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my blueberry nights(補足)

自分にとって初の重力本『my blueberry nights』(以下:本作)をC103にて発行してから、およそ半年が経ちました。
物語の展開や描写など、本作は自分の中では結構気にいっている作品となりましたが、本作を書き上げられたのはこれまで自分が出会ってきた映画の存在によるものが大きいです。
学生時代から映画鑑賞に耽り、印象的に残った台詞や演出はいちいち映画を止めてメモし続けてきたのですが、地道にメモし続けてきた結果今はそこそこな量になりました。
そんなメモの中から色々見つつ、本作は17作品の映画の台詞や演出を参照しました。
今回は自分の記憶用メモとして、ここに残したいと思います。

※このnoteでは映画のネタバレを含みます。


01.『ビフォア・サンセット』(原題:Before Sunset)

『ビフォア・サンセット』(原題:Before Sunset)

本作の冒頭に、以下の文章があります。

I guess when we’re young, we choose to believe that there will be many people that we’ll connect with.
Later in life, you realize it only happens a few times.
  ──── “Say That You're Mine”

『my blueberry nights』p.06

こちらは『Say That You’re Mine』という曲のイントロ部分で流れる台詞なのですが、この台詞の元ネタは『ビフォア・サンセット』のワンシーンからきています(※参照部分…0:45〜)。

そしてこちらのセリフは、後々シドーの台詞として再び登場します。
漂流都市群ジルガ・パラ・ラオの中央港「マリニ・ポートゥラオ」、その物資搬入港にある巨大クレーンの真下のエリアで、猛暑の中ぼうっとベンチに座るキトゥンとシドーのワンシーンです。
一緒に過ごす時間が少なくなっていくうちに、クロウとの接し方が分からなくなってしまったキトゥンに、シドーは温くなったアイスコーヒーを啜りながら言葉をかけます。

「お前らを見てると、時々考えることがある」
 シドーもきっと温くなっているであろうアイスコーヒーをすすった。
「若いときって、出会いはたくさんあると思い込んでしまうんだよな。ほんとは稀なのに」

『my blueberry nights』p.152

ちなみに『Say That You’re Mine』は、本作最後にキトゥンとクロウがストロベリーパイとブルーベリーパイを一緒に食べるシーンに流れるイメージという意味合いでも参照しています。

02.『6才のボクが、大人になるまで』(原題:Boyhood)

『6才のボクが、大人になるまで』(原題:Boyhood)

『ルナティック・フォール』到達予定日まであと0日、夢魅の館の浸水対策を手伝っていたクロウに、アキがキトゥンについての話を聞きます。

 クロウは数時間前のアキとの会話を思い出す。補強テープが交差するように貼られた窓ガラスに、暴風雨が横殴りに吹きつけていた。
「ねぇ」
「なんだ」
「あの子、まだ帰り遅いの?」
 脚立に乗り点検口を開け、吸水材の入った大きな不織布を天井裏に敷き詰めているクロウに、アキが質問する。
「まぁな」
「あなた、何の一言もないのが気に食わないって言ってたけど、結局あの子は何でそんなに帰りが遅いの?」
「知らん。興味もない」
「あなたたち、家族みたいなものでしょう?」
「…前も家族だった」
 この話をすること自体に鬱陶しさを覚えたクロウは、手に持っていた防水用テープを必要以上の強さで引っ張る。

『my blueberry nights』p.223

『6才のボクが、大人になるまで』は実際に12年間にわたって撮影された映画で、主人公の男の子と姉が、母親の再婚なども経つつ思春期を過ごしていくという内容の物語です。
(結構うろ覚えですが)主人公の男の子は離婚した父親を慕っており、離婚した今でも時々会うという間柄。新しい父親をなかなか慕うことができず、母親に話の中で「家族なんだから分かってよ」的なことを言われます。
そこで男の子は「前も家族だった」といってその場を出ていきます。今回はこのシーンから参照しました。
映画自体は結構長いので、興味のある方は時間のある時に鑑賞するのをお勧めします。

