『崖の上のポニョ』の構造:赤い愛、青い海、宗介
はじめに
今回は、2008年に上映されたアニメーション映画『崖の上のポニョ』の構造を見る。まずは、原作、脚本、監督を務めた宮崎駿が、本作の物語について説明している箇所を引用しつつ、簡単にどういった作品か、また、本作のキーワードは何かを考えてみたい。
筆者が指摘したいのは、太字部分である。この作品が「愛」「冒険」「責任」を描いていること、「海」がキーワードになることを念頭において構造を捉える。
「3」の反復
劇中を通して「3」の反復が見られる。以下に具体例を挙げる。この映画が子どもも楽しめるよう制作されたことを考えれば、それぞれの主要世界の人物たちが、それぞれ3人ずつでまとまっているのは、物語の分かりやすさやスムーズな展開に効果があるように思う。
宮崎駿が「崖の上のポニョ」公式サイトで「少ない登場人物」と語っていることからも、意識的に各界の人物を3人組で描いていることが推測される。3を反復させながら家族を描いた点では、核家族的表現であるともいえる。
「海」と「陸」の境界変異
境界の構造が見受けられる。この物語は「冒険」であるから、空間移動、それにともなう「境界」が多数あらわれる。同作では、海における境界は「円形」で描かれ、陸における境界は「四角形」で描かれる。以下で区別して具体例を挙げる。
海と海をへだてる境界
陸と陸をへだてる境界
海と陸をへだてる境界
「海に関する境界」が「円形」で、「陸に関する境界」が「四角形」で表されることが上記から分かる。そして「海と陸をへだてる境界」は、海の「円形」と、陸の「四角形」両方の特徴を持って現れるのである。
以下、具体的にみていこう。
・小さなビン
ポニョがフジモトの家を出て、はじめて陸へ向かう際に、ポニョはとある船の漁網に追われる。海底ゴミの小さなビンがポニョの頭にはまってしまうが、何とか漁網から逃げ出す。気を失い、浅瀬に流れ着いたポニョを宗介が見つけ、拾い上げる。
宗介が石でビンを割って初めて、ポニョは「海」から上がり、「陸」の空気に触れるのである。この小さなビンの形は細長い円柱である。底が「円形」であり、横から見ると「四角形」である。
・緑色のバケツ
宗介は緑のバケツに水を張り、その中に出会ったばかりのポニョを入れる。ポニョはバケツの「水の中」から顔を出して、はじめて「陸上」の風景やひまわり園の園児、ひまわりの家の老人と交流するのである。
家出したポニョを連れ戻しに来たフジモトは、海の波を魔法であやつり、このバケツごと海にさらう。ポニョが「陸上」から「海底」に連れ戻されるマーカーとして、海に残った空のバケツが描かれる。
その後、再び脱出を試みたポニョは、命の水の影響で人間の姿になり、100匹近い妹たちと宗介の家へ向かう。「ポニョが戻ってきたときにこの家だって分かるように」と、宗介が柵にかぶせておいた緑のバケツは風に飛ばされ波にのまれて、見えなくなる。波が引いたとき、バケツを持って現れたのは半魚人の姿をしたポニョであった。
この場面では「海底」から「陸上」に上がったことをしめす境界の目印が緑色のバケツである。そして、バケツは円柱であり、底が「円形」で、横から見ると「四角形」である。
・トンネル
ポニョと宗介はリサの安否を確かめるため出発し、トンネル見つける。入り口の壁は「長方形の石」が組み合わさってできており、全体で見ても灰色の「大きな四角形」をなしている。トンネルの穴は、やや縦にほそ長い形をしており、まるで下部の「四角形」と上部の「半円」が合わさっているようである。
そして入口の左側には「楕円形」の基盤の中に「円形」の青・赤2色の信号機がある。入り口には他にも「長方形」の扁額、標識、看板が見られる。
トンネルの向こうは海面上昇によってできた海が広がっており、「陸」から「海」へ行く構造になっている。
また、後述するが、このトンネルを通る際に、ポニョが人間の姿からだんだんと半魚人の姿に変化していき、トンネルを抜けるころにはさかなの姿になってしまう。この様子は「陸」から「海」への空間移動を、ポニョの形態変化で表現しているといえる。
「赤い」愛と「青い」海
