#恋人を喪った安田短歌 を分析する
※この記事は2018年にWeb上で行われた安田短歌展で掲載したものの再掲です。
2016年9月19日,#恋人を喪った安田短歌 が誕生した。
#恋人を喪った安田短歌 とは,映画『シン・ゴジラ』の登場人物,安田龍彦(演:高橋一生)の恋人がゴジラの放射熱線によって2016年11月7日18時30分頃に亡くなってしまったのではないか,という妄想を通して詠まれた短歌群であり,Twitterのハッシュタグを通して今もなお新たな作品が投稿され続けている。その総作品数を知るものはいない。なお,安田短歌会によって『安田龍彦は喪われた恋人の夢を見るか?』,『ジ・アート・オブ・ヤスダタンカ』の2冊の同人誌が文学フリマに着弾している。
2冊目の同人誌,『ジ・アート・オブ・ヤスダタンカ』を振り返ってみよう。本書の構成は,巻頭言,目次,わたくしLatteによる論考,安田タンカラー(安田短歌の詠み手である)から安田タンカラーへリレー形式で10首他薦を行う感想戦,新作短歌の掲載,参加者アンケートとなっている。
本書は,それぞれの詠み手の創作方法やこだわり,「それぞれの思い描く安田と恋人」が,自己と他者による2つの目で読み解かれたものである。また,拙文では,「安田短歌はそれぞれの詠み手が経験した『あいまいな喪失』のトラウマを無意識下で再演し,短歌という形で文学的に昇華したものではないか」という論考が成されている。
同じハッシュタグを共有していても,ひとりひとりに「それぞれの安田」がいて,「それぞれの恋人」がいる。
また,角川短歌10月号において,歌人・山田航氏が安田短歌を紹介してくださったことも記憶に新しい(といっても1年前なのが恐ろしいが)。以下に一部引用する。
参加者は「未来」所属者からほぼ初心者まで色々いるようだが,一人称を「安田」で共有していながら文体はそれぞれバラバラである。いってみれば特定の状況設定を共有したうえで,「挽歌」というテーマ競泳をしている。
共有されている状況設定は上述した通りである。では,ハッシュタグ以外で安田短歌を安田短歌たらしめているものは何か?いま一度,個々のタンカラーから安田短歌という現象そのものに目線を変えて考察してみたい。#恋人を喪った安田短歌 がついていなくても「安田短歌っぽい」と感じられる短歌を(それぞれの詠み手の個性を抜きにした)AIが作ることは可能なのか?
煽ったはいいが,残念ながらわたしはAIを使うことができない。さらに残念なことに,今日まで2年間の安田短歌はすべてデータベース化されてきたわけではない。そのため今回は,2017年8月5日時点で詠まれていた安田短歌2904首を分析対象とし,計量テキスト分析を行う。分析ソフトはKH coder 3を使用する。(ソフトについては以下リンクを参照されたい)
http://khcoder.net
2904首は,90人のタンカラー(アカウント数)によって詠まれている。投稿短歌数でトップに躍り出るのは神山六人氏(@1236_dominion)の698首であり,第2位の朝胡氏(@asahisa22)の263首を大きく引き離す。
さて,実際に安田短歌の分析に取り組んでいこう。
今回の分析では,5949個の異なり語数を抽出し分析対象としている。出現回数の平均は3.62回(標準偏差=16.86)である。最も多く出現した単語は「言う」(146回)であり,出現回数順に並べたところ「安田」は100位(20回)だった。
どのような語がどのような語と同時に用いられる傾向があるかを調べるために,共起ネットワーク分析を行った。ここでは,「安田」という単語を入れるため最小出現数を20に設定し,共起関係が強い(Jaccard係数が高い)上位60の線を描画する設定で分析を行った。結果(サブグラフ検出(媒介))は以下の通りである。
円の大きさは出現回数の多さ,線の太さは共起関係の強さ,線上にある数字は係数,色はネットワーク上で相対的に強く結びついているグループを表す。なお,円と円の距離は関係の近さを表すものではない。
