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いろはす~米の天然水~
梅雨明けを皮切りに、セミたちが求愛行動をはじめた。やかましいその声が、季節の訪れを痛感させる。
予報によると、今日の気温は30度を超えるらしい。私はあまりの暑さに、冷房の効いたコンビニへと逃げ込んだ。
「いいか?この水は今、このタイミングで飲むしかないんだ。わかるか?」
茹だるような暑さの中、彼が放った言葉を思い出す。あれから随分と時間が経っているというのに、彼の言葉はいつまでも色褪せない。
私はガラス越しにこちらを見つめる天然水のペットボトルを見て、ため息をついた。
「なんでよ」
「この水は、さっきコンビニで108円で買った水だ。そして俺らが行こうとしてるドラッグストアでは、同じ物が98円で売ってる。」
「うん」
「だからさ、手元のこの水は、"ドラッグストアに行く前に飲める"という点に10円の価値を見出すしかないんだ。」
「あー…なるほど」
「ついでに言うとさ、家には2Lで108円の水が常備してあるでしょ?だから、家を出てからドラッグストアに着くまでの"今"これを飲まないと損ってわけ。わかる?」
「わかるけどさ…面倒くさいこと考えるのね」
そうかな、と言って笑う彼の顔を、今でも鮮明に記憶している。
思えば、私はその笑顔が何よりも好きだったのだ。
「本当に、面倒くさい人だったわね」
そう呟きながら、私は手にぶら下げたビニール袋の中に視線を落として、再びため息をついた。
『さあて、今夜はパーティーナイト。リスナーの皆さん、お米の天然水の用意はよろしいですかな?』
ラジオが絶叫する。
『ほらほら、そこの淑女たち。なにをぼけっとしているの。酒蔵は待っちゃくれないよ。ちょいとそこの紳士たち。局部を出すのはまだ早い。フロアが沸くまで待ってくださいな。お母さん、おでんのおつゆをちょちょっと拝借。こいつで米の天然水を割ってやりゃあ、あら不思議。あちしの大好物に早変わり。皆さんだってそうでしょう?』
今夜も狂宴のゴングが高らかに。