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工匠の妖精とフェティシズム

先週、友人の家でディズニー映画『ティンカー・ベル』(Tinker Bell 2008)を観ました。妖精の谷にやって来たばかりのティンカー・ベルは、「才能の斧」によって自分の天職を選ばれ、工匠の妖精としての役割を与えられます。物語は、彼女が自分の才能を受け入れ、それを通じて世界を修復し、人々に幸せを届ける姿を描いています。

映画の夜が終わり、友人が駅まで送ってくれる途中で、「もし自分が妖精になれるとしたら、どんな妖精になりたい?」と聞かれました。少し考えた後、「たぶん私も工匠の妖精を選ぶかもしれない」と答えました。理由は簡単で、何かを作ることが好きだから、工匠の妖精の気持ちが理解できると思ったのです。ティンカー・ベルのように、自分の才能を受け入れられず、時には疑い、放棄し、失敗を経験した末に、修復したい、創造したいという願望が生まれる。その過程が共感できました。人は自分が得意なことから逃げられませんが、それをどう受け入れるかには時間が必要です。

映画に登場する水の妖精、動物の妖精、氷雪の妖精、庭園の妖精たちは、それぞれに魅力的で楽しい役割を持っていますが、やはり私は人間が一番好きです(猫になりたいと言うことはあっても)。万物の中で理解できるのは結局人間だけだからです。その意味で、私はやはり工匠の妖精になりたいと思います。人間のために、まずは自分自身のために、何かを作りたいのです。

自然の妖精たちの仕事は、一瞬で永遠です。美しく感動的でありながら、何も残らない刹那的なものです。それに比べて、工匠の妖精の「造物」は触れることができ、保存でき、壊れても修復可能です。いつか消滅する運命ではあっても、この「所有」の感覚は、特に魔法のない人間にとって、幸せを感じさせてくれます。

私たちの命は短く、期限付きです。その不確定な死への間隙に、人生を覆うものがあれば、それは幸せに近いものではないでしょうか。それがいわゆる「フェティシズム」なのかもしれません。冷蔵庫やキッチンや食べ物が愛ではないと分かっていても、それらが幸せに近い瞬間をもたらしてくれたことを知っているからこそ、私はそれらを必要としているのです。

「フェティシズム」といえば、幼い頃、私は外で拾った木の枝や松ぼっくり、石を家に持ち帰るのが好きでした。しかし、引っ越しを繰り返す中で、何も持ち運べないことに気づき、それをやめました。それでも、10代の頃に描いたスケッチや漫画、友達との手紙やメモは今も残っています。残せるものはすべて残したいという気持ちがあるのでしょう。

執筆もその延長線上にあると思います。消えゆく運命にあるものを残したいという願望が私の中にあるのです。『ティンカー・ベル』の自然の妖精たちは、自分の一体性や運命を受け入れていますが、私は人間らしく一方的な願望を抱いてしまいます。それが徒労だと分かっていても、また繰り返してしまうのです。

文字を書くことは、それを実現する最良の手段かもしれません。思考に最も近く、物を心や頭の中に保存しながら、画面や紙を通じて外部化し、客観的な存在として提示できる。その過程で、読者の視線を伴うこともあるでしょう。消える運命にあるものを書いているなら、その精神や印象を存続させるのは、読者の存在そのものなのではないでしょうか。

自分にとって大切な物は何かと問われると、多いようで案外思いつかないものです。東京に来るとき、「自分以外は何も持って行かなくていい」と結論づけたはずです。

ところが、荷解きして整理しているうちに、小さな意外な品々が出てきました。例えば、中学校時代にお守り代わりに鞄にぶら下げていた小さな瓢箪を、無意識に持ってきていました。そして、東京を出発する日にその瓢箪を見つけ、神様を新しい世界に持っていくような感覚で書いたことがあります。この異国の地の霊をも鎮めるものとして。

気づけば、ずっとこうしてきました。日々書いているものは、どこかから湧いてくるものではなく、実在する物から言葉を拾い上げ、スケッチするように書いているのです。この過程そのものが面白いです。やがて、物は人生の中に散らばる断片となり、いつも元の場所に戻る道しるべになります。

2024年12月2日

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