スーパーカー歌詞考察#3 『LASTSCENE』における「cast」「audience」「i」の関係性
最近スーパーカーというバンドにぞっこんだが、とくにお気に入りの「LASTSCENE」という曲について所感を述べたい。
この曲はスーパーカーのラストライブの最後を飾った。「TRIP SKY」を演奏し終わった4人が舞台からはけたあとに、この音源が流されたのである。いしわたりからナカコーへの、私たちリスナーへの「最後の手紙」である。
歌詞については公式YouTubeアカウントのMV英語字幕が分かりやすい。
つまりこの歌詞には ①cast ②audience ③ i の3者の関係が描かれている。
そしてこの3者を包含するかのように「ただ静かに夢を見ている」④everyoneが描かれる。それぞれについて見ていこう。
①cast
ステージでは、①castつまり演者が「ジ・エンド」など気にも留めず舞台を続行している。客が眠った後のステージでも「夢のようなストーリー」を「羽のようなダンス・ステップ」で軽やかに演じている。
②audience
①castのステージが「夢のようなストーリー」にも拘わらず、ステージが「ジ・エンド」を通り過ぎたからであろうか、すでに眠ってしまっている。
③ i
i は「袖に独り立って」「出番を独り待っている」。
④everyone
すでに承知されていると思うが、①②③はそれぞれ別人であり、しかし全員が「ただ静かに夢を見ている」点で共通している。
では具体的にこれらの主語が、一体誰を示すのか考えるために、歌詞中の「ジ・エンド」を「スーパーカーの解散」として捉えたい。
②audienceはそのまま「スーパーカーのファン」であるとしたい。
「ジ・エンド」を迎えた時点で「スーパーカー」を聴くことはできなくなる。過去の映像や音源でしか出会えず、ステージを目の前に「眠っている」様子などはまさにその暗喩であるといえる。
そして①castと③ i であるが、大きな相違点がある。
まず①castは「ジ・エンドを素通り」できる演者であるといえる。「スーパーカーの解散」を「素通り」して「夢のようなストーリー」を演じられる人である。
対して③ i は「ジ・エンドを素通りした」①castの「ステージ」を見ながら「袖に独り立って」「出番を独り待っている」。
つまり③ i はステージに出ようと思えば出られる人である。しかし「ジ・エンド」を迎えた今、①castとは同じステージに立つことはない。この①castのステージが終わった後に「独り」でステージに立つ可能性はある。
そこで「消えてしまったストーリー」とは何かという疑問が生じる。
①castは「ジ・エンドを素通りした」まま「夢のようなストーリー」を演じて続行している。このことが③ i の「ストーリー」が「消えてしまった」ことに関係しているのだろう。
③ i が「袖に独り立って」「出番を独り待っている」という現在進行形と、ストーリーが「消えてしまった」という過去完了形から考えると様々な類推が可能である。
すなわち、
「ジ・エンド」が原因で、すでに「ストーリー」は消えてしまっていること、
「ジ・エンド」が③ i を「独り」にさせたこと、
いま、この後、ステージに「独り」で立つ可能性があること。
勘のいい人はもう、私が何をいわんとしているか分かるはずだ。
①castはスーパーカーの解散に際して、彼自身の心的影響が③ i ほどではなかった人。なぜなら、スーパーカーの解散に際して、そのまま夢のようなストーリーを描き、羽のようなダンス・ステップを舞ったからである。
③ i はスーパーカーの解散に際して、孤立した人。スーパーカーの解散に際して、ストーリーが消えてしまった人。
「バンドの解散」によってストーリーが消えるということは、消えたストーリーとは「バンドの存続」そのものであり、③ i はそれを願っていた人、かつステージに出られる(①castと職業的に近しい)人である。
スーパーカーは解散に際して、非常に複雑かつ微妙な混乱があったと聞いている。
音を描いた中村弘二。スーパーカーを辞めたかった。
詞を書いた石渡淳治。スーパーカーを続けたかった。
彼らに魅入った私たち。スーパーカーを聴いていたかった。
みんなそれぞれ 今もどこかで ただ静かに 夢を見ている。
「LASTSCENE」は「幕引き」を意味する。
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