さらにここから,媒介中心性を分析する。媒介中心性とは,各点が他のすべての点に最短経路でアクセスするフローが存在したとして、最もフローが集中する点に注目するものである(棚橋,2012)。結果は以下の通りである。
「朝」「来る」という単語がこのネットワークの中心にあることが見て取れる。
「朝」という語は,
うたかたのひかりのなかで待つ君の面影探す聖夜の朝焼け(@minic410)
のように,「朝焼け」「朝日」「朝露」といった複合語で使われているパターンや,
コーヒーが苦手な君に香りだけ届けるために朝の豆挽く(@ripplings)
のように,生活の一場面としての「朝」に「君」の不在を再認識するといった文脈で用いられているものが多くみられる。
ちなみに,同じ方法で名詞のみを抜き出して分析した結果は以下の通りであった。(上位30語のみ表示する)
紫の光に眩んだままの眼に怒った君の顔だけ鮮明(@hituji_midori)
紫の光に導かれ君は行ってしまった それだけのこと(@miyfko0220)
「紫」の「光」というモチーフは,「共有されている状況設定」のひとつである。
別の角度からも分析を行う。階層的クラスター分析(最小出現数40)を行い,出現パターンが似た語の組み合わせを探った。
ここで一つ,疑問が浮かびあがる。安田短歌全データ解析とはいえども,1首しか投稿していないタンカラーもいれば,1人で約4分の1の割合を占めるタンカラーもいる。698÷2904×100をしたら24%という数字が出てきた。端的に神山さん怖いよー。
投稿数が多い一部のタンカラーの作品によって,その個人の傾向が全体の傾向のように見えているということはないだろうか?
統計的にうまく計算する方法にたどり着けなかったので,神山氏をh,その他89名をl群に分け,語と外部変数の共起関係を分析してみることにした。(ハイアンドローにしたかっただけ)結果は以下の通りである。
l群から,.原井氏(@Ebisu_PaPa58)が飛び出してきた。特徴的だったようだ。
「その人のことを忘れてほしいとは思わないけど、ねえ、わかるでしょ?」(@Ebisu_PaPa58)
この結果より,「紫」という語は約25%を占める神山氏の投稿に引っ張られる形で共起ネットワークに出現してきた可能性が示唆される。
ただし,この分析は結果の係数が非常に小さい。今後があるかはちっともわからないが,自分の研究をやっている間に分析上のこの問題をなんとかする方法を思いついたら投稿するかもしれないし,しないかもしれない。10年後とかに思い出して急に分析を始めるかもしれない。
今回の分析で,「安田短歌っぽい」語の組み合わせというものは確かに存在しているということが明らかになったが,これは短歌ということばの芸術から(安田短歌の場合あまりにも過度にメタに付与された)文脈を削ぎ落とし,バラバラになったエモの破片を並べて眺める行為である。細断化されたエモの破片を記号として統計学的に繋げてみても,それは「短歌」としてはちっともエモくないかもしれない。
なんちゃって当事者研究(2冊目の安田短歌本に掲載した拙文)に,なんちゃって計量的研究(これ)を積み重ね,安田短歌とは一体何か考えてきた。2年が経過した今も,新たな安田解釈が生まれ続け,新たなタンカラーが参入し,インターネット展覧会まで行われている。このネットワークは,一体何だ。よく分からないからこそ,よく分からないものに惹きつけられてよく分からなさを楽しみ,ここまで続いているんだろうな,とも思う。
恋人を喪いながら生きてゆく平行世界に僕たちは居る
<参考文献>
樋口 耕一(2014). 社会調査のための計量テキスト分析―内容分析の継承と発展を目指して ナカニシヤ出版
棚橋 豪(2012). 準最短経路と媒介中心性 奈良産業大学『産業と経済』 25(1), 53-62.
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