「赤と青の反復」がある。この作品のテーマの一つが「愛」であることを念頭に捉えていく。赤と言えばポニョの身体の色である。そして青と言えばポニョのふるさとである海であろう。しかし、この例のほかにも赤をもって描かれるもの、青をもって描かれるものが劇中に存在し、上記の解釈だけでは不十分である。
赤と青の意味
劇中における「赤」と「青」の指し示すものを考えるヒントとして、崖の上のポニョの主題歌を振り返ってみよう。作詞は近藤勝也、宮崎駿である。
筆者は歌詞の太字部分に注目した。映画の主題歌では、ポニョが「赤色」であることを、先天的な体表の色素としてではなく、いずれの箇所も「恋慕・愛情」による「赤」として描いている。つまり、劇中における「赤」は「愛の象徴」として捉えるべきである。そして「青い海」とあるように「青=海」で捉えることも歌詞は許している。
赤で描かれるもの
主に、ポニョ、ポニョの妹たち、フジモトの髪色、グランマンマーレの装飾品と髪色が挙げられる。一般的に赤とは「火の色」であり「水」である海を「赤色」と結ぶつけることは難しい。そこで前述の通り「赤」を「愛の象徴」として捉える。彼らは「愛」を体現しているのである。この点は後述する。
劇中に「赤」が象徴的に描かれるものとして、宗介の血がある。
物語冒頭、ビンを割ってポニョを助けた宗介は指を怪我してしまう。ポニョが動かないので「死んだかな〜」と心配する宗介。気を失っていたポニョは、反射的に、石で怪我した宗介の親指の血を舐める。ここではじめて宗介はポニョが生きていることを確信して、崖の上の家に持って上がるのである。
つまり、ふたりの出会いに「赤色の血」が配置されている。その後、フジモトに海底の家へ連れ戻されたポニョは半魚人へ変態するが、このときフジモトは「人間の血を舐めたのか!」と驚愕する。このことからポニョの半魚人化は宗介の血を舐めたことが原因であることが分かる。
この後、命の水を浴びて人間への変態を可能にしたポニョであるが、これを受けてグランマンマーレは「このまま人間にしちゃえばいいのよ」という提案ができたのである。
つまり「ポニョと宗介の2人の愛」の成就には、宗介の「赤い血」が必要不可欠の要素であった。このことからも「赤」と「愛」の親和性が見てとれる。
青で描かれるもの
海として描かれる青以外に「青い服の反復」がある。愛情表現以外でポニョが水鉄砲を食らわせる相手は父であるフジモト、宗介の友達のクミコ、ひまわり園の老人トキの3人である。うち初対面でポニョに「デブ」「人面魚」といった悪態をつき、水鉄砲をかけられた女性はクミコとトキの2人である。2人に共通していることは白いえりがついた青色の服を着ているということだ。
ほかに存在する青い服として、宗介の母リサが濃紺のコートを着た場面がある。その後、台風が接近、波に乗って会いにくる不完全人間体のポニョを招き入れるわけだが、リサがポニョに直接触れるのは、この場面が初めてなのである。であれば、海の生き物との直接の接触を表すマーカーともとれる。
青と赤で描かれるもの
「赤」と「青」が一緒くたに描かれるものが劇中にいくつか見られる。そして、これまで通り「赤」は愛、「青」は海で捉えてよい。
その一例として、グランマンマーレの家族が挙げられる。彼女は青いワンピースを着用し、髪は赤毛、装飾品の類は赤く輝いている。彼女は海に住み、夫のフジモトや娘のポニョ、その妹たちを深い愛情をもって接している。彼女は海の生き物でありながら(青)、人間を愛してしまった(赤)。
また、フジモトは人間でありながら、人界を去り、海の生き物やグランマンマーレを愛し(赤)、海底に住んでいる(青)。ポニョの妹たちはポニョの脱走を手伝ったり、去り際にポニョと別れのキスをしたりと、非常に姉妹愛(赤)が深く描かれる。これらの要素が配色に反映されている。
また、インスタントラーメンを入れたお椀もその一例である。
ポニョが2回目の家出を成功させ、再び宗介の家へ戻ってきた際に、リサがインスタントラーメンをつくる。ポニョと宗介はこれを一緒に食べるのだが、食器は2人とも同じもので、赤と青が交互に交じる縦じまのお椀である。
ポニョははじめて人間体で宗介と出会えたのであり、その愛は以前にも増して大きくなっていることが推測される。しかしこの擬態は不完全である。ポニョが発電機のトラブルを直す際に魔法を使い、一瞬、半魚人の姿になったことから分かる。この時点でポニョは海の要素(さかな・半魚人)を持ちながら、人間を愛してしまった生き物である。
