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自らの中に地獄界を見て、対策を練る

経に云わく「提婆達多乃至天王如来」等云々。地獄界所具の仏界なり。

『日蓮大聖人御書全集』新版 125頁 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄))

地獄界であっても仏界を備えていることを示しています。法華経の提婆達多品からの引用ですね。

「観心本尊抄」の最大のテーマは、衆生に仏界が備わっていること、人間には仏性が存在することを示すことにあります。
 
よって、上記の文などは、まさにそのことを示しており、地獄界の生命ですら仏界があるということを言うことにより、より一層、衆生に仏界があることが確実視されるわけです。

「観心本尊抄」の表向きのテーマは、人間に仏性があるということに間違いないのですが、私としては、上記の文を読むとき、どうしても裏のテーマが気になってくるのですね。
 
つまり、人間には、地獄界の生命が厳然と存在するという事実です。十界互具ですから、仏界があるならば、当然、地獄界もあるわけで、極めて卑しい生命状態である地獄界が自らの中にあるとすることは、いささか不愉快なのですね。

端的に地獄界の生命状態を言い表すと、犯罪行為を行う生命状態などが典型例でしょう。虐殺行為、強盗、強姦、暴行傷害、放火などあきらかに地獄界といってよいですね。
 
誹謗中傷を行う状態なども、まさに、地獄界です。所謂、人間的にいやらしい行為をしている人間は、地獄界の人間と見てよいと思います。

また、怒りにまかせて暴言を吐いてみたり、意地悪をしてみたり、いじめをしてみたり、無視をしてみたり、人の嫌がることを平気でする人間も、地獄界の人間であることは間違いないでしょうね。

このようなみっともない生命が自分の中にあるということを認めるのが十界互具ですから、仏道修行も簡単ではありません。仏界があるという良い面、清々しい面を見る分には心地よいのですが、己の中に地獄界があるという極めて不愉快な事実、認めたくない事実、具合が悪くなるような事実を把握することも信仰の一環です。

人間なるもの、環境によって、仏界の仏に成れると同時に地獄界の提婆達多にも成れるものです。いざ、地獄界の生命状態を出してもよい環境に身を置いたとき、人間はたやすく、上記にあげた忌まわしい行為をこともなげに行います。

リヴィウ(現在のウクライナ)や各地で発生したポグロム(ユダヤ人に対する組織的な略奪や虐殺を意味するロシア語)など、地獄界の所作といえます。人間は、集団になると凶暴化する傾向があるようで、関東大震災後の福田村事件などもその典型例であり、まさに地獄界の振る舞いです。
 
このような事件をみたとき、自分とは関係がないと思いたいのですが、自らの生命の中にこのような悪魔的な行為をする生命状態が存在すると十界互具の法門で明らかにされ、その法門を信仰をしている限り、私は知りません、関係ありません、とは言えないのですね。

自分の中にある地獄界なるものを把握し、それが暴発しないようにするのが信仰のひとつの形でしょう。地獄界の生命状態という不愉快な事実に目を背けることなく、自らの邪悪性を明確に見て、その邪悪なるものを飼い慣らすほどの人間になる必要があります。

私には地獄界の生命状態などありません、などという態度をとっていますと、いざ、地獄界を十全に開陳してもよいという環境になった際、歯止めが効くことなく、集団虐殺、集団リンチなどの行為をしてしまうものです。
 
自らを律するためには、まずは、自分に地獄界の生命状態があるという事実を認め、それを見つめ、その地獄界に振り回されないよう、どのようにすればよいか、常日頃、考えておくことですね。そのために信仰しているともいえましょう。
 
何もないときに不都合な事実に立ち向かっていれば、いざというとき、狂乱することはなくなります。祈りを通しながら、準備しておくことが肝要というわけです。

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lawful
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