03.『ぼくとアールと彼女のさよなら』(原題:Me and Earl and the Dying Girl)

『ぼくとアールと彼女のさよなら』(原題:Me and Earl and the Dying Girl)

これは本当になんでもないワンシーンなのですが、主人公グレッグがヒロインのレイチェルと雑談をしている中で彼女の父親の話になり、グレッグが「そのパパ返品した方がいい」という一言を吐きます。 クスッと笑えるようなシーンだった記憶があるので、クロウとアキの会話で似たような台詞で登場させました。

「──── あなたの心が、目の前の打ちひしがれたバケツ少女を助けたいと言っているわね。バケツがそう言っているわ。私にはバケツの声が聴こえるの…」
 バケツがひとつ、あっけなく落ちる。
「ならそのバケツ、さっさと返品したほうがいいぞ。ではな」

『my blueberry nights』p.111

ちなみに『ぼくとアールと彼女のさよなら』は、主人公グレッグと友人アールがひたすら映画のパロディ制作に耽る高校生活を送っている中、ある日幼馴染である少女・レイチェルが白血病を患っていることを知らされ、そこから主人公はある行動に出る…といったあらすじです。

04.『ファイト・クラブ』(原題:Fight Club)

『ファイト・クラブ』(原題:Fight Club)

ブラッド・ピッドが出演している『ファイト・クラブ』の序盤、主人公である「僕」が末期がんのグループセラピーに参加するシーンがあります。
そこで「僕」は皆と一緒に涙を流し、「毎晩僕は死に、毎晩僕は生き返った」というナレーション(僕)が流れます。
本作では、ヘキサヴィルを襲った大災害から一年後、キトゥンが突然街に帰ってきた日のことを思い出すクロウの心情として登場させました。

「ねぇクロウ」
「なんだ」
「あの家、いまも変わってない?」
 ヘキサヴィルを襲った大災害から一年後のある日、キトゥンがこの街に帰ってきた。この一年、何度呼びかけても返ってくることなく虚空に消えていたキトゥンの名が、いまは私の名を呼ぶ愛しい声とともにこの空間で反響している。
 キトゥンが目の前に現れたとき、私の内側に生じた衝動は、考えるよりも先に私を彼女のもとへ引き寄せた。沈黙と忘却の暗黒の世界に身を投じていた小さなキトゥン。私よりも華奢で小さい、ほんの少し猫背な彼女。この世界に留められなかった自分を、何度も呪った。毎晩私は死に、毎晩私は生き返った。

『my blueberry nights』p.125

『ファイト・クラブ』はサブリミナル効果が使われていたりと特徴的な映画で、考察するのが面白い映画でした。

05.『はじまりのうた』(原題:Begin Again)

『はじまりのうた』(原題:Begin Again)

『はじまりのうた』は、主人公のシンガーソングライターであるグレタと、彼女の歌声に目をつけた音楽プロデユーサーのダンが、なんやかんやあって自分たちで野外録音でアルバムを作ろうと、日々懸命に音楽制作にのめり込むといったお話です。
ある夜、グレタとダンは街中で一緒のイヤホンで音楽を聴きながら、「音楽のおかげで、平凡な風景も意味のあるものに変わる」といった話をします。
本作では、猛暑の中ぼうっとベンチに座るキトゥンとシドーの会話の中で登場させました。

「雨は嫌か?」
 キトゥンはむすっとしたように答える。
「好きじゃない」
「だが雨のおかげで今は街全体がイベントだらけだ。こんなこと、今までなかった」
「雨のせいで、だよ」
「発想の転換だぜ、キトゥン。いいか。俺が思うに、この世界は平凡すぎる」
 シドーもキトゥンと同じ前屈みの姿勢になる。目の前には大きな水溜りが真っ青な空を含んでいる。
「雨が降ると、平凡な風景も意味のあるものに変わる。きっとこの雨も、いつかは上がるだろう。だから今だけだ。年をとるとなかなか見られない」

