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なにがどうなるかなんて、分からない。

 写真に撮られるのが大キライなのに、その写真だけ持って出た。
 それは、保育園のときの写真。友達が九人と、その真ん中に園長先生が並んでいる。みんな笑顔だし、私が記憶する限りその笑顔は本物だった。笑顔にニセモノがあるなんてまだ知らなかったときの、わたしが写真をキライになる前の写真だ。
 そんなものを一人暮らしを始めるという日に、御守りみたいに持って家を出る。困ったときに悩みを聞いてくれる、なによりご利益のある御守り。

 わたしがキライなのは、嘘が写っている写真。
 カメラマンの掛け声に合わせてしまう自分が大キライで、正直に笑い、素直に楽しそうしている人たちの隣に、わたしは相応しくない。だから、そこからは一歩離れて過ごすことにしている。
 でも、もしどこかに写真を取られた瞬間を本当に消し去ってくれるカメラがあるとしたら、そんな写真には写ってみたいのかもしれない。
 つまらない時間を切り取るカメラが、どこかにあるとするなら。

 でも、そんなカメラに何度も撮られたら、本当につまらない時間が消えてくれるのだろうか。いつも「つまらない顔」をして映る写真になんの意味があるのだろう。もし、その次の瞬間もつまらない顔だったら? いつになったら、その写真は撮り終わるのだろうか。
 そうやってつまらない顔を自分に貼り付けたまま時間を削り続けたら、それが普通の顔だと言い張って、撮影を切り上げるのだろうか。わたしは、その時どうするのだろう。
 だったらいっその事、嘘の笑顔をでいようか。

 スマホのカメラを自分に向けてシャッターを切ってみる。時間は、今までと同じように規則的に流れている。
 すこし安心して、笑った。
 先のことなんて分からない。後悔したら、改めればいい。
 一度決めたことを変えちゃいけない、そんなルールは無いのだ。
 

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雨音ムッツ
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