいと思います。

第1講 初心
私だって、聖人君子みたいなことはできやしないんです。できやしないけれども、若い頃からずっと、そうありたい、こうあるべきだという思いを持ち続けてきたから、大きく道を踏み外さないでやってこれた。正道を踏みたい、と思う心があればこそ、大きく逸脱しないんです。復元力があるんです。少し行き過ぎても、しばらくすると原点に戻ってくるんです。そうありたいと思い続ける初心。これは、非常に重要なことだと思います。

「日経ビジネス」2005年10月3日号 78頁

改めて、「そうありたい」との気持ちの大切さを思い起こしました。
 
できるか、できないか、ではなく、まずは、「そうありたい」と思う心で、行動していきたいものです。
 
日々の生活の中では惰性に流されていきやすいものですが、流されっぱなしではなく、時には、「初心」を思い出し、軌道修正しなければなりません。
 
特別な存在になる必要はなく、自分自身が持っている力を十全に発揮しうるようにすればよいですね。
 
「そうありたい」とは、聖人君子と同じになるということではなく、聖人君子の思想、行動に学びながら、自身の可能性を開くことと捉えたいですね。
 
そのためにも、読書をしながら、また、その読書で得た知見を生活、人生に活かしていきながら、「そうありたい」という通りの自分自身でありたいと思います。

第2講 無私
リーダーたる者は、私利私欲を捨て、己を無くし、正道を踏み、天道を進め。そういう人格と心がけを備えた人でなければリーダーは務まらない。どんなに頭脳明晰で才覚があっても、欲と私心にまみれた者は、人の上に立つ資格はない。
 まるで、南洲が私に向かって語りかけているような気がしました。

「日経ビジネス」2005年10月10日号 109頁

短期的に見れば、頭脳明晰で才覚のある人が脚光を浴びますが、欲が深すぎる場合、いつの間にか「あの人どうしたのだろう?」という場合が少なくありません。
 
長期的に見れば、地道な努力をしてきた人が、目立たない中でも世の中を支え、引っ張っているようです。
 
頭脳明晰で才覚があり、なおかつ、無私の心であれば、鬼に金棒なのですが、頭脳明晰で才覚のある人は、ついつい、慢心し、私利私欲を当然のこととすることが多いのかもしれません。
 
西郷南洲は、

些とも私を挟みては済まぬもの也

『西郷南洲遺訓』岩波文庫 5頁

と厳しく指摘していますが、これぐらい厳しくないと、我が身を振り返らない可能性があります。
 
理想論といえば、理想論ですが、一つのひな形としての理想論がない場合、現実世界に流されるだけで漂ってしまうでしょう。この意味で、厳しすぎる理想論は重要と思われます。

第3講 試練
試練は、病気や失敗、左遷や倒産などだけではありません。「成功」もまた、天が人に与える試練なのです。一時の幸運と成功を得たとしても、決して驕り高ぶらず、謙虚な心を失わないことが、リーダーの絶対条件である。南洲はそう説いています。

「日経ビジネス」2005年10月17日号 129頁

苦労なり、試練を経なくてもよいように生きていこうと考えますが、試練がなければ人間としての成長が見込めないとなると、安逸に生きるのも考えものと思われてきます。
 
大変なことがあっても、嘆くだけでなく、我が人生にとって重要な機会が巡ってきていると考えるのが哲学的態度といえるでしょう。
 
ただ、苦労、大変なことだけが試練ではなく、実は「成功」も試練であるとは深い洞察です。成功という試練に耐え得ずして人生の敗北者になる人々は、「驕り」があるということです。
 
何故、驕ってしまうのか。理知的に合理的に哲学的に考えても、「驕る」ことに何らの価値も見出せないと思うのですが、成功者は、つい、驕ってしまう。この「つい」というところに人間の業が感じられます。
 
頭だけで分かることの限界があるようです。生命の次元にまで至って、はじめて、解決できる問題ともいえます。マイナス面、プラス面、双方とも試練の側面があることを認識しつつ、敢えて、試練に立ち向かう人間でありたいですね。

第4講 利他
策には策をもって対し、悪意には悪意をもって処す―。それが人の陥りやすい性であり、すぐに醜い騙し合いや足の引っ張り合いが始まる。人を相手にするからそうなるのです。だから、物事を判断する時は、それが天の道に恥じないことか、人の道を踏み外していないかということだけを基準にせよと言っているのです。