『my blueberry nights』p.149-150

ちなみに自分は同じ監督の作品である『シング・ストリート』という映画がお気に入りです。

06.『時計じかけのオレンジ』(原題:A Clockwork Orange)

『時計じかけのオレンジ』(原題:A Clockwork Orange)

キューブリック監督の非常に有名な映画です。
暴力や非行に明け暮れていた主人公・アレックスは、ある日殺人事件を起こして逮捕されてしまい、そこで刑期を短くするためにある療法の被験者になるよう頼まれるが…といったあらすじです(確か)。
本作では、キトゥンがまだ帰ってこない夜の土管の家の端で、ミルクを飲みながらある夜のことを思い出します。なかなか寝付けない夜、何気なく点けたブラウン管テレビではとても日中には流せないような暴力映画が流れていました。

 クロウはふと、ずいぶん前になかなか寝付けなかった夜を過ごしたことを思い出した。横で寝ているキトゥンはずるいくらいに爆睡で、夜中眠れないクロウはひっそりとテレビを点けてぼうっと眺めていた。テレビで流れていたのはとても日中に流せるような内容ではない暴力映画で、しかしどこか脳の奥に焼き付くような映像の表現技法が印象的だった記憶がある。映画は主人公率いる四人の不良グループがドラッグ入りのミルクを飲むシーンから始まっていた。ミルクを飲み、不気味な笑みでこちらをじっと見つめる主人公。一人で暮らしていた頃にクロウもその映画監督の作品は数本観たことがあり、上目遣いでこちらを睨みつける演技や、映像の中の構図が左右対称であるという演出をよく見せる映画監督だったことはなんとなく印象に残っていた。
【精神が刺激され、いつもの超暴力(アルトラ)へ盛り上がる】
 クロウはグラスを口に運び、グイッと一気にミルクを飲み干す。いっそ自分もおかしくなれたらどれだけ楽になれるだろうかと、クロウは思う。最近の自分は地に足がついていないような感覚で、自分が今何を感じていてどこへ向かいたいのかが分からず、まるで上下左右のバラバラな空間で彷徨っているような気分だった。
【重力は、あまりにむなしい】

『my blueberry nights』p.123-124

※『時計じかけのオレンジ』は性暴力描写がいくつかあるので注意です(汗)

07.『ヘレディタリー/継承』(原題:Hereditary)、『ライトハウス』(原題:The Lighthouse)

『ヘレディタリー/継承』(原題:Hereditary)
『ライトハウス』(原題:The Lighthouse)

両作品ともホラー映画です。
『ヘレディタリー/継承』では最後に家の庭にあるツリーハウスに上っていくシーン、『ライトハウス』では立ち入ることを許されなかった灯台の灯室に続く階段を上っていくシーンがあり、本作ではそれらをイメージとして参照しました。
ヘキサヴィルの大災害が起きて半年経ったある日の夜、失踪したアキを探すクロウが、夢魅の館で隠された空間の存在に気づきます。

「アキ、いるのか!?」
 返事はない。屋根裏は塔のように真っ直ぐな空間が続いていて、壁に収納式梯子が備え付けられているのが見えた。私は梯子を下ろし、一段ずつゆっくりと上っていく。一段、また一段。仄暗く狭いその空洞は深い空の底の色をしていて、梯子は長くないはずなのに、暗闇は私の方向感覚をいとも簡単に狂わせた。もしかすれば、梯子を上っているつもりでいるのは私の妄想で、実際はどこまでも無限に続く空の底へと突き進んでいるのではないだろうか?
 額から流れた一筋の汗が顎を伝い、部屋の床へと滴り落ちていく。汗が下に落ちたことで、私の中の重力はまだ彷徨ってはいないのだと安心した。私は今になって、この建物の最上部が塔の形をしていることを思い出した。この建物内で借りられる物件の最上階は五階で、彼女が借りているのもまた五階だった。ひょっとしたら、五階のさらに上にある塔の内部は、彼女しか立ち入ったことのない場所…。
 やがて塔の内部へと続く蓋に到達し、私は思い切って蓋を開けてみる。直後、鮮烈な赤い光が目を刺した。目を細めながら内部へと上っていくと、そこは四方を壁に囲まれた狭く小さな部屋だった。

