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現証

悉達太子は人界より仏身を成ず。これらの現証をもってこれを信ずべきなり。

『日蓮大聖人御書全集』新版 129頁 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄))

観心本尊抄は、凡夫に仏が存在することを示している書ですが、文献の側面(文証)から、また、理の側面(理証)からの説明では、やはり、説得に困難が生じます。そこで、「文証」、「理証」とは違う「現証」から説明をしています。

悉達太子とは、釈尊の出家前の太子であった時の名前ですが、つまり、釈尊が仏になった、仏陀になったという現実の証拠により、凡夫に仏があることを説明しています。

釈尊が説いた経典は「文証」であり、その中で展開されている内容、理論は、まさに「理証」ですが、そもそも釈尊が仏となったという「現証」が、一番、説得力を持ちますね。

仏法の信仰は、釈尊の存在に大きく依存しています。釈尊なくして仏法はありません。

我が身に仏が存在するか否かということが一大事であり、そこを信仰することができるかどうかが肝要です。信仰とは、自らの仏性への信であり、そのような信がなければ、信仰とはなり得ません。

要点は、自らの仏性であり、教団や自分の外にあるものを信仰の対象としてはなりません。本尊に向かい、方便品、寿量品を読誦し、題目を唱えるにしても、結局、それは、自分自身の仏性に向かっているということなのですね。

そして、自らが仏性を開くという「現証」を出すことが重要です。「悉達太子は人界より仏身を成ず」だけで留まってしまうならば、単なる過去の事例の確認にすぎなくなります。自分自身がどうであるかというところが、信仰の要点なのですね。

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lawful
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