言葉が境界をつくっている
その人の概念からの分別による言葉が境界を作る
なんとなく自分が感じていたことが上手に言語化されていて
ですよねと思った。
名前を付けることで切り分けられているというこの世。
何もないところに名前や言葉を当てはめることで線が引かれるなと思ってたわけです。
何もないというのは、あるんだけどないとされるもので、「ない」というのは存在しないということと同義で…
人類が言葉を持ち、今に至るまで、その「ない」とされていたものから言葉を使うことで「ない」世界から急に浮き彫りにされたようになり「存在している」ものとされてきた。
目の前のPCや机というのは境界線が目で見てはっきりしている。
けれど、目で見てもはっきりしていないものもあって。
例えば、人間の肩から指先までをもともとは「腕」と呼んでいたとします。
ある時、ここは肘という名前にしようと誰かが決めて肘がこの世に産まれました。またある時には、この部分を手首としようと決まり、手首がこの世に産まれました。5本あるこの腕の先は指という名前にしようとなり、ではここは手の甲に!こっちは手の平!と分断されました。
では「腕から肘だけを切り取って下さい」と言われたら、はて?どう切り取ればいいのか?と私はなります。
名前をつけて境界線を作るけれど、その線引がハッキリしているもの、そうでないものもある。
でも、わたしたちは名前をつけることで境界線を作っているという感覚が根底にあるから、この腕の例え話のように困ってしまったりすることもある。
言葉の境界線というのは、スパッと切り分けられる線だけじゃなく、互いに及んで影響しあっているグラデーションの線が多いのだと思う。
人間が言葉を使ってこの世で認識できるものを増やしてきた。
そのおかげで昔の人たちは到底想像もできない程の便利で有難い世の中になっている。
一方で、増えたからこそカテゴライズされることや決め事も増えた。
その枠にはまらないのは認めないとか、そうでなければいけないとか、名前のつくものの意味する内容に収めようとして、そうではないものへの扱い方まで、また言語化して収める枠をつくっていく。
なんだか窮屈だなと思う。
白黒ではなくグレーの良さだってある。
グラデーションだからいい塩梅ということもある。
言葉を使い言葉に頼って生きているわたしたちだから仕方ないことだけれど、境界を作りすぎないようにしたいなと思いました。
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