『my blueberry nights』p.191

『ライトハウス』は主演二人の狂演っぷりが凄まじく、個人的にも大好きな映画です。一部、衛生面で非常に汚い描写もあるのでそこは注意です。
『ヘレディタリー/継承』は最初に観たとき、怖すぎて夜寝られませんでした。実は家族愛に溢れた作品という見方も出来るのですが、それにしたって終盤のシーンが怖すぎ…。

08.『インセプション』(原題:Inception)

『インセプション』(原題:Inception)

『TENET』や、最近だと『オッペンハイマー』を作ったクリストファー・ノーラン監督の作品です。
主人公・コブの夢の中でかつての妻を見るシーンがあるのですが、本作ではミザイの本の中でそのシーンを描きました。

 昇降機が止まると、目の前には砂浜と鏡のように光る海が広がっていた。格子形の蛇腹式内扉を開けると、遠くに砂浜で遊んでいる親子の姿が見えた。母親のそばで砂遊びをする、男の子と女の子。内扉の端にもたれて眺めていると、背中から声がした。
「どうして?」
 彼女の声に、振り向かず答える。
「夢しかないんだ」
「そんなに夢が大事?」
 永遠のあり方を静かに示しているように、潮騒が単調に反復を繰り返す。
「夢でなら、一緒にいられる」
 遠くにいる子どもの母親 ──── 自分の妻が、チラリとこちらを見た。小さく息を吐き、昇降機の内扉を素早く閉め、下層階のボタンを押す。昇降機はゆっくりと下がっていき、砂浜が上へ消えていく。
「夢で奥さんを生かし続けてるのね」
「そうじゃない。俺には償うべき過去があるんだ」
 やがて昇降機が到着する。内扉を開けると、そこには現実と同じ、よく知っている家の廊下が続いていた。
「あなたの家?」
「俺と妻のだ」
「彼女は?」
 絵画の飾られた細い廊下を真っ直ぐに歩いていく。
「死んだ後だ」
 廊下を抜けるとダイニングルームが広がっており、その窓の向こうでは大きな庭がある。その庭には、先ほど砂浜にいた子どもたちが仲良く遊んでいた。
「息子だ。虫を探してる。娘は名前を呼べば振り返り、笑顔を見せてくれる。とびきりの笑顔を…」
 子どもたちの愛らしい背中を眺めていると、突然後ろから男の声がした。
「もう行かないと」
 そう言って、遥か彼方への搭乗券を渡してくる。
「ここで動揺する。いま子どもの顔を見なければ、後悔するのに」
 顔を上げると、庭にいる子どもが誰かに呼ばれて、姿を消した。
「だが手遅れだ。結局何も変えられない。呼ぼうとすると二人は消える。だから、いつもここで思う」
 力なく垂れた右腕が、ひどく重く感じる。
「あと一秒、手をのばすのが早ければ ────」

『my blueberry nights』p.131-133

ノーラン監督の作品はどれも迫力があって面白いので、興味がある方はぜひ。

09.『グッバイ、サマー』(原題:Microbe et Gasoil)

『グッバイ、サマー』(原題:Microbe et Gasoil)

家でも学校でも悩める日々を送る14歳の主人公が、風変わりな転校生と友情を育み、自動車を自作して大冒険に繰り出す夏のお話。
本作では映画にも出てくる「死と無限」の描写等で、いくつかのシーンで登場させました。

