『BOAT』作・演出 藤田貴大(マームとジプシー)
この世界を、どうしたら肯定できるか。
現在、そんなことを考えている人がどれだけいるだろうか。
世界という大きいものについて考えることを、自分は辞めた。辞めたというと都合がいいから、考えたこともなかった。かもしれない。
あなたは、世界に関心を払わなくなってどれくらい経ちますか。それとも今なお、この世界に怒り、祈っていますか。
どんなことが起ころうとも、世界は滞りなく動いているから。雰囲気を感じているだけで、怒ることも祈ることも辞めて。半径が測れる暮らしを大切だと思って、人に関心を払うことすら、辞めてはいないですか。
そんな、自分に流れる時間は長くて、世界はますます行き詰まって行く気がしていました。
***
『BOAT』
作・演出 藤田貴大(マームとジプシー)
"土地は、
ボートによって発見された。流れ着いた人々は、そこで暮らし、子孫を反映させた。
現在も、
海岸にはときどき、ボートが漂着する。しかし、人々はそのことにもう関心がない。
ある日、
上空は、ボートで埋め尽くされた。その意味を知らないまま、人々は慌てふためく。
人々は、
ふたたび、ボートに乗って、ここではない土地を、海より向こうを目指すのだった。" (あらすじ)
***
劇中のセリフを引用しつつ話を追う。
(本作は7/26で千秋楽を迎えた。9/3にNHK BSプレミアムで放送される。)
自分たちはこの土地の人間だ。ここに漂う雰囲気を知っている。そう言う人々がいて、その土地に漂着する余所者がいる。誰かを待つ人がいて、患う人がいて、その土地で死ぬ人がいる。この土地に出入りするにはボートに乗るしかなくて、なんの変化もない街に観光に来る人はいない。
この土地の人間ではない余所者は、どこを歩いても居場所はなくて、人々はボートに関心がない。でも、もともとみんな余所者じゃん。この土地も、もともと誰のものでもなかったじゃん。じゃあ、余所者ってなんだろう。
上空がボートで埋め尽くされる。
昨日まで安心していた私たちは、一体何に安心していたのだろう。そもそも人間はこうだった。私というのは本当はどこにもいなくて、余所者だからと、ボートに乗る権利がないからと、殺された彼も、もしかしたら僕だったのかもしれない。
名前のない世界。余所者なんていない。つまり、私は1人。私が私であるように、誰かが私になるのだろう。
その土地に残る人がいる。
私たちは逃げる。
私たちがボートに乗ってこの土地を出るとき。それは人々が海に背を向けるとき。
街の劇場が燃えている。
そこには、舞台も客席もない。言葉もない。時代だけが存在した。
もう、一度しか言わない。
これは、祈りなんかじゃない。
繰り返さない。
未来は、あるか。
この最後のシーンは、ボートに乗った除け者(青柳いづみ)が叫びながら海に出るところ。
舞台もない、客席もない。
そう叫ぶとき、ステージの幕は降りていて、幕から出たボートと、それに乗った3人と、観客しかない空間がある。
そんなメタ的展開で舞台は終わる。
観客はボートに乗って劇場を出たのだ。
そのボートはどこかの海岸に漂着する。
そこには、その土地の雰囲気を知る人々がいて、自分は余所者になる。
わざわざ来る人などいない、出るのも、入るのも、ボートしかない、そんな土地へ、
死んだ人もボートで流される、そんな海を渡って。
いつか、自分の後にボートで漂着する人がいる。
再び、ボートが空を埋め尽くしたとき。
また、繰り返されるのだろうか。
自分はその地に残るか、逃げるか。
そのとき、未来は?
***
藤田さんはこの作品できっと、
この世界を、どうしたら、肯定できるか。
その問いを劇場に来た人に届けた。
少しクサい手法ではあるけれど、展開の少ない2時間弱の芝居を通した後のこの問いは、直接的な綺麗事とは言えなかった。
面白い芝居を観れたらアタリ。
目当ての俳優を見れて満足。
おそらく『BOAT』はその次元ではない。
劇場に来ること。
そのものの意味について、今の藤田さんの答えだと感じた。
劇場に無いもの、劇場にいない人たちによって、世界は動かされているのかもしれない。
それを踏まえて作られた。
"終わりのないはなしを、なるべく言葉を急がないように、曖昧さを、おおく残しながら。全体が滞りなく動き続ける。まるで生命をつくる感じで。どこまで届くだろう"
(パンフレットより)
この世界を、どうしたら、肯定できるか。
考えてみる勇気を、持たないといけないのかもしれない。たまたま与えられた自分の役割に甘んじることは危険で、それは自分と世界は切り離すことができないからなんだ。
そう感じながら、劇場を出た。
***
マームとジプシーは二度目の観劇。
・複数の人、物が流動的に、そしてある程度均等に配置されて、それぞれから発せられる一方向の言葉が、流れ・揺らぎを生んていく。
・時間軸を行き来する特定の台詞(リフレインというらしい)もその流れを推し進める。
・音楽の使い方に凝っている(前回は舞台上でドラマーが生演奏をしていた)
そんな演出はおそらく"らしさ"だと思う。
大きな挑戦もしていたらしい(自分は比較できないけれど。)
『BOAT』は「芸劇×藤田2018」と題された作品群の第1弾。
そのインタビューで藤田さんは
"僕は劇作家だからちゃんと演劇を進行させるために言葉を書いてきたけど、例えば3行あるセリフを1行にできないかとか、言葉じゃないところでやれないかってことをずっと考えてて。その中で、僕がやりたいのは意味を言うためにセリフを言うことじゃなくて、叫びなんじゃないか"
"「全部風景だった」って実はそれ、演出家がみんな目指すところなんじゃないかなと思ったんです。舞台の中には、ヒエラルキーがあるものもあるじゃないですか。主人公がいたり、あるいはキャストの番手が歴然と決まっていたり。それはそれでいいと思うんだけど、プレイハウスのような抜けのいい空間って野外フェスのような感じで、すごく気持ちいいものだと思うから、「この人が観たい」じゃなくて「この人々が観たい」「この風景が観たい」って感じになったらいい"(https://natalie.mu/stage/pp/boat)
と話している。
物語を縁取る言葉を削って、戯曲だから、という流れを抑えた作品だとは感じた。
これは、ただの "らしさ" ではなかったらしい。
たしかに、『BOAT』に大きな展開はない。あらすじで説明された内容が全てだった。
ボートが上空を埋め尽くすとき、実際にボートを釣り上げたり、大きなパネルを流動的に動かすことでシーンを作り出すような演出も、広いプレイハウスならではのものだった。
***
「芸劇×藤田2018」の第2作として、秋に『書を捨てよ町へ出よう』が公開される。映画・小説を見ても、まだ自分の中に落ちついていない寺山修司の代表作。
しっかり予習して、また劇場に行くのを楽しみにしてます。
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