つまりこの場面は、不完全な人間体である海の生き物が、恋愛の妙味を心から楽しんでいるのだ。この構造を描くために、お椀は赤色と青色であった。
さらに、ポニョと宗介が出会った赤ちゃんもその一例である。リサの安否確認のため、ポニョと宗介がポンポン船で家を出発して出会う最初の人物たちに一組の夫婦と赤ちゃんがいる。
この夫婦は宗介と顔見知りで、親しげに話している。ポニョは、はじめて見る人間の赤ちゃんに興味津々の様子で、スープやサンドウィッチを赤ちゃんにあげようとする。当然、赤ちゃんはまだ離乳食は食べられないので、その母が食べるのだが、ポニョは「赤ちゃんにあげたの!」と怒ってしまう。母親は「私の食べたものは、おっぱいになって赤ちゃんが食べられるようになるの。私が頂いてもいい?」と返し、ポニョは納得する。再びポンポン船を動かして出発した宗介とポニョだったが、赤ちゃんが泣きだしてしまう。ポニョはポンポン船から降り、海の上をとび跳ねて、ボートにたどり着く。これまで人間体だったポニョが半魚人の姿になり、ぐずる赤ちゃんの顔をわしづかみにして自分の顔をくっつける。すると赤ちゃんは茫然として泣きやんでいる。海の上を跳ね、ポンポン船へ戻ったポニョは人間体であり、赤ちゃんは先ほどと打って変わって笑顔がこぼれるほど上機嫌である。
このシーンの赤ちゃんのいでたちは「青色の服」に白色のよだれかけであった。そして白色のよだれかけには「赤い魚」の刺繡がある。
ポニョは人間の赤ちゃんを一目で気に入り、母性愛ともつかぬ「愛情」をもって接していることから「赤色=愛」の要素を満たす。そしてぐずりだす赤ちゃんを彼女なりにあやしたときに半魚人の姿であったことも思い出せば「海の生き物」の力を使った対象としての赤ちゃんが「青い服」を着ていることも納得できる。
最後に、トンネル入り口の信号機を挙げて終わりたい。
グランマンマーレは、自分と同じように「海の生き物でありながら、人間を愛した」ポニョを人間にしてしまうことを思いつく。フジモトを遣って宗介とポニョを海底の大きなクラゲのドームへ連れてこさせ、そこで宗介の愛を確かめる算段である。
もし宗介が「さかな・半魚人・人間体」のポニョのいずれかでも嫌ってしまえば、ポニョは「泡」になって消えてしまう。しかし、宗介が姿かたちに拘わらずポニョを愛するのであれば、ポニョは完全に魔法を失い、人間になるのだ。
この試練へ(意図せず)2人が向かう際に、トンネルを通ることは前述した。この場面の少し前から、ポニョはずっと眠たげだった。トンネルを前にして、「ここ、キライ…」と嫌がるポニョだったが、宗介に諭され2人で中へ入っていく。
ポニョはトンネルを進むにつれて人間の姿から徐々に半魚人へと姿を変えていき、足取りもおぼつかなくなってしまう。トンネルをぬける頃には完全に意識を失い、さかなの姿になってしまう。あわてふためく宗介。そこにフジモトが現れ、「ポニョを起こさないように…」と注意する。
このことから、このトンネルはポニョの本当の姿を宗介に見せるため、もしくはポニョを眠らせ抵抗する力を奪うために、グランマンマーレ、あるいはフジモトが魔法をかけたトンネルであったことが推測される。
このトンネルの入り口に赤と青2色の信号があったことは前述した。信号機の本来の意味は「赤=止まれ」「青=進め」である。
しかし、このトンネルは最後の試練への入り口である。「赤=人間との愛」つまり、愛を選び、人間が応えればポニョは生き残る。そして「青=海の生き物」つまり、ポニョが海の生き物であることを理由に、宗介から受け入れられなかった場合、試練に失敗し、泡になって死ぬ。
魔法をかけたのがポニョの親であるグランマンマーレまたはフジモトであることを考えるならば「赤=ポニョが人を愛して生きる道=進め」「青=海の生き物にもどる道=試練の失敗・ポニョの死亡=止まれ」とも考えられる。海中で息ができる、老人が動ける、月が近い、太古の生き物で溢れている。概念が反転した後半世界において、この信号もまた、一つの反転である。
そして「青」と「赤」の信号には、本来「黄色」がある。海の生き物であり、ときに危なっかしいポニョと、あたたかい愛をはぐくんだ、宗介の色である。