『例えば…無限集合では自らと等しい部分集合が存在するの。有限集合ではあり得ないわ』
『ちょっと難しいかも……』
『すぐそこにあるホテル・ヒナーユを例に挙げてみるわ。あそこのホテルには、無限の部屋が存在すると仮定する』

『my blueberry nights』p.138

「死ぬのが怖い」
 シドーは鼻でフッと笑い、手のひらの中で缶をくるくると回す。
「死なないから大丈夫だ」
「誰でも死ぬんだよ」
「死は終わりじゃない、例えるならある種の開放だ。肉体は入れ物にすぎない」
 シドーの返答にどうにもキトゥンは納得できず、少し強めの口調で返す。
「なんで分かるの?」死んだこともないくせに。
 するとシドーは地面にアイスコーヒーの缶を置いて立ち上がり、目の前の大きな水溜りの中心に立った。そして突然、シドーは大きく何度もジャンプして水飛沫を上げ始めた。屈託のない笑顔で、シドーは笑っていた。
「ほら、見ろよ!世界はこんなにも豊かで美しい!」
 シドーの全身をバシャバシャと濡らす水飛沫の上で、瞬間小さな虹がぼんやりと立った。小さくも存在感のある弧線を描く、絢爛な虹だった。やがてシドーは足を止め、その場に立ち尽くす。キトゥンはベンチから動かないままじっとその様子を眺めていた。
「なんで私だけ怖いんだろう」
「お前が特別だからだよ」
「みんなと同じがいい。でも本当は同じだとムカつくの。みんな忘れるから」

『my blueberry nights』p.150-151

「ねぇ、クロウ」
 名を呼ばれ、私は顔を上げる。
「数字を数えてたら、あの子は帰ってきてくれるかしら」
「…さぁな」
 アキは遠い彼方の空を眺めて囁いた。
「ねぇ、キトゥン。3つ数えるから、振り向いて」
 1、2、3。
「7つ数えるから、振り向いて」
 1、2、3、4、5、6、7。
 夜空の奥深くで、一筋の光が流れていった気がした。
「無限……」
 アキの囁きは、実体のない夜の粒子の一部となって溶けていく。

『my blueberry nights』p.206

10.『アフター・ヤン』(原題:After Yang)

『アフター・ヤン』(原題:After Yang)

個人的には、人生の中で恐らくずっと心に残り続ける美しい作品です。
あらすじは以下の通り。

“テクノ”と呼ばれる人型ロボットが、一般家庭にまで普及した未来世界。茶葉の販売店を営むジェイク、妻のカイラ、中国系の幼い養女ミカは、慎ましくも幸せな日々を送っていた。
しかしロボットのヤンが突然の故障で動かなくなり、ヤンを本当の兄のように慕っていたミカはふさぎ込んでしまう。
修理の手段を模索するジェイクは、ヤンの体内に一日ごとに数秒間の動画を撮影できる特殊なパーツが組み込まれていることを発見。
そのメモリバンクに保存された映像には、ジェイクの家族に向けられたヤンの温かな眼差し、そしてヤンがめぐり合った素性不明の若い女性の姿が記録されていた……

引用:Filmarks(https://filmarks.com/movies/86032

作中、動かなくなってしまったヤンのメモリーバンクの中で、かつてヤンが一緒に過ごしたオリジナル(人間)のエイダという女性の映像が映し出されます。
本作では、キトゥンとクロウが撮影する6秒間の記録データを振り返るシーンで参考にしました。
映画でも非常に美しいシーンなので、興味があればぜひ一度観ることをお勧めしたい作品です。 ちなみに音楽は坂本龍一さんの作曲です。

11.『雨に唄えば』(原題:Singin’ in the Rain)