「日経ビジネス」2005年10月24日号 107頁

人の悩みの中で大きな割合を占めるのは人間関係であると思われますが、人間関係といっても「人を相手にする」から起こりうることであって、人を超えた何がしらのものを基準にした場合、人間関係の悩みがあまりにも小さく感じられるものです。
 
西郷南洲遺訓では、人を超えた何がしらのものを「天」と表現しています。敬天愛人ですから、天を敬うということですね。
 
しかし、天を敬う前に、他人を気にし、他人を相手にし、他人の悪いところに振り回されるといったことが多いようです。
 
また、悪意に対して悪意をもって処しているならば、自分自身もその悪意に飲み込まれてしまいます。
 
自らを省みて天を敬えばよいのですが、目に見える事柄、目先の事柄に囚われてしまいます。
 
悪意のある人、マイナスオーラ満載の人などがおり、悪影響を及ぼされることがあります。確かに、悪いのはその人たちであることが明らかであっても、その人たちを相手にしてはいけません。
 
また、その人たちを無視して足りるというものでもありません。天の道、人の道に照らして、適切に対処することが肝要でしょう。
 
この「適切に対処する」ということは相当な大人でなければできないことでしょう。単に年を取って老いていく大人になるのではなく、年輪を重ねながら味わいのある行動のできる大人になりたいものです。

第5講 大義
企業とは本来、多くの人との関わり合いを持ちながら、世のため人のために貢献することをもって、この社会で活動することを許されている存在です。

「日経ビジネス」2005年10月31日号 107頁

自分だけ良ければよいという利己的な考え方で経営を行い、結局は破綻していった企業がたくさんあります。とりたててどこの企業という必要もないほど、多くの企業の破綻を報道で知るに至ります。
 
個人の場合も、多くの人々との関わりの中で生活しているという感覚を忘れてはならないでしょう。
 
毎日の食事にしても、その作物を作った人、加工して製品にする人、流通に携わる人、小売りを担当する人、また、商品を購入するための金員を扱う金融業の人々など、たくさんの人々がおり、数え上げればきりがありません。
 
そもそも、自分だけ良ければよいということはあり得ないことです。あり得ないことを基にして活動していれば、おかしくもなるでしょう。破綻するのは明らかです。

第6講 大計
私たちにもやらなければならないことがある。(中略)自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。

「日経ビジネス」2005年11月7日号 114頁

これからの日本はどうあるべきかという大きな問題を考える際、我が国の歴史を正しく把握しておくことが必要です。今までの事柄を知らずしては、適切な判断ができません。
 
また、これから自分自身はどうあるべきかという個別具体的な問題を考える際も、自分自身の国についての学識はとても重要です。
 
我が国の歴史、つまり日本史ですが、改めて、しっかりと学びたいと思いますし、学ぶべきと考えます。
 
まずは、自らの中に日本の歴史の知識を入れ、その知識を見識にまで熟成し、自分自身の日本史観を作り上げていくことでしょう。
 
その上で、さまざまな場面で然るべき胆識でもって行動していけるようにしたいですね。

第7講 覚悟
【遺訓30条】
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
命もいらぬ、名誉もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は対処に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ、困難を一緒に分かち合って国家を導く大きな仕事を成し遂げることはできない。

「日経ビジネス」2005年11月14日号 109頁

人間にとって能力、才能は必要であり、また、家柄、人脈、出世も重要であり、運も大切ですが、最終的に人間にとって必要で重要で大切なものは、覚悟と思われます。
 
能力、才能は今一つ、家柄、人脈もなく出世せず、運にも見放されていようとも、そんなことはどうでもよく、覚悟があれば、自分自身の人生を全うできるのではないでしょうか。
 
命が惜しい、名誉が欲しい、出世したい、お金が欲しいでは、ちょっとつまずいただけで不安になるでしょう。あれも欲しいこれも欲しいとフラフラしていてはいけません。覚悟を決めることが肝要です。
 
