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ディスクと1と0の相克:ASIAN KUNG-FU GENERATION『マジックディスク』

今回は、アジカンこと、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『マジックディスク』という曲を考えてみる。歌詞は難解とまではいかないが、やや解釈が必要であり、それに、なにより格好いいのである。

現代日本が、アナログからデジタルへの移行期であることに異論はないだろう。あらゆるものが、その物的形態から離れて電子の世界へ行こうとしている。音楽業界もまたしかりである。

廻る君と今 エイトビート
ただし役目は終わりさ 銀のディスク
ほら退けよ そこ退けよ
踊れ 時代と寝るようなダンスビート
つまり壱と零の群れ
ハードディスクこそ意味を そして分析を
ジャスト今 君の希望
ロストほら 僕の理想

1番歌詞

ここには「君の希望」と「僕の理想」が描かれているはずである。そして、ジャスト希望は、ロスト理想なのであるから両者は併存しない。「君」と「僕」が何を意味するかは後述する。
対照的に描かれるものとして「銀のディスク」と「1と0の群れ」が挙げられる。
「銀のディスク」は「廻る君と今 エイトビート」を奏でるも、何者かに「ただし役目は終わりさ」「退けよ」といわれる。「1と0の群れ」は「時代と寝るようなダンスビート」を奏で、「踊れ」と呼びかけている。
形ある「銀のディスク」の役目は終わり、新しい時代へ軽薄に即応するようなダンスビートを刻む「1と0の群れ」が描かれており、上記の何者かとは「1と0の群れ」であった。

そして「僕の理想」が描かれれる。「ハードディスクこそ」とは、「「1と0の群れ」ではなく」という前段が意識されており「意味と分析」は、重要かつ必要なものには必ずあるべきものである。しかし、これは「君の希望」によってロストされる。「君の希望」は「1と0の群れ」の側に立つものであるからである。
ただし、このとき「銀のディスク」は「廻っている」ということは重要である。「君」は「ディスク」と「1と0」を併用している。

廻る君とまだ エイトビート
ただし役目は終わりさ 銀のディスク
押されても ここ退かねぇぞ
時代を貫け エイトビート
群れる羊の最期さ
ハードディスク増設を さらに増設を
ジャスト今 君の希望
ロストでも 僕は行こう

2番歌詞

2番では「銀のディスク」は「まだエイトビート」を奏でており、1番同様「1と0の群れ」に「ただし役目は終わりさ」といわれる。しかし「銀のディスク」は「退かねぇぞ」と強気である。形ある「銀のディスク」の役目は終わりつつあり「群れる羊の最期」と圧倒的弱者として描かれながらも、古い時代を貫き通そうとビートを刻んでいる。

そして「僕の理想」が描かれれる。「ハードディスク」とは、CDなどのほか、その再生機器などを含めた「増設」であろう。しかし、ここにも「1と0の群れ」の側に立つ「君の希望」があり「僕の理想」はロストするも、「僕は行こう」と何らかの継続意思を表明している。

両手に愛とナイフ しけた顔をぶら下げて
守るべき形などない それはいつか消え失せて
折れそうでも ほら僕は此処にいて
遠くても そう君を想うよ
ジャスト今 君の希望
ロストほら 僕の理想
ジャスト今 君の希望
ロストでも 僕は行こう
特に名前のない この喜びを集めて
いまひとつ抑揚のない 日々に魔法を仕掛けて
折れそうでも ほら僕は此処にいて
遠くても そう君を想うよ

サビ~ラスト歌詞

「銀のディスク」に理想を持つ「僕」と、「1と0の群れ」に立つ「君」が示されてきたが、最後には「守るべき形などない」と、アナログやデジタルといった形態よりも、重要なものにフォーカスする段階にきている。
その真意は「遠くてもそう 君を想うよ」に集約されている。「君」とは、「僕」とは誰であろうか。

まず、「両手に愛とナイフ」を持ち「しけた顔をぶら下げて」いる人物がいる。この人物は「いまひとつ抑揚のない日々」を過ごしているからこそ「しけた顔」なのであろう。
そして、さらにこの人物に「魔法を仕掛ける」人物が出てくる。誰であろうか。
ここで曲名『マジックディスク』が意味を持ってくる。「魔法を仕掛ける」のは「ディスク」の側であり「ハードディスク」に意味・分析・増設を求める理想を持っている「僕」である。そして「仕掛ける」という表現から、ディスクに音楽を吹き込むアーティスト側であることが分かる。つまり「遠くても君を想うよ」という呼びかけは「僕」アジカンから「君」へなされたものである。
「君」と「僕」には、距離がある。それは物理的な距離もそうであろうが、デジタル・アナログに対する態度にもいえる。
「君」は「両手に愛とナイフ」を持ち「しけた顔をぶら下げて」「いまひとつ抑揚のない日々」を過ごしている。「君」とは、「僕」の知らない、遠いどこかの、つまりはリスナーである。リスナーは「1と0の群れ」を希望し「僕の理想」と衝突する。リスナーの希望がジャストしたとき、アジカンの理想はロストするのである。
重要なのは、それでもリスナーの「銀のディスク」はまだ「廻っている」のである。
リスナーが「ディスク」と「1と0」を併用することは、「ディスク」側のアジカンにとって「愛とナイフ」という二面性で表現されるのである。
「僕の理想」はロスト寸前である。現在の音楽業界は「ディスク」側のやや劣勢であろう。

「折れそうでも ほら僕は此処にいて遠くても そう君を想うよ」

「ディスク」と「1と0」の相克から、アジカンの音楽にかける矜持が、いま君に呼びかけている。

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