1952年のミュージカル映画で、きっと一度はこのタイトルを耳にしたことがあると思います。 本作では、キトゥンが入院中に見た夢の中のシーンで参照しました。

 もうすぐ、雨が降る。
 街頭テレビから目を離し、私は歓楽街の光景に目を向ける。きっと何度も見たことがあるはずなのに、周囲には私の知らない光景がまだまだ溢れていた。カチカチと点滅しながらグラデーションのように波打つネオンの光、壁に貼られた色褪せた古い求人広告、駆け足でプレジューヌ駅構内へと下っていく小さな雨傘、酒瓶を持って路上を彷徨うだらしのない大人、本を必死に読みながら歩く勤勉な学園生。この世界に存在する日常を構成する要素や人々の生活が細切れに視界を過ぎ去っていき、その圧倒的な未知に気圧されている自分に気づく。
【喉を大事にね。歌うスターなんだから】
 頬にぽつりと、水滴がついた。
【今夜は夜露が重いみたい】
【そうかい?僕には太陽の光が降り注いでる】
 夜空を見上げると同時に、急に雨が降り出した。雨はどんどん強くなり、道にできた水溜りが波紋を作りながら次々と広がっていく。プレジューヌを行き交う人々はすぐさま走り出し、やがて街には誰一人いなくなってしまった。耳を澄ませてみると、背後で流れる映画から再び音楽に乗せた歌声が聴こえてきた。
【雨に唄えば…】
 振り返ると、街頭テレビの画面では、ハットを被った男性が雨の中傘も差さずに幸せそうに歌って踊っている。その歌声を聴きながら、私はゆっくりと歓楽街を歩き始めた。

『my blueberry nights』p.299

大雨の中で傘を持って踊るシーンは、名作映画のワンシーンとして世界的にも有名です。

12.『ニュー・シネマ・パラダイス』(原題:Nuovo Cinema Paradiso)

『ニュー・シネマ・パラダイス』(原題:Nuovo Cinema Paradiso)

こちらも名作映画と言われている作品のひとつです。
舞台はローマのシチリア島の村。映画好きの少年・トトは映写技師のアルフレードと仲良くなりさらに映画の世界へのめり込む…といったお話です。
やがてトトが成長し兵役を終えて村に帰ってきたとき、村にはトトの知らない映写技師がいました。 アルフレードと再会したトトは、前途洋々な外の世界を知るために、これ以上村に留まらないよう忠告を受けます。
本作では、ミザイに国を出るよう言い放つリザのシーンで参照しました。

 リザは立ち上がり、後ろの窓の外に広がるバンガ集落の光景を眺め始めた。窓の外から差し込む淡い茜色の光がリザを包み、その背中は深い影に覆われる。
「いつかこの集落を出ろ」
「ちょっと待てよ、俺にはここが……」
「お前の居場所はここではない」
 背中を向けたままリザは言い放つ。冷たい声だった。生まれる前から自分のことを認識してくれている人間からの拒絶は、この世界と自分を繋げてくれていたへその緒がついに切れてしまったような感覚にさせられた。
「ここは邪悪の地だ。ここにいると自分が世界の中心だと感じる。何もかも不変だと感じる」
 窓の外ではいつも見ているものと変わらない、バンガ集落とジルガ・パラ・ラオの日常がどこまでも広がっている。
「だがここを出て二年もすると、何もかも変わっている。頼りの糸が切れる。会いたい人間もいなくなってしまう」
 人々は光の中にぼやけ、リザの首筋が浮かび上がる。窓の外から差し込む光でリザの首から上は消えており、その表情は窺えない。
「一度この集落を…この国を出たら、長い年月帰ることは許さん。年月を経て帰郷すれば、友人や懐かしい土地に再会できる。今のお前には無理だ。お前は我よりも盲目だ」
「…誰の台詞だよ?」
「誰の台詞でもない、我の言葉だ。人生はお前が壁に描いていた作り話とは違う。人生はもっと困難なものだ」
 目の前にいるのが自分のよく知っているリザという気がしなかった。
「行け。この世界は無限に広がっている。お前は若い、前途洋々だ。我にはこの国を見届ける義務がある。我はここで、いつかお前の噂を聞きたい」
 その背中は十五歳の時に見た、どこまでも深い空の底の色をしていた。
「自分のすることを愛せ。幼い頃、壁に世界を描くことを愛したように」

『my blueberry nights』p.162-164

ちなみにエピローグである二週間後、寂れたラダレ来航記念公園施設内の避難所も、この映画の最後で閉館し取り壊される「パラダイス座」をイメージしています。

13.『青い、森』

『青い、森』

実はそこまで好きというわけではない作品なのですが、本作を書くにあたって展開を結構参考にした映画です。
映画の中では失踪した主人公を二人の友人が探すのですが、主人公の家にはある隠された空間が存在することが映画後半で分かります。
本作では、失踪したアキを探すクロウが、夢魅の館の中に隠された空間が発見するシーンで参照しました。

 ハッとしたように顔を上げる。壁に貼られていた大きな地図を引き剥がしたことで、今になってこの空間が形作る本当の姿を見出した気がした。
 壁中にある無数の写真と資料の上を這う血管のような赤の塗料。小瓶に詰まった何者にもなれない香りと、床に撒き散らされた血の粒子たち。
 その全てが地図の貼られていた壁に収束し、一本の樹木を形成している。
 手の中にある写真の光景と全く同じ。
 ここは、ただの暗室などではない。
 ずっと昔に死んでしまった時間の断片を纏い、“星”となった死者の声が摩擦する場所だ。

『my blueberry nights』p.194

本作でアキが語る「物事には全て裏側がある」という言葉は、映画でもひとつのキーワードとなっています。

14.『アステロイド・シティ』(原題:Asteroid City)

『アステロイド・シティ』(原題:Asteroid City)

『アステロイド・シティ』ではいくつかの章に分けられていますが、章の始まりは毎回舞台のスクリプトの表紙が映し出されます。
本作では、最後の奥付のページを海外のスクリプトのようなイメージで作成しました。

15.『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(原題:My Blueberry Nights)

『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(原題:My Blueberry Nights)

最後はウォン・カーウァイ監督作品『マイ・ブルーベリー・ナイツ』です。
本作では、キトゥンが毎週楽しみにしているオリジナルドラマとして登場させました。

ラジオ代わりに聞き流していたブラウン管テレビのツマミを適当に回してみると、最近夜間に放送されているオリジナルドラマが映し出された。過去の辛い経験をなかなか忘れられない主人公が、ついにあてのない旅に出る。アルバイトをしながら様々な国を横断していく主人公は、行く先々で愛を求め愛に傷つく人々と出会う。彼らと束の間の時間を共有していくなかで、主人公は新たな自分を見出していく…という内容だったはずだ。自分は観ていないが、そういえばあいつの好きなドラマだったなとふと思い出し、クロウはベッドの上に静かに腰掛ける。

(中略)

とある夜、閉店後のカフェで主人公と店主が二人話しているシーンだった。
【どうかな。僕が思うに、時には知らないほうがいい。それに、理由なんて見つからないことも…】
【すべてに理由があるわ】
【パイやケーキと同じ。毎晩閉める時、チーズケーキとアップルパイは売り切れ。でもブルーベリーパイは手つかずで残ってしまう】
【何がいけないの?】
【理由なんて何も。パイのせいじゃなく注文がない。選ばれないだけ】
 肩をすくめ、店主が売れ残りのブルーベリーパイを横にあるゴミ箱に捨てようとする。
【まって!】
 主人公が思わず大きな声を出す。
【…ひと切れもらうわ】
【アイスは?】
 無言で頷く主人公に、店主は【待ってろ】と笑顔で用意し始める。

『my blueberry nights』p.100-102

以上、本作にて参考にした映画作品たちでした。
今後の映画鑑賞に少しでも役立てば幸いです。

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