もちろん、すんなりと覚悟が決まるわけではありませんが、覚悟を決めようとしていく姿勢を保ちつつ、日々、一歩一歩踏みしめる人生でありたいものです。

第8講 王道
企業の経営も、国の内政も、そして外交も、最も基本になるのは正道を踏むことです。策略をもって相手を貶めようとすれば、同じ仕打ちがこちらにも返ってきます。力をかさに着て我を通せば人の心は離れます。相手の顔色をうかがい迎合すれば信用は得られません。終始一貫、毅然とした態度で臨むことが本当の信頼関係を築きます。

「日経ビジネス」2005年11月21日号 143頁

いい気になってしまったり、思い上がってしまったり、天狗になってしまったりと人間は困った存在です。やはり、人間には「道」というものが必要です。
 
しかし、道は道でも「覇道」になってしまう場合が少なくありません。道としては、「正道」「王道」で行くべきでしょう。
 
悪い人間に対しては、悪い方法で対処してかまわないと思いがちですが、そうであれば、自分自身も悪い人間に過ぎなくなります。好き好んで悪くなる必要はありません。
 
相手がどんな悪人であろうとも、正道、王道で対処すべきです。相手が悪いから自分も悪くて構わないという考えは、よく考えてみれば滑稽なだけです。
 
相手がどうのこうのではなく、自分自身がどうであるかを根本として生きていくことです。その意味合いから、正道、王道を考えれば、無理なく、正道、王道に入っていくことができるでしょう。

第9講 真心
本来、人間関係や社会の秩序を構成するために欠かすことができない道徳教育とか倫理教育が全くなおざりにされてしまいました。宗教や哲学といったものも軽視されるようになってしまいました。

「日経ビジネス」2005年11月28日号 133頁

私も同様に感じると共に、改めて、道徳、倫理、宗教、哲学を見直し、自分自身の根本を形作っていきたいと考えています。
 
最近の日本において、道徳、倫理、宗教、哲学を大事にしようという気運が少しずつ大きくなっているように感じられます。
 
経済の停滞を経て、お金以外のものに目が向いているという側面もあるでしょうが、さすがに人間の根本を外して生きていくのに無理を感じ始めているからともいえます。
 
現代社会は、多くの問題点を抱えているとはいえ、まともに生きている人々が増えていく限り、悲観する必要はありません。
 
まずは、自分自身がまともに生きる人間となっていきたいですね。

第10講 信念
   人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力

「日経ビジネス」2005年12月5日号 125~126頁

人生・仕事の結果は、「考え方」、「熱意」、「能力」の掛け算によって決まると言われています。
 
数値化する場合、「熱意」、「能力」は、「0点」から「100点」までということです。プラスのみということです。
 
「能力」がそこそこでも「熱意」があれば、「能力」を補って余りあるということですね。反対に、「能力」が高くても「熱意」が乏しい場合、「能力」を十二分に生かすことができません。
 
一方、「考え方」を数値化する場合、「マイナス100点」から「プラス100点」まであるということです。プラスだけでなく、マイナスになってしまう場合があるということです。これは恐ろしいことですね。
 
「考え方」がマイナス点である場合、「熱意」、「能力」が高ければ高いほど、とてつもなく悪い結果を生じます。
 
実のところ、人間の「熱意」、「能力」は、さほど変わらないものです。「熱意」がある、「能力」がある、といったところで、人生の大勢には影響がないというレベルでしょう。
 
肝心な点は、「考え方」ですね。これは、ちょっと違うだけで大違いというものと思われます。「考え方」は、人格に関わる事柄ですね。
 
常日頃から「考え方」の鍛錬を続けることが必要ということですね。

第11講 立志
西郷南洲が最も厳しく戒めたこと。それは、人が自分自身を高めていこうという「志」を捨て、努力をする前に諦めてしまう心の弱さでした。楽な方、安易な方に流されるままに生きようとする人間の甘えを、「卑怯」という言葉を使って叱りました。

「日経ビジネス」2005年12月12日号 130頁

西郷南洲の指摘は、非常に厳しい。しかし、全くその通りであるため、何らの反論も許しません。楽な方、安易な方と言われれば思い当たるふしがあります。
 
今は、少しずつではあっても楽な方、安易な方に流されないよう努力していますが、若かりし頃、思慮が足りなかったのでしょう、楽な方、安易な方に流れていました。今思えば、恥ずかしい限りです。
 
やはり、楽な方、安易な方に流れていた時、私の周りには安易な生き方をする人々が多くいました。
 
しかし、楽な方、安易な方に流されないよう努力すればするほど、安易な生き方をする人々との縁が薄くなっていき、少しずつ、いい塩梅に縁が切れていきました。
 
その結果、交際する人の数は減っていきましたが、安易な生き方をする人々との交際がなくても、何らの問題もないことに気付きました。今まで何をしていたのだろうかと深く反省した次第です。
 
これからは、然るべき人々との交際にも耐えうるような自分自身でありたいと思います。向上心のない、いい加減な人間であれば、然るべき人々に失礼と思われます。
 
その意味で、西郷南洲の言葉は、身に沁みます。困難であろうとも、自分自身を高める努力を続けたいと思います。

第12講 精進
人が素晴らしい人生を送るために心がけるべきことは何だろうかと私なりに考えて、簡潔に整理したものがあります。それが「六つの精進」です。
一、 誰にも負けない努力をする
二、 謙虚にして驕らず
三、 毎日の反省
   (利己の反省、利己の払拭)
四、 生きていることに感謝する
   (幸せを感じる心は、
   足るを知る心から生まれる)
五、 善行、利他行を積む
六、 感性的な悩みをしない

「日経ビジネス」2005年12月19日号 103頁

まずは、「努力」ですね。「努力」ですべてが解決するわけではありませんが、「努力」がないところには、何の解決もありません。人生がうまくいかない人の特徴として「努力」が足りないという共通点があるように見受けられます。
 
次に、「謙虚」ですが、簡単そうで難しいですね。最初はいいのですが、人生がうまく回り始める途端、いい気になってしまうものです。不思議ですね。気を付けたいですね。
 
そして、「反省」です。日々の反省がない場合、生活がマンネリ化し、硬直したものの考え方になってしまう危険性があります。「反省」とは、人間にしなやかさをもたらす精神の柔軟体操といえるでしょう。
 
「感謝」。これは、意外となされていない事柄のように思われます。何となく生きている場合、不平不満ばかりで、「感謝」すべきことを忘却してしまいがちです。心したいものです。
 
「善行」とは、どういうことでしょうか。特別なことをするというのではなく、日々の自らの仕事に打ち込むことではないかと思います。結局、どのような「仕事」であれ、「仕事」をしっかり行うことが、取りも直さず「善行」といえます。
 
最後の「感性的な悩みをしない」というのが「六つの精進」の勘所と思われます。「反省」はすべきですが、「感性的な悩み」はしてはいけないということです。人生には、思い悩んでも仕方のないこと、意味もないことが多いものです。しかし、そのような悩みに振り回されることが多いのも事実です。どうでもよい悩みを、どうでもよい悩みであると正しく認識し、さっさと忘れてしまうことが大切です。

最終講 希望
心というものは、よくもまあ、これほどまでに勝手に動くものかと驚くほどです。自分の心を自在にコントロールするためには、やはり鍛錬が必要なのです。

「日経ビジネス」2005年12月26日号・2006年1月2日号 145頁

一番厄介なのは、他人ではなく自分です。他人は、所詮、他人であり、その人はその人で心配しなくても生きていきます。心配しなければならないのは、自分自身です。その中でも自分の心が問題です。
 
人間の悩みのほとんどは、自分の心から発しているといえるでしょう。この自分の心を上手に制御できれば、自分自身の問題のほとんどは解決するように思われます。
 
しかし、この自分の心が暴れだすとどうしようもなくなります。自分で自分を苦しめ、自分で自分を振り回し始めます。他人が入る隙間すらありません。
 
自分自身の問題を、他人のせい、社会のせいにしたところで、所詮は自分の問題ですから自分に戻ってきます。それも100パーセント戻ってきます。言い訳が許されません。
 
口では言い訳が言えても、所詮は口だけの話です。実質的には自分の問題から逃れることはできません。潔くなければならないのは、このためです。
 
以上13回にわたって、稲盛和夫氏の連載を通しながら、自分自身の生き方、自分の心に関して学んできました。
 
これからはより一層、学びを深めながら、日々の生活において学んだことを生かしていきたいと思います。

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lawful
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