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902号室の記憶

祖父の手は、まるで乾いた樹の根のように、しっかりと僕の手を掴んでいた。
92年を生き抜いた指先には、まだ確かな熱が宿っている。

肺炎で衰えた呼吸が、部屋の静寂を震わせる。
それでも、その握力はわずかに強く、まるで「まだ終わりじゃない」と告げるようだった。

祖父の目の奥に、声にならない言葉が灯る。

「おれは、まだ生きているのだ」

その瞬間、僕の中で遠い記憶が弾けた。

祖父はよく言っていた。
「じいは、こんなに孫に囲まれて幸せだ」
子供好きで、人間味あふれる祖父らしい言葉だった。

幼い頃、祖父の家のそばの川にサンダルを落としたことがある。
僕が泣きそうになったとき、祖父は素早く網を持ち出し、軽やかにすくい上げてくれた。
「あったぞ」と微笑むその姿は、頼もしく、まぶしかった。

あの頃と違い、今の祖父は病室のベッドに横たわっている。
もう川に入ることはできないし、僕のサンダルを拾ってくれることもない。
それでも、僕の手を握る祖父のぬくもりは、あの頃と変わらなかった。

僕もかつて肺炎になったことがある。
呼吸ができないもどかしさ。
動かしたいのに動かせない體(からだ)。
あの苦しみを思い出すと、祖父が今どれほどの状態にあるのか、痛いほどわかる。

それでも——祖父はまだ生きている。
僕もまた、この體でできることがある。

92歳。
僕の年齢のおよそ3〜4倍。
その人生には、それなりの深みがあり、四苦八苦したときもあれば、喜びあう幸福も味わっただろう。

そして僕も、今まさにその味わいの最中にいる。

続く……

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アシカ『意識のクオリア